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映画「飛べ!ダコタ」 サンキュウサンキュウと言っていたよという話

また、不思議な偶然というか、ばらばらな記憶の欠片が突然ぴたっと合わさって目の前にでてきたような話。だからなんだったんだ、と言われると、オチはないのだが、人生いきていると、こんな偶然も起こるんだという話。

もう僕の両親は草葉の陰のほうに行ってしまってから何十年もたってしまったが、戦前生まれの母親が何度かつぶやいていた、ある若い頃の記憶の話があった。

話といえるような長い話でなくて、戦後まだ間もない頃に、母が育った佐渡ヶ島で外人さんが乗った飛行機が浜に不時着して、村人がいろいろ世話したら、外人さんはサンキュウ、サンキュウと言って飛び立っていった、という話だった。

うちは父親が京都出身で母親は佐渡出身、東京で会って結婚してという、戦後の高度成長期の日本でよくあった話で、僕は東京で生まれ関東育ちとなったが、小学生の頃は夏になると必ずじいさんばあさんのいる佐渡ヶ島で1ヶ月くらい過ごしていた。東京から特急トキに3時間くらいのってから、新潟港から3時間のフェリー、さらにそこからバスに合計4時間くらいゆられるとたどりつける、佐渡ヶ島でも日本海に面した(ロシアに面した、ともいえる)、かなり田舎だった。

じいさんの家は裏庭の先に防波堤があってそれで浜辺に面していて、逆に表玄関をでるとすぐに山へとむかう山道の入り口があった。超リアス式地形。夏には螢が田んぼでとんでいて、井戸で冷やしたトマトやスイカが美味しかった。とてもとても、牧歌的な日本の田舎だった。

庭から浜に出ると、夜は空には天の川、地平線あたりには遠くにイカ釣り船の明かりが星みたいにみえてきれいだった。朝5時とかに早起きすると、浜で漁船が市場にもっていく前の魚を売っていた。小さめのサメとか市場価値がないのかただ同然でくれたので(たぶん時間がたつとアンモニア臭がでるからか)、白身のサメの刺し身を食べたりしたが、けっこうこりこり歯ごたえあり美味しかった。アイナメとか、スルメイカとか、サザエとかも、新鮮でおいしかった。

それはともかく、この母親の昔話の、外人さん飛行機不時着事件であるが、ちょっと気になって2000年代のはじめのころだったか、母が肝臓がんで他界する数年前にWebで「佐渡、外国、飛行機、不時着」とか一応調べてみたが、なにもヒットしなかった。まあ、不時着事件みたいなことはあったんだろうけど、記録に残るような話ではなかったんだろうなと思った。

肝臓がんというのは不思議な病気で、病状が進むと痛みというよりも、ぼおっと夢見るような状態になることがあるらしく、母は痛みに苦しんだというよりも、ぼおっとして夢見るような感じでときどき、また昔話をしていた。たしか、その頃にも、この外人さんがサンキュウって言ってくれたという話は聞いたと思う。不時着して、みんなでお世話したら、サンキュウサンキュウって言っていた、それだけであまりディテールの無い昔話。

2003年に母も他界して、僕も飛行機不時着の話なんて忘れてしまっていた。子供たちも生まれ、生活の場がシンガポールに移った。

それが、2012年頃だったかなにかのWebの記事で、戦後間もない1946年の1月に英国の中国領事をのせた軍用機が佐渡に不時着した事件があって、それをもとに映画を製作中との記事を読む。

ええ!と思い、さらにネットでしらべると、まさに場所がじいさんの家の近く。よく泳いだあたりにあった大島という岩のあたりがロケ地になっているという。やっぱりあったんだ、あの不時着。

WEBの情報によれば、

終戦直後の1946年1月、佐渡ヶ島の高千村入川にイギリスの軍用輸送機「ダコタ」が不時着。5ヶ月前まで敵国だった英兵たちを受け入れた高千の人々は、彼らとともに浜に石を運んで仮設の滑走路造りを行います。40日後、「ダコタ」は無事に飛び立ちました。不時着した英軍輸送機は、第2次世界大戦中、「SISTER ANN」と呼ばれる要人専用機で、英国の東南アジア地域連合軍(SEAC) 総司令官としてビルマ戦線で日本軍と戦い、最後は勝利して「ビルマのマウントバッテン」と呼ばれるようになったルイス・マウントバッテン伯爵が、使用していた特別機でした。不時着時に、同伯爵はもちろん搭乗していませんでしたが、上海の英国総領事が東京での連合国会議に出席するために乗っていました。輸送機は、海岸に3回バウンドし、危うく近くの岩礁に追突しそうになったが、船止めに引っかかって助かったといいます。


改めて関連情報をみてみたら、不時着した場所が北立島と、まさにじいさんの家から数百メートルだとわかる。上海領事は陸路で東京へと向かったが、クルーら十数人の英国人たちはその冬40日滞在した。最後には、住民が石を積み上げてでつくった浜辺の滑走路から、飛びたっていったという。

それで、2014年だったか、東京出張があった際に映画館でこの映画をみることができた。いい映画だった。役者たちが良かった。

映画が描く佐渡は、終戦間もない冬の佐渡。自分が知っている真夏の佐渡とは違った暗い海だった。映画では、たぶん史実というよりも、脚本家が想像を膨らまして、ビルマ戦で息子を失った母親とか、おなじくビルマで戦友が死んだイギリス兵とかを登場させて、戦争の傷跡の憎しみで葛藤してでもそれを乗り越えて和解する話を盛り込んだり、若い佐渡の女性とイギリス兵のちょっとした恋物語もたしか入れていた。

うーん、たった40日の滞在だったので、実際には、そこまでドラマはなかったのでは?たぶん、村人は初めて見る人種が違う、つい一年前までは鬼畜米英と教えられて来ようものなら竹槍で刺すか自分が自決しないといけないような敵が、案外、サンキュウとか言って優しいし、結構、彼らも田舎ならではの歓待をしたのではなかったか。新鮮な魚をフィッシュアンドチップスみたいなフライにしてあげたり、地酒も美味いし。母は当時16歳くらいだったはず。「サンキュウサンキュウと言ってたよ」と語るその顔は、懐かしいなあという顔で、そんなに複雑な思い出ではなく、日常に突然現れた、楽しかった思い出といったところだったのではないか。あまり、ドラマチックな話ではないが。

まあ、ちょっと不思議だったのは、シンガポールに住んでいると、マウント・バッテンという通りがあり、まあまあの高級住宅街でもあるので、息子の同級生とかが住んでいて、誕生パーティとか呼ばれると送っていったりしていた。この戦闘機がビルマ戦の司令官のマウント・バッテン卿の専用機だったとは。

「マウント・バッテンだから、ばってん、ばつ山だね。マウント・マルだったら良かったのにね」なんて、おやじギャグを言っては、小学生児を喜ばせていたのは、さて、もう10年以上前のことか。

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