眠くない
眠くない。欠片も眠くない。「軍隊式入眠法」なるものを試してみたけど、効果なし。やっぱり、ネット情報はガセだらけ。碌なもんじゃない。
布団の中で寝返りを打っているだけで、夜が明けていた。最近ずっとこんな調子で、今日で三日目になる。寝転がっていても眠れないし、身体はだるいし、現代文学の講義は休んでしまった。
お昼ごろにメールが来た。今日休んだ講義の担当教授から。
『全講義十二回のうちの三分の一をお休みされたので、学期末の試験は受けられません』
文末の『誠に残念ですが』まで読んで携帯を床にたたきつけた。くそっ、そんな仕打ちってあるか。オレが何をしたっていうんだ。
その夜もやはり眠れないまま、布団の中で二時間が経った。単位が落ちることが確定したのも不眠に響いたようだ。悪循環。
覚醒しきった目を玄関先に向けると、誰か立っているのが見えた。パーカーのフードのようなものを被った人間のようなシルエットがこっちを見ている。
心身共に全く眠くないので、緊急事態にも即対応できる。
「泥棒っ」
叫んで駆け付けたときには、誰もいなかった。不眠が悪化して、幻覚まで見るようになってしまったらしい。オレはこの先どうなっていくのか。
翌日、佐々木が遊びに来た。一限しかなかった大学の帰りだという。
「お前って、犬飼ってんの?」
開口一番、佐々木は妙なことを言った。
「飼ってねーよ、ここアパートだぞ。で、何の用?」
「……ああ、これ。最近大学来てないから、お見舞いに来てやったんだよ。感謝しろ」
佐々木はにかっと笑い、ヨーグルトと菓子パンの入ったコンビニ袋をくれた。
「具合悪いの? 大丈夫か?」
大丈夫なわけがない。
「ふーん、夜寝れないんだ。……じゃあさ、寝るとき、頭の中で『何も考えない』って思い浮かべるといいぜ」
佐々木は、そうアドバイスした。「信じられないかもしれないけど効果抜群」と、親指を立てて。
その夜、早速実行した。脳内でひたすら「何も考えない」を繰り返す。大丈夫だ、絶対に寝られる。
「そんなことしたって、ダメだよ。諦めなって」
パーカーを被った男の顔が、脳内に勝手に入り込んでくる。うわっ、急に誰だ。
「オレだよ、お前を俯瞰的に見てるもう一人のオレ」
そいつは確かに、オレとそっくりな顔をしていた。うるせえ、お前は黙ってろ。存在から何までむかつくやつだ。
「はっきり言ってやるよ。この世にはもう、お前が熟睡できる場所はないの」
もう一人のオレは馬鹿にするようにせせら笑った。
何てことを言うんだ。それじゃ、死ぬしかないってことじゃないか。そんな残酷なことってあるか。
「そんなことないよなあ。なあ、クロム」
横たわるオレにすりよってきたクロムの頭を撫でる。くうん、くうんと鳴きながら、オレの顔をぺろぺろと舐めてくれた。オレが夜眠れないときは、いつもこうしてくれた。
実家で飼っていたクロムは、オレが高校生の時に死んだ。オレを心配して天国から会いに来てくれたんだな。ごめんな、オレの味方はお前だけだよ。でも、お前の目ってそんなに赤かったっけ? まあいいや、大したことじゃない。
「ありがとな」
クロムと触れ合ってリラックスしたせいか、ようやく眠くなってきた。
おやすみ、クロム。
二つ並んだ黒い靴とパンプスを履いた足が、葬儀場から遠ざかっていく。亡くしたばかりの大学の友人の死を悼んだ帰りだ。
「早すぎたよね、本当」
真っ黒なスーツを着た若い男に話しかけた、若い女の声は沈んでいた。
「なーんで、死んじゃったんだろ」
友人の死因は遺族である両親からも聞かされていない。
「最後にあいつに会ったときさ、眠れないとか言ってたんだよね。成績悪かったみたいだし、ストレスがたたったんだろうな。可哀そうに」
あまりにもいたたまれなかったからか、話を聞いていた女はため息をついただけだった。
「そういや、あいつの部屋の前で変なもん見たわ」
男は思い出したようにつぶやいた。
「変なもん?」
「犬がいたんだよ。真っ黒くてでかいラブラドールみたいなやつ」
「何それ。アパートで勝手に飼ってたってこと?」
「そんなわけない、ってあいつも言ってたんだけどなあ」