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好きな人達の「ファン」になってしまう話
4年くらい前、急に色々な人を「好き」だと自覚した時があった。
この時は「自分はポリアモリーなのか?」とかなり悩んだものが、今になって整理できたので書き残そうと思う。
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上述した「好き」は確かに「好き」なのだが、感覚としては「ファン」に近い。自分と違う思想で、自分と違う人生を毅然と歩むその姿に敬意を抱く、それが表れたものがこの「好き」だった。それは自己視点だけからの世界から脱却した瞬間でもあった。
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自分は大学4年生になる頃までいわゆるロジカルクソ野郎で、正論のような何かで人を殴りつけ、屈服させながら日々を過ごしていた。小賢しく頭が良かったのだ。
そんな中、部活の役員選挙で主将2期目に立候補したのだが、立候補が一人の信任投票にも関わらず【不信任率30%】を受けることになる。1期目の旗振り、僕の思想に対する、明確な不支持表明である。
これは自分にとって劇的な経験で、このとき初めて「あ、正論って必ずしも『善い』ものではないのか」ということを認知することになる。
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それから人の話、つまりは他者の思想に耳を傾け、自分と違う思想/視点を獲得していくことになる。それまで「自分は誰よりも考えているな」などと自負していたものであるが、ここでようやく人は自分と同じベクトルで思考を積み重ねている訳ではないと知ったのだ。
これが大きな転機とだった。
以来、人と話し、飲み、語らう度に「うぉお…かっけぇ……」と感じるようになり、たちまちに「好き」な人が増えてしまったのである。これは男女問わずであったが、特に女性、それまで「一人の女性を愛し尽くしなさい」という家訓に縛られていた僕にとっては価値観の完全なる瓦解であった。
(当然そのような衝撃は受け止めきれるわけもなく、「自分は一人を愛することはできない人間、もしくはポリアモリーなのではないか?」という疑念に沈んでいったのだが、それはまた別の話)
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本題に戻ろう。
今ではそんな自分も理解し、受け入れることに成功したため、すっかり素直に人に「好き」と言う人間になってしまった。この好きはいわゆる"恋愛的"なものではなく、尊敬から湧き出る「好き」である。
それは完全に「ファン」であり、彼らとコミュニケーションを取るだけで、その尊さを吸引し明日を生きる糧としている。ありがてぇ。
彼らと対面している間は、その尊敬から自己を嘘で取り繕うことも許せず、全力の裸のままぶつかって話すことが出来る。そして彼らと対等に語り合える関係で在りたいという気持ちから、自分を律し、高める原動力が生まれている。
またそんなものが自分の「好き」の根源なので、「好き」に対する見返りへの欲求は全くない (ここがあまり理解されないところではある…笑)
あるのはひたすら「対等な友人でいてくれてありがとう」という感謝の念だ。
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連休の中日、一人北海道の片隅で酒を飲んでいたら書きたくなってしまった文章でお目汚しである。
まあでも自分がふらっと声をかけ、「酒を飲もう」と誘う相手はみんなこんな「好き」な人達であって、これからも一緒に酒を飲んでくれるととても嬉しい。本当にありがてぇ。