人生は運命であるように、

人生は希望である。

今年出逢った書籍「人生論ノート」(三木清)の中の一節である。

この間、知人(ふた回り程上の人)と久しぶりに飲む機会があった。

仲が悪いわけではないが、-むしろ良い時の方が多い-しばしキツく色々と意見を言われる事がある。

相手方の何かしてあげたい優しさなのであるのであろうが、側から見ると喧嘩やお説教をされているように見えるかもしれない。

自分自身は、楽しく聞いているつもりでもあるし、話しているつもりだが、相手方からすると、はっきりとした答えを持っておらず、こちらを倒すぐらいまでの強さのない自分が見えないからよく分からないと言われた。

強く自分の意見を主張する人なのだが、相槌や意見を求められると自分は「そういう考えもありますよね」とよく返事をする。それが物足りないらしく、自分の事が見えなくて、何もしてあげられないと嘆かれた。

かと言って、自分の希望や夢や意見を話すと相手方の実測値から考えが甘いや、それは違うのではないかと言われるので、自分自身も返答に困る事がある。(決して悪いとか面倒くさい人というわけではない)

基本的には、強い意見を持ち合わせておらず、その上、自分は何者も否定をしないし、何者とも争わない。

以前、書いたことのあるように、人の正しい間違いなんてのは立場によって違うのであるからして、何者も否定できないからである。

また、争うということは自分の時間も相手の時間も奪う事である。

その時間で一体、どんな楽しい笑える話しができることか。

そんな中、多くの屍を越えていけのような思想の人からすると、実体や本心があるのかないのか分からなく怖いのではないかとも思う。

その人に聞かれた「それじゃあ、なんで俺と連絡取って飲んだりするの」と。

はたと考えた時に、逢いたい人に逢う理由は、必要なのであろうかと。

その時は「言葉では言えないけれど感覚的なものですかね」と答えた。

意味を見出す事は、そこに終わりを見つける事でもあると思う。

終わりが怖いわけではないが、終わりある毎日を過ごす中で、終わりのない事を作るのも必要なのではないかと。

とかく、終わりを受け入れるのも、終わりない事を作り出すのも運命であり、希望なのかもしれない。


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