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【読書感想】西川治の美食エッセイいくつか

ひと時代前の作者のエッセイとかを読んでると、言っていることの本質的な部分には強く同感するけど、数十年がすぎて、今それ言っちゃうとなんだなあという内容に出くわす。

この西川治氏は、1940年生まれの料理研究家でもある作家だという。存じ上げなかったのだが、去年、なにか料理についてぐぐっていてたどりつけた。たぶん、フランスの胃袋料理トリップだったか、イタリアのなにかの珍味だったかを検索していたときに。

文章が軽快で、なによりも書いている内容が美味そうでよだれがでるほどだったので、数冊、Kindleでダウンロードできるのエッセイをよんでみた。おもしろい。開高健とか、アンソニー・ボーディンみたいに、食を、深くかっこよく語っている。

読んだのは、

『イタリア半島「食」の彷徨』
『私が食べた朝食365日』
『マスタードをお取り願えますか』

そして、三冊目の『マスタードをお取り願えますか』(1988)の33番目の最後のエッセイがこれだった: 

「男は旨いものを食う必要がある。しかしーーーだ」

読んで、深く同感した。

でも、これ今のダイバーシティの時代に言っちゃうと問題発言だよなとも思う。本質的にはすごくいい事を言っているので、言い回しを変える、パラフレーズが必要だな、と思う。


Kindleからコピペすると、また著作権侵害で警告をうけても心外なので、要旨を書いてみる(カッコ内は私のリアクション芸)。

・男たるもの、ぶつぶついわず、だされたものは残さず食べるべし。多少まずくても、ありがたくいただく。食べ物とはそういうものだ。

・そして、あえて言う。男は、美味いものを食べる必要がある。

・レストランでの料理なら、そのレストランを選んで、その料理を選んだのはその男の責任。そして家庭なら、料理のうまい嫁さんをえらべなかった己を恥じるべき。

(おっと、それ、昭和の男尊女卑的ステレオタイプ。。。)

・真に旨いものを食べたいという男は、他人にたよるべきではない。自ら調理するのがよい。

・結婚後は、嫁さんにまかせろ。まともな料理を、ということになると、男は、心して女をえらばないとならないということになろう。

(おっとー、それな)

・まずその女の料理の腕前を知る前に、その食べ方、味覚を観察すべきだ。できるかぎり奮発し、いいレストランに連れていき、その女の料理に対する興味、反応、恍惚度をみるべき。

(ふむ。恍惚度ねえ)

・女が、料理に興味があり、旨い物をつくろうというのなら、多少の出費はいたしかあるまい、何がなんでも旨いものを食べさせることだ。それを怠ると、おそろしいほどの長い年月、まずい皿のうえをはいずりまわされるはめになる。

(そこまで言うか。。。)

・もし、料理をつくれないのなら、せめて食事をしていて気分のいい表情の女をえらぶべきだ。子供のころから、毎日母親のうまい手料理を食べ、食卓がたのしかったという思い出のあるような表情をもった娘をえらぶことだ。たいしたものしか食べたことのない娘は、それだけの表情しかできない。食べているときの表情のいい女は、ちょっと訓練すれば料理が上手になる。これは請け合ってもいい。

、、、なるほど、と思う。

まあ、「男は」を男女問わない一般的な「人」と、「女」とか「娘」という部分を、現代風に「パートナー」と置き換えて読むと、いまでも通用するかな。料理研究家なのに、家庭ではパートナーに作らせるというのが、独善的というのは残るけれど、でも、日々、家庭で食べる食事の在り方について、深い、いい事言ってると思う。

やはり、食い物は生きていくために食ってるもので、出されたらありがたく残さず食うもの。でも、パートナーと家庭を持つ前に、心して、旨いものをいっしょに食べ歩いて、いっしょに感動して、それ以前に、うまいものを楽しんできた家庭出身のパートナーと出会えるのであれば、自分の人生は、その「食からくる幸せ」に彩られた素晴らしいものになる。

そんなようなことが書いてあると思って、なるほどなと思う。

敢えて、食からの幸せがいっぱいの人生を送るために、さらにそこに私の自分の偏見に満ち満ちた意見を付け加えると、こんな感じ:

・パートナーは、日本人だったら、関東人より関西人、とくに大阪人がいい。(食い倒れ)

・外国人だったら、欧州人だったら、アングロサクソンよりラテンがいい。(イタリア、スペイン、ポルトガル、フランス)

・食べ物に関する、宗教的忌諱のないほうがいい。ゲテモノだめよりもゲテモノOKのチャレンジ精神旺盛な味覚の人がいい。

・やっぱり酒も飲めたほうが、食事が何倍も楽しくなる。

以上、偏見に満ちた、食についての考察でした。



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