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アイダホ州ボイシー なぜかバスク料理


アクシデンタル・ツーリスト(注)、米国はアイダホ編。

(注:出張のついでとかで意図せずの旅行者、予備知識なく観光する人)

1週間、時差もあって、日中移動で交代で1日1000Kmとかレンタカー運転したりと、けっこうハードな出張を、米国西海岸北西部(Pacific Northwest USA)で過ごす。

無事、クライエントと同僚コンサルを日本へのフライトで見送ると、1時間後にシアトルから1時間ほどの東行きの格安航空国内便にひとり乗る。

そもそも、予定がきちんと確定しない時にとりあえず安めのフライトをおさえたら、みなといっしょに帰るには変更の手数料がかなりかかることがわかった。その変更手数料の額で数日過ごせるような。他の二人が帰国してから3泊シアトルで過ごしてもよかったが、いろいろ理由を自分自身に言い聞かせて、その3日をフライトで1時間くらいのアイダホ州の州都ボイシーに行くことにする。

アクシデンタル・ツーリスト、自営業の特権、でも、いつも、仕事の都合付けたり、その追加予算との相談あるが。

考慮した制約条件は、フライト変更代、VS、シアトルで3泊した場合のコストとか、シンガポールでやらねばいけない仕事、小旅行のコスト。結論、シアトルから100ドル台の安いフライトでいけて、これまで行ったことのなかった「州」で、滞在費が安いところに行こう、となる。

なんとなく、内陸の「アイダホ州」を選んだ。


とくに目的はなかった。モンタナは行ったことがあったが、アイダホには行ったことがなかった、それだけ。

予備知識は、ポテトで有名、共和党支持のレッド・ステートであること(西海岸のワシントン州とオレゴン州やカリフォルニアは民主党支持のブルーステート)、古い知己がアイダホ出身で素朴でいい奴だったなあという記憶、それくらい。

敢えて旅ログのようなウェブ情報は見ないようにして、フライトと宿だけを事前に確定する。

行ってもなにもすることが無かったらホテルにこもってたまった仕事をすればいいやと思う。

たまたま、米国東海岸に住んでいる知人と仕事がらみのメールをやりとりしたら、夏休みで子供連れて国内旅行するというので、ついでにこちらもアイダホいくけどと言うと、なんとなんと、そのアメリカ人、不思議なコメントをくれる。


「アイダホのボイシーね、あそこ確か、北米で一番バスク系の人口が多くて、美味しいバスク料理があるってきいたことあるな」


え、バスク?

ダーツで行先決めているような旅で、偶然、なんの因縁か関心がある先にぶちあたってしまった感じ。

まあ、別に私が前世バスク人とかではなくて、昨年旅行したバスクで美味いバスク料理を食べたというのと、敢えていえば、いま、7月半ば完成にむけて書いている荒唐無稽な近未来SF小説の最終章をバスクにしていること、そして自分のスペイン語との出会いは、東京で大学時代、そこに客員教員できていたバスクのいかついラストネームのスペイン人にスペイン語を教わったのだが、そのアリサバラガというバスク人の先生は、詩人で、勉強への態度は厳しい、とっつきにくい人だったが、いい先生だったということ。名前にちなんでか「鯖」というハンコをつくって嬉しそうにつかっていたっけ。

州都ボイシーへは100人乗りくらいの小さな機体のアラスカ航空で1時間ちょっとだったが、疲れと時差で爆睡して前半は記憶にないが、到着10分ほど目を覚まして窓の外を見ると、なんと乾燥していて砂漠っぽい。驚き。なんとなく内陸にいくとコロラドとか山で標高が高めになって森林におおわれた高地をイメージしていた。

それに、Boise っていう地名も、フランス語の bois 、ボァ、森からきたんかいな、それをフランス語に無知なアメリカ人がボイシーと強引に発音してるんかいなと想像して(これ確認してないので不明)かなと思い、豊かな森を想像していた。森が無くても、有名なポテト畑が広がってるのかなを思っていた。それが↑のタイトル写真にあるように、見事に裏切られた。

標高1000mくらいあって寒いかなとトレーナーを着こんでいたが、空港に降り立つと、暑い。携帯をみると夜7時なのに27度Cと。

予期せぬ驚き。

これぞ、アクシデンタル・ツーリズムの醍醐味だなとひとりほくそ笑む。孤独のグルメの主人公みたいに、声に出さず自分につぶやく。「ここは正解かもしれないな」

意外にというと失礼だが、小さい割にはとてもモダンできれいな空港を歩いてBaggage Claimまで歩く。

あれ、この街、けっこう豊かだな、と思う。

歩いていると、前に中学生くらいの女の子2人と同じ年くらいの男の子2人が仲良く歩いている。部活のスポーツの遠征の帰りですというような恰好をしている。

あれ?と思う。ブロンドの髪をポニーテイルにしている女の子の顔が同じだ、双子かな。そしてまたあれ?と思う。髪をスポーツマン的に短くしている男二人も顔がそっくり。というか、それぞれ男女で同じ服を着ていて、いかにも一卵性双子。

頭の中で仮説形成。一卵性双子で同じ年くらいのペアが、仲良く陸上部かなんかで遠征して(そういえば滞在したオレゴンのスプリングフィールドでオリンピック予選をやっていたっけ)その帰宅中?

あるいは、もしかして、4つ子が生まれたんだが、男の一卵性双子と女の一卵性双子だった?そんなことがありうるのか。

あまりにも不思議な光景だったので聞こうかと思ったが、さすがに失礼かなと思い、自粛した。

でもなんだか、ポーカーやってて、クイーンとジャックでツーペアそろったような、ラッキーな気分になった。

なんだか、うきうき。未踏の街ボイシーへの期待が高まる。

Uber呼んでホテルへ。物価高のアメリカで13ドルは安いな。それだけ街中が空港から近いということか。

運ちゃんは70歳は越えてそうな、寡黙だが優しそうなおじいさんだった。州議会堂がみえると、あれ州議会とか教えてくれるのだが、こちらから、ボイシーにバスク population は?バスク・マーケットというのはどこらへん?とか聞いても、耳が遠いらしくにこにこ笑っているだけだったのであきらめた。

10分ほどであっさりホテルに着く。ホテルスタッフもいたって、フレンドリー。

そうそう、忘れていた。西海岸の田舎のアメリカ人は概してフレンドリーだということを。

表面的という批判もあるが、他人同士なのに挨拶したり世間話したり、人間関係がフレンドリー。自分が西海岸の人口3万人くらいの田舎町の高校に交換留学した頃、周りの田舎のミドルクラスの人たちはとても優しかった。その後5年東海岸のNYにいたときは、家を朝でると毎日が地下鉄とかでうざい奴がいたりとか暴言はかれたりとかホームレスにからまれたりとか不愉快になることはあたりまえ(そんなでもないんですが)という心構えで生きてきたので、なんだかアメリカというとがさつで緊張していないといけないところだと頭にインプットされてしまっていた。そうでした、西海岸のあの優しい感じ、まだありました。

翌日、朝は日本は寝ているので(15時間の時差)、街を歩いてみた。

小綺麗な、とても整備された街並み。白人系が中心の印象。夏休み時期なのか家族連れの国内旅行者もちらほらいた。

そして、見つかりました。赤とか緑に白い十字架のバスクの旗がかかっている、バスク地区。


まずはバスク・ミュージアムにはいってみる。入場料7ドル。がらがら。

初老のおばあさんが入場券売ってくれたので、他に誰もいなかったのでちょっと話かけてみる。

「日本人なんですけど、仕事がらみできていて、ちょっと時間があったのでボイシーよってみたら、バスクの人がいるんですねえ。じつはスペインとかで勉強したことがあって去年もバスク行ってたんですよ」とか英語で言う。

おばあさんはにこっと笑って、バスク人口があって、幼稚園とかバスク語を教える教室とかもあるんですよとか言う。とくに自分がバスクなんですと言わなかったので、たぶん、バスクじゃないんだけど引退しても元気なのでそこでボランティアか働いている普通のアメリカ人かなと思う。

「バスクは食べ物おいしいですよね。ピンチョスとかチュレタスとか」とふってみると、にこにこして、この界隈に数軒バスク料理があるからランチいってみたらとか言う。博物館入場料で1割引きになるという。

Museumはとてもおもしろかった。ちいさいけれど、きちんと19世紀にどういう背景でバスク系住民がこの地域に移民してきたがの説明があった。ゴールドラッシュで鉱山に来たが、農業技術に長けた人たちだったこともあり、単身できた男たちが家族を呼び寄せて、それで、羊飼いとか農業に従事してきたと。

たぶん、本国での住みづらさもあったのだろう。それはアイリッシュや中華系や日系の移民史でもいっしょ。バスクって、なんだか、中国南部から東南アジアへと移民していった華僑みたいだなとも思う。スケールは小さいけれど。美味いもの文化を携えて海を渡っていった、果敢な人たちという共通項。

展示の一角が、文豪ヘミングウェイについてだった。

まあ、誰がために鐘は鳴るの人だから、スペイン内戦のころのゲルニカとかバスク地方に深い関係あるんだろうなと思ったら、それが時系列的に細かく説明されていた。

そして、な、なんと、ヘミングウェイのハバナでのTVインタビューの動画が再生されていて、なにげなくみたら、ヘミングウェイがスペイン語をしゃべっていた。

典型的なアメリカ人のRの音が巻き舌で聞きづらいスペイン語だったが、ノーベル文学賞を受賞していかがですか?という質問に丁寧に答えていた。キューバでは初めてのノーベル文学賞受賞ですねえとか、自分があたかもキューバ人かのようにリップサービス?していたが、あれ?1960年頃のキューバ革命でヘミングウェイはどうしたんだったっけ、スペインで反フランコで戦ったように、カストロ支援で地主に対しての革命に加わったんだか、もう年でそれはなかったが釣りとかしながら住んでたころだったか。後で調べてみようと思う。

このヘミングウェイのスペイン語でのインタビューがおもしろく、数分その前でくぎ付けになって聞いていた。ほかに人がいなかったので、心置きなく。こういうの、混雑した観光地じゃない利点。なんだかとてもリッチな気分になった。もう、混雑した観光地にはいけないな、とも思った。いくら城とか寺とかきれいで歴史的でも、観光客で押し合っているようなところは疲れるだけだなと思う。

なんだか、このヘミングウェイが聞けただけでも、アクシデンタル・ツーリスト、目的達成という気がした。

ランチは、博物館の前にあったPubと書いてあるのにはいったが、あとから思うとこれは失敗。マスのグリルとか名の知れぬIPAビールとかとても美味しかったが、とくにバスク料理ではなく、その2軒隣の Leku Ona といういかにもバスク語っぽい名前の店にいくべきであった。

パブ


その Leku Onaは外からみたらテラス席ががらがらだったのでテラス席が混んでいたPubに行ってしまったが、せっかくなのでランチ後にのぞいてみた。PubでもうIPAを一杯飲んでしまっていたが、なんかもう一杯くらいのもうかなと。

赤ワインのコカ・コーラ割である、カリモーチョ


Leku Oneはアメリカによくあるバー主体のレストランだった。コの字型のバーにテーブルが5個くらい、壁にはTVでスポーツ中継。

誰も人がいなかったのでどうしようかと思っていたら、小柄で明るいバーテンの女性がでてきて、お店あいてるからどうぞどうぞと。

カウンターで飲み物メニューをもらう。

あったあった、バスク系飲み物。噂に聞いていた、Kalimotxo、カリモーチョという、赤ワインをコーラで割ったという飲み物がある。5ドルくらいと安いので頼んでみる。

失敗。なんともまずい。のどは乾いていたので最初の一口は飲み干す。

すると、店でかかっていた音楽が、聞いたことがあるのに変わった。

Think, think, think… あ、アレサ・フランクリンだ。バンドで何度も演奏したことがある名曲。大好きな曲だった

なんとも、偶然。

これぞ神からの啓示とおもって、また飲み物を一杯頼む。というか、小柄のブロンドのかわいい子が、another one? とか聞いてきたので。リオハのロゼが7ドルくらいだったので頼む。これら、米国にしては安い。

ワインを飲みながら携帯をみてたりしたら、初老の常連みたいなおっさんがはいってきてカウンターに座る。

おっさんはバーテンのお姉さんと雑談始める。

来週からビルバオだよ、甥っ子の結婚式でね、とかちょっとスペイン語っぽいなまりの英語で話している。

会話が途切れたあたりで、おっさんに話しかけてみる。スペイン語話しますか?

おっさんは、もちろん!母国語はバスク語だけどと笑う。

日本人でスペイン語学んだもんなのですが、偶然アイダホに来たら、バスクコミュニティがあってびっくらですよ、とか言うと、ぽつりぽつり会話が始まる。

たいした話はしなかったが、おっさんは20代にビルバオのあたりから金を堀りに来たという(ほんとかな)、それでボイシーに住み着いちゃってもう長年が経ったとか言っていた。

ビルバオのアトレティコに日本人の久保っていう選手がいますよと振ってみたが、サッカーはあまり観てないのか、あまり反応がなかった。

こちらが飲み残してたカリモーチョのグラスをさして、それな、ワインとコークのカリモーチョ、まずいんだけど、若者は安いアルコールとして頼むんだよな、なんて言う。

やっぱりまずいんだよなとこちらも納得する。

それで、ブエン・ビアへとおっさんに言ってバーを後にする。

ただそれだけ。それだけのアクシデンタル・ツーリスト記でした。 ■

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