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自己の「実在」と「認識」について
久々に面倒くさそうな文章を書こうと筆をとったら、詰まってしまった。
その原因は、広く議論の前提となる「自己」に関して定義をしていないからと考えた。
ここで一度、自分の考える現行の定義を整理する。
〇 自己について
いままさに存在している自分。それは身体であり、脳の働きにより構成される意識の集合体である。
「実在する自己」と言い替えていいだろう。
「実在する自己」に対し、「認識する自己」がある。
「認識する自己」は、意識により「実在する自己」を評価し、再構成した姿である。
人は、自分のことは自分が1番分かると思いがちだが、実態は逆だろう。
まず、「意識を、意識により客観評価すること」自体が困難であり、況や身体に至っては、最も意識が顕在化するであろう自分の顔を生涯見ることも叶わない。他人の背中のホクロの数は数えられるが、自分の背中のホクロは見ることも叶わないのである。
このように「実在する自己」は「認識する自己」と近いようで、実際は遠い関係にある。
「自己」を取り巻く課題の多くについて、この認識は重要となる。
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※余談
自己の「実在」と「認識」を合わせるプロセスが「統合」であり、統合に失敗すると「実在する自己」の実在の認識できず、統合失調・自己分裂に陥る。と、今のところ理解していますが、違うという指摘があれば頂けると幸いです。
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⇒ 公認心理士の友人から「自己認識の失敗と統合失調の発祥の因果は解明されていない。病名と実態が乖離しているので、誤解を受けやすい」という指摘がありました。
Twitterでこんな話も流れてきました。
https://twitter.com/stdaux/status/1262266773715341312?s=19
境界のない連続的な領域であるけど、線を引かなければ議論が成立しないのが人文の難しいところですね…
〇「認識する自己」構築には、本人と他者のどちらが優位なのか?
上記テーマについて、しばけんと議論したのでメモとして転記します。
(最後は僕の問いで脱線しています)
ーー
〇しばけん
この中で「人は、自分のことは自分が1番分かると思いがちだが、実態は逆だろう。」という箇所がありますが、
逆というのは、「他人の方が自分のことを分かる」という意味なのか、
「自分では分かるようでいて、意外と難しい」という程度を指しているのか気になりました。
〇田中
他人の方がわかる、だね。
客観的に自己を再構築するしたのが「認識する自己」。その認識に、他者意識を通すか、自己意識を通すかの違いだけど、どちらも1回媒体を通して情報がぼやけるのは避けられないし、だとすれば他者意識の方が客観に近いと思います。
自己認識の場合は、解釈を1回減らせるから歪みが減りそうだけど、自己意識内でも「言語」による情報の限界には縛られるので、そこの影響はそこまで大きくないかなと思ってます。
〇しばけん
なるほど。他人の方がわかる、ですね。
僕はここに引っ掛かりを感じます。というのも、自己意識を通した「認識された自己」のほうが「実在する自己」の実態に近い(客観に近い)と思うからです。
ここでは自己をAさん、ある他人をBさんだとします。
そして両者はAさんの「実在する自己」を想像して「認識された自己』を描くことにします。
ここで重要なのは、「実在する自己」と行動(表情等含む)は因果を持っていることです。
Bさんが、Aさんの自己を認識する手掛かりは「客観のAさんの行動」です。(ここでは脳波の共鳴等は起きないものとして考えています)
対してAさんが、Aさんの自己を認識する手がかりは「主観のAさんの行動」+「行動と関連ある意識」です。
基成さんの考えで言えば「客観のAさんの行動」は「主観のAさんの行動」より情報としてより“正しく"、
かつ、「行動と関連ある意識」の情報はそこまで大きくないということになると思います。
しかし、「客観されるAさんの行動」のサンプル数は明らかに「主観のAさんの行動」より少なく、
また、「行動と関連ある意識」はBさんによる推測より、Aさん自身の自己認識の方が精度が高いです。(他人はしばしば見当違いな解釈を犯します)
そうなると、やはりAさんによるAささんに対する認識、すなわち、自己が構築した「認識された自己」の方が「実在する自己」の実態に近いと思うのです。
〇田中
ちょっと考えてみた。
AさんもBさんも、Aさんの「認識する自己」を構築する能力が同水準だった場合、入手出来る情報量が多いAさん本人の方が優位なのは間違いない。
厄介なのは、A→AとB→Aでは必要な能力が異なるところ。
前者は取れる情報は多いので、実在の自己から如何に意識を切り離し客観的な自己を構築できるかの能力が大きく依存する。
後者は情報が既に客観なので、それを如何に素直に組み立てるかの能力に依存する。
と思ったけど、ここまで書いたところで前項の能力は「如何に第三者俯瞰で像を構築できるか」という目線だと共通に思えてきたので、A本人が優位かも。
自己ー自己の切り離しと、自己ー他者の切り離しだと前者の方が難しくは感じるけど、ある一定以上の能力があると、その難易度はそんなに変わらない気がする。
なので、
・両者に客観的な像を組立てる能力が備わっている場合はA本人
・ない場合はB
が、Aさんの「認識する自己」をより「実在する自己」に近く構築できるかなと思いました。
〇しばけん
確かに、自己像を客観的に構築する能力が弱ければ、他人の方がより客観的に構築できますね。
世の中にカウンセラーの需要があるのは、認識する自己と実在する自己の乖離が大きい人がいるからなのかもしれません。
実際、自分で自分を客観的に評価する行為は、ある種の勇気も必要になりますし、
どこかで自分を破綻させないためのブレーキがかかっているように感じます。
〇田中
勇気ってなんだろうなと考えたんだけど、リスクと報酬を客観的に定量比較する能力なんだよね。定量化できていない場合、リスク回避(=勇気がない)が優位になるのは生物だし仕方がない。
誰にでもなく、自分にとって「正しく」生きるためには、客観的な定量評価能力というのはとても汎用性が高いと思います。
〇しばけん
なるほど、リスクと報酬を同じ評価軸に乗せにくかったり、そもそも霧の中にあるときに安牌を選ばせる生物的機構が不安であり、そこでリスクを取って報酬を目指すのが勇気ですね。
客観的な定量評価能力が高ければ、リスクと報酬を天秤にかけやすく、生存により「合理的」な判断をとりやすくなるのも頷けます。
ーー
以上