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社会問題の謎解き?

年末年始、読んだ本で、なるほどそうだったのかと目から鱗な気持ちになった。モヤモヤしていたものが、すっと腑に落ちて、なんだこういうことだったのかと納得した気分になれた。

本題に入る前に話がだいぶそれるが、若い頃旅行中に持っていた数冊の文庫本で、移動中暇つぶしに何度も何度も読んだのに、開高健の「輝ける闇」というベトナム戦争従軍記者が主人公の話があった。そこにもこんなくだりがある。

記憶で書くので曖昧なところあるが(ちゃんと本読み直せよ!という感じですが)、実際に開高健はベトナム戦争末期に米軍についてジャングル戦の従軍記者をやっていて、その体験が色濃くでている小説。

当時は、北ベトナムはソ連や中国の共産党政権の指示で動いていると考えられて(実際そんなことはなかったのだが)、ドミノ理論でアメリカをはじめとする西側諸国はベトナムの共産化を阻止すべく南を支援しないと、ドミノが倒れるようにアジア全体が共産化してしまうという考えのもと、米軍がとてつもない人命と資源の浪費の泥沼の長期戦を戦っていた。主人公は、サイゴンで取材して、米軍側、ベトナム側いろいろな意見を聞いていくが、ベトナム戦争がなんのための戦争なのか、出口はどこにあるのかがわからなくなる。

ベトコンが潜むジャングルにいく南ベトナム・米軍合同小隊に従軍記者として随行する。死にそうな目にあうが、彼はそのとき持っていた文庫本をジャングルの野営キャンプで寝転がって読む。19世紀の米国の文豪マーク・トウェインの小説『アーサー王宮廷のコネティカットヤンキー』。内容はSF小説のような荒唐無稽なものらしい。

中世の英国アーサー朝にタイムスリップした現代のアメリカ人が、良かれと思って近代の科学知識で王室にいろいろアドバイスするが、最後は、権力争いに巻き込まれ死ぬ。

その小説をベトナム戦争の従軍中の野営キャンプで読んでいて、主人公は悟る。

ベトナム戦争の背景と結末が、その100年くらい前にかかれた小説に全部明快に書いてある。19世紀にこのアメリカの文豪はアメリカ人の本質を見抜いて、その理想主義と挫折の架空のドラマを書くことで、ベトナム戦争への関わりとその結末を予言していたかのような本を残していた。

そんなくだりがあるのが開高健の「輝ける闇」だった。本を紐解いたら、そこに現実の問題の謎解きがあったとか、小説とか映画とかフィクションの中に、現実の社会問題の答えが明快に書いてあったというのは感動的でおもしろい。

年末年始読んだのが、この本: 森本あんり「反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体―」(新潮選書)

これが、目からウロコだった。フィクションではなくて、元が学術書の学者による一般向けの教養本だったが。

宗教学者による、主に米国の宗教・社会・歴史についての本。トランプ現象の背景が、どんな政治評論家の本よりも、明快に書いてあった。今日の米国の社会の分断の問題の背景の謎解きが、ここに書いてあった。

この本、トランプ政権誕生で評判になった本だったのかな?不覚にも未読だったのを、やっと読んだ。

詳細は単行本なので本を読んで頂くのが一番だが、こんな風にざくりと理解。以下、抜書きのような、個人的メモ書きから。

欧州と違って封建的な権威がないところで建国されたアメリカ社会、欧州だと権威に対して知識層がチェックをいれるのに対して、米国では知的エリートが権力側について越権的に行き過ぎると、大衆扇動的なリーダーが大衆の支持を背景に出現してくる。19世紀のジャクソン大統領がその原型。

万人が神の前で平等な司祭だというようなプロテスタントのキリスト教のもと、信仰に基づいて権力に挑戦する。民主主義では、ごく普通の人でも道徳的な力を持っていて、政治を自分が担当できなくても、それができる人を選ぶくらいの知性と徳性を持っていると想定。

「反知性主義」は単なる知性への軽蔑ではなく、知性が権威と結びつくことに対する反発、自分自身で判断し直すこと。すべてが神の前で平等という宗教的な確信を背景に育つもの。建国後のアメリカ、過去の歴史で幾度かそうした反知性主義的反発の流れがあった。

行き過ぎた知性主義というか、ともすれば世襲的に再生産されるエリートによる行き過ぎに異議をとなえる動きは、信仰復興運動(Revivalism)と称される。著者は、ピューリタン社会の知的土壌に開花し、繰り返しアメリカ史にあらわれる周期的な熱病のようなものだとしている。

独立間もない、18世紀半ばの「大覚醒」の時期がその始まりで、19世紀前半の第二次信仰復興運動、後半の第3次信仰復活運動と続き、とくに19世紀後半ではアメリカが農業社会から工業社会へと変わりつつあるなかで、独立系教会が都市で工場労働者などを動員していく。

リバイバル運動はビジネスとの相性がよく、徹底した組織化戦略と明快なビジネス感覚をもって、巨大な会場での集会や、資金の動員を実現した。アメリカの反知性主義に特徴的なのは、宗教的な平等理念と経済的な実用主義との奇妙な結びつきだという。

そして20世紀に、アメリカの反知性主義は、ビリー・サンデーの伝道で完成する(題材にした映画「エルマー・ガントリー」必見だな)。孤児院出身で野球選手、そして伝道者となったサンデーは、サーカスのようなアトラクションまで使って全米津津浦浦の大衆を魅了して、政権からも無視できない存在までなる。

要は、インテレクチュアル・知識人も権力や制度の一部になるときがある、反知性主義は、知性が越権行為を働いていないかチェックすることにある。

知性と権力の固定的な結びつきに対する反感、知的な特権階級が存在することに対する反感。伝統的な権威構造のないアメリカで、他の国では知識人が果たしてきた役割を反知性主義が果たしてきた。

たしかに、親ガチャの議論ではないが、へたすると知識人は育った環境、教育の金銭的負担などから、世襲的に再生産される傾向はある。その固定化された知識層が権力側で暴走したとき、普通の人たちが扇動的なリーダーに煽られながら政府に異議を唱えることがある。アメリカ社会で生活した経験がある人は、それはなるほど思うだろう。

アメリカ人は、日本の水戸黄門みたいに印籠をみたらみんなへへぇとなるやつらじゃなくて、ロジカルにはわからなくても、自分が変だなと思ったことに時々異常なまでのエネルギーで権力に対して異議を唱える。学校でも決して勉強ができるやつが一番偉いわけでなく、親も子供に、学校でへんに賢くして嫌われないようにしなさいよと言ったりする。

これが「反知性主義」で、それが背景にあったのが、先般のトランプ的な動きだったと。決してトランプ的現象が正当化されるというわけではないが、なぜそんな動きになったかが米国という特殊な生い立ちの国の宗教観と歴史から腑に落ちた。

たしかに、クリントン政権あたりから、労働者の味方だったはずの民主党がウォール街やシリコンバレー寄りになったり、ヤッピー(古い言葉だなあ)的な新たな権力層がちょっといい気になって突っ走ってきたところはあった。田舎の毎週教会に通うような普通のアメリカ人が、怒って異議を唱えるのも、無理はないかとも思う。

仏教が日本で変容して土着化したといっしょで、キリスト教がアメリカで変容して土着化したというのはなるほどおもしろい。アメリカのキリスト教は本場もんではない、アメリカのものだったということか。

この反知性主義の動きの他国への影響についても、面白いコメントがあった。

アジアやラテンアメリカでのリバイバルの動きも、主張や集会の運営とかもアメリカに似ている。これらも、マクドナルドと同様のアメリカの文化的輸出とも言える?今後それらの国での展開に要注目と。

ただ、日本については、強力な知性主義がなければそれに対する反知性主義は生まれないゆえ、悲しいかな、日本では反知性主義はおこらないだろうというようなことが書いてあった。 

たしかにメキシコに住んでいた頃、大学教授が何人か大臣をやっていて、経済政策はその大学につい最近までいた経済の教授が大臣として指揮をとっていた。あれは知識人が権力側にいった例か。エリートが率いてますというような。日本は賢い学者が政権を牛耳ってということはないから、世襲は問題だが、政治に妙な俗っぽさがあるし、こてこての知識人は政治家としては主流派ではないかな。エリート集団ともいえる官僚機構の暴走を監視しているのは、政治というより、マスコミとくに大衆的な週刊誌マスコミだったりするが、この点では、反知性主義があるといえるかな。

読後メモと、ちょっと長いつぶやきでした。■







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