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人と向き合う意味が少しわかった話

ここ最近、「思考が成熟したな」という実感があり、これはどこから来ているのをかを考えてみた。

要因は複合的なのだろうけど、きっと大きいのは9月頭に実施した研究報告会だ。
大学4年間に、会社で研究開発に従事して2年半、研究報告の機会は数多にあったが、今回のものはこれまでとは違った。初めて「質疑応答」が待ち遠しかったのだ。

技術開発の具体策・方針の手がかりもなく、霧中模索で進めてきた道程を振り返り、言葉で整理する作業はひたすらにしんどかった。
スライド案をまとめ、上司に説明する度に「自分でもなに言ってるか分からないな…」と持ち帰り、ロジックと言葉を見つめ直す。こうして1ヶ月、死ぬ気で「人に伝えること」と向き合い続けた。

そして、最後の最後、報告会2時間前に「あ、言葉になったな」と腑に落ちた。自分の理解、言語化能力の範囲で、言葉もロジックもストーリーも整理しきったのだ。これが自分の全力、言ってしまえば裸の自分だ。

そして、報告を終え、質疑応答の時間になった時に感じていたのはワクワク感だった。自分の理解の範囲も、自分の理解が及ばない未知も、包み隠さず人に理解してもらえたと感じた。後ろめたさや恥ずかしさは微塵も無く、「これが自分の限界、この先を切り開く視点をください」という気持ちだけがその場にあった。ここまで無垢な感覚は初めてだった。

自分は何故人と関わり、向き合うことに固執するのか、このことを何年も考え続けてきた。
今回の経験を通して、人と向き合うことの本質の一端を理解したと思う。まず自己理解のための言語化に死力を尽くして裸になり、それでも分からないことを聞くために、伝える言葉を紡ぎ、人と向き合うのだ。それが人と向き合う意味でもあり、理想像なのだろう。

これ以降、人と話す際に「私は裸になれているだろうか」「相対する人が、理解できる言葉を紡げているだろうか」という意識が常に在るようになった。この意識は人に伝わり、人も裸であろうとしてくれる。不格好であろうと、とても素直なコミュニケーションだ。

こうした意識を、自身が「思考が成熟した」と捉えているのだろう。「成熟とは?」という追求も面白そうだが、一旦寝かした方が良さそうだ笑

人はレビュー(質疑応答)がないと自分の輪郭を認識することが出来ない。なので、こうしてつらつらと思考を書いたり、人と裸で話すことで、自分の輪郭は一人称、二人称でもクリアになっていく。自己探求など、自己満足でしかないが、それでも一生続けていきたいと強く思える、自分は結構好きだ。

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