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頼りない伊映画評論『ペルテノペ』『ナポリ・ニューヨーク』
ベトナム在住のNoteの書き手が、ベトナム語よくわからないと謙遜しながらベトナム映画評してたのがおもしろいなと思っていた:
不慣れな外国語の映画を外国で字幕なしで観てみる。
いまイタリア某所で出張ついでに2週間ほどリモートワークしながら、ちょっとイタリア語学校でイタリア語を齧っているのだが、滞在中、知人がいるわけでもなく暇なので近所の映画館で2本封切りのイタリア映画を観てみた。それで、私も、頼りない映画評を書いてみた。映画の内容、全部わかってないですが。
ちなみに我がイタリア語、学習歴は2か月ほど、こちらに来る前にオンラインで20時間ほど、ペルー人の先生とイタリア人の先生に教わった。ペルー人にはいかにスペイン語の知識でイタ語っぽく話すかという観点から教わった。
イタリアは過去に仕事で数回来たことはあったがいつも数日の滞在、まあ英語が通じるが通じなくても我が年季がはいったスペイン語でイタリア語っぽく話すとむこうはわかってくれたので、東北人が沖縄人と話すようなもんかと鷹をくくっていたが、やはり違う言語ではある。
還暦越えてボケてもいけないので頭の体操で、スペイン語をてこにイタ語を勉強してみよう、と思いたつ。
2週間、あまり観光名所がない街に滞在して、地味に学校に行こうと思うが短期のコースというのがあまりない。外人向け語学学校というのはその言語を学ぶ同好の士の外国人の同級生となかよくなるばっかりで(まあ若いうちは出逢いも大事なので一理ありますが)、結局、オンラインのイタリア人先生がボローニャの出身で当地ゆかりの神曲の作家ダンテ・アリギエリの名を冠した語学学校でイタリア人の先生をアレンジしてもらうのがいいんじゃねというので、そこで1対1の先生をアレンジしてもらう。そんなに高くなく、日本の家庭教師の単価みたいなレベルか。
情熱的な美女の先生かなあとか妄想していたら、な、なんと、初日現われたのはカジュアルな格好で無精ひげの中年の一見、某国大統領ジリンスキーみたいな風貌の先生だった。
毎回2時間休みなしで、結構しぼられました。
「それはスペイン語だな、イタリア語ではこう言う」とか。似てるんですが、似て非なるところもあり。
感じ、スペイン、ポルトガルが兄弟だとしたら、イタリア語はもっともっとラテン語に近い、スペイン語からはいとこみたいな言語かな。
まあ、発音は母音がクリアな「あ・い・う・え・お」なのでスペイン語同様に日本人にはありがたい言語。やはり、日本人が英語苦手なのは英語と日本語のこの母音の落差がおおきからだとつくづく思う(なぜならおなじクリア母音のスペイン人イタリア人も英語の発音苦手)。
話は脱線したが、そんなわけで、語学学習も兼ねて、現地で字幕なしの映画鑑賞してきて、内容全部理解していないが評論かいてみますという話。
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まず、Parthenope 、パルテノペ。
じつは、近所で毎日のようにハムとかパスタの総菜をかっているデリみたいな店(Salumeria、サラミ屋)があって黒髪でちょっと褐色の肌の愛想のいいおばはんがいる店なんだがその店に Parthenopeと書いてあったのでなんだろなと思っていた。パルテノぺはナポリの別名(古いギリシャ語の名称?)であった。つまり、ナポリのお話。
この映画、正直、3時間、かなり寝てしまった。
監督の Paolo Sorrentino 、知らなかったがLa grande bellezzaという映画でオスカー外国映画賞を受賞した人らしい。たしかにナポリのきれいな海岸とか街の中の映像はきれいだったが、筋がちんぷんかんぷん。芸術作品というかんじで、まったく筋がわからなかった。
なんだか後半で1999年のナポリがたぶんサッカーでなにかで優勝して(マラドーナいたころ?)、町中が盛り上がるなかでヒロインがなんかでてきていてひとつの見せ場?になっていたようだが謎。
きれいな景色が楽しめるので無駄な時間ではなかったが、平日午後の映画館は客は10人くらい。まあ料金が7ユーロだから1000円ちょっとだったので許せたが、評価は5つの星中で、わからなかったので星無し。
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続いて、『ナポリ・ニューヨーク』。
これはイタリア語授業中にジリンスキー先生に聞くと、ああ、あれは 「のーぼ・ちねま・ぱらでぃっそ」の監督の新作だよというので、ああ、あの、ほのぼの人情ドラマの名作の監督かと思い、それならば筋を追えるだろうと思う。
平日4時の回をみにいくと、なんと、年配のローカルでいっぱい、ほぼ満席だった。
ストーリーは理解した範囲では、1949年にナポリで大爆発?があって両親を亡くした10歳くらいの少女のシーンから始まる。第二次大戦はおわってるはずだからなんだろう?謎だが、少女セレスティーナは母?を亡くし、身よりはかつてNYに渡ったお姉さんしかいない孤児になる。
彼女の友達?の同じく孤児のちょっとだけ年上のカルミネという少年がでてくる。
余談、そうえいば神楽坂にバブルの頃にカルミネというカルミネさんがシェフ・オーナーのおいしい食堂みたいなイタリアンがあったなあ。パスタが美味かったなあ。まだあるのかなあ。
前半のナポリでの場面、でてくるひとの会話がほとんどわからない。ところどころ単語は拾えたのでイタリア語であること、そしてどういう事柄をしゃべっているかは想像がついた(と思った)が、ほんとにわからない。たぶん、これはナポリアクセント、ナポリ語なんだろうと自分をなぐさめる。
話は、はしょっていうと、その二人がナポリからNY行の客船で密航して、いろいろな苦難を持ち前の明るさと前向き、そしてまわりの人の人情で乗り越えていくというもの。
さすがニューシネマパラダイスの監督、日本でいえば山田洋二監督みたいなのか職人芸で人情ドラマを展開するなあと感心。とてもいい。あのニューシネマパラダイスのエンニオ・モリコーネの音楽がながれてきそうな映像。
なぜか船の中の奮闘のときに、チャップリン作曲の「スマイル」がかかる。そして船がNYについて孤児たちはとほうにくれるのだが、そのときに、嗄れ声のトム・ウエイツの「サムウェア」が流れる。泣きをいれてくるなあ、と思いながら目頭が熱くなる。
イタリア人孤児二人は、アングロサクソンな1950年代アメリカで邪険に扱われながらも、二人離れ離れになりながらも、イタリア人として差別されながらも、イタリア系アメリカ人や黒人アメリカ人の人情で生き延びていく。後半のNYでのシーンは英語もまじるので理解が高まる。
そういえばある社会学かなんかの論文で、アメリカの「白人」というカテゴリー、社会通念的な定義だったか移民法であったんだったか忘れたが、20世紀前半には、「イタリア人、アイルランド人、ユダヤ人」は「白人」ではなかったのが、その後その「白人」のカテゴリーに入った。その後、近年は、「ヒスパニック」や「アジア系で所得が高い層」も社会的に「白人」扱いだなんていうアホみたいな議論を読んだことがあった。
移民法で定義づけられちゃうのはさすがに現代ではありえないが(たしか1920年代の移民法でその定義があって、日本人がアメリカに移民できなくなって南米へとむかったんだったかな)、社会通念としての線引きというのは、なんともあほくさい話である。
映画は、後半の裁判の場面で、1950年頃は、「イタリア人は背が低くて色黒で不衛生で臭い」なんていう当時の偏見について弁護士が批判しているシーンをだしてきたり、孤児二人がアングロサクソンのおばさんに、ナポリ?イタリア?アフリカのどこにある国?とか聞かれるシーンを盛り込んでいる。ここらへんはなんとも意味深い。現代の移民問題への批判か。
そう、裁判だが、物語は、孤児の少女のお姉さんが、ナポリで知り合ったアメリカ人と恋仲になって音信がなくなったのでアメリカに来たら既婚だった、そしてその奥さんに暴力をふるっていたというので銃殺してしまって、アメリカで女性で初めて死刑になりそうという展開になる。
なんともおもしろいのは、イタリア人のつぼなのか、いろいろな困難を、知恵を絞って、圧倒的な不利な強烈な敵を前にしても、口八丁手八丁できりぬけていく、というのが定番なのか、そんな展開がけっこうでてくる。
ライフ・イズ・ビューティフルのロベルト・ベニーニが、ユダヤ人収容所でドイツ人将校のドイツ語の通訳をてきとーに一見流暢にイタリア語に通訳するシーンみたいな、まじめで冷血な権力にたいして、大きなみぶりや早口の語りで演説ぶって説得して危機を切り抜けるみたいな展開がある。少年がカードゲームでいかさまをうまくやって、船員からやんやかっさいになるシーンとかがある。
国民性なのか、おもしろい。そういえばスペイン語圏でも、 tranposo という単語が、いい意味でだましたり、機知にとんだ対応という形容詞で、メキシコでトランプやっててズルをして勝ったやつに、おまえはトランポーソといいながら、やられたよあっぱれ、と笑っていたというのをふと思い出した。ラテン共通の価値観なのか、陽気なずる賢さ。
それで最後は、ネタバレになるが書かないが、あるほのぼのさせられるシーンで終わる。そこにも、カードゲーム、いかさま、みたいなのが示唆されている。
ほのぼのさせられたので、映画は星5つ中4つという感じ。
後日談、というか映画をみてカフェでビール飲んでて携帯で検索して気づいた点。このナポリ・ニューヨークの監督はGabriele Salvatoresという人で、Nuovo Cinema Paradisoの Giuseppe Tornatore監督ではなかった!!! ジリンスキー先生、勘違い。
でも作風が似ているというか、てっきり Nuovo Cinema Paradisoの監督作とおもってみて安心していられた。ほのぼの、人間を、人情を信じたくなるいい作品でした。
語学の足しになったのか?なったと思いたい。もし字幕があったら眼が字幕にいってしまうし、オンラインでみてても相当意思がつよくないと止めて調べたりいろいろしてしまう。やはり、語学での immersion 没頭は、IT革命前は現地に行けばそれができたが、今の時代、現地にいっても自国とつながったり便利な通訳ソフトがあったり、赤んぼが生まれてきて耳から吸収してくようなプロセスがはしょられてしまっている。
「聞き流し」学習的であるが、やはり耳から現地語をたくさんインプットしておくと、そこからその語学の仕組みについての関心がわけば文法を学ぶと目から鱗だし(先に文法やってしまうとつまらなくなる)、単語おぼえるのも単語帳つくっておぼえるのではなく、聞き流しでわからない単語が何度も出てくると文脈から自然におぼえたりする。
外国行って、2-3時間暇な時間があったら、現地映画にいってみること、けっこうお勧めです。へたに混んでる観光地いって写真とるより、いい思い出になるかも。あるいは旅行でなくても日々、強い意志をもってNetflixとかで字幕なしで現地語で映画をみてみるのもおすすめ。とても効果的だとおもいます。
独断と偏見の語学学習法推奨でした。 ■