本音ってどうしたら書けるんだろう|コピーライター養成講座を終えて
本当はシンプルに養成講座の思い出や学びを書くつもりでした。
でも、2500文字を超えたあたりで違和感が。「努力」とか「後悔」とか、見栄えのいい言葉で飾り付けてる気がしてならなくなって。
かっこつけた文ばかりが並んだソレは、自分の中の浅ましいプライドの表れそのものでした。
はい、全部消してやり直します。
本音を晒すって怖い
思えば、講評でもよく言われていました。「君のコピーはコピーっぽいだけだね」と。(こんなキビシイ言い方じゃなかったかも)
カッコつけて、取り繕ってしまうのは、自分の悪いクセ。よく見せよう、よく見せようと背伸びする自分。そして、バレる。
これって、日常生活でも同じかもしれない。
発信することが当たり前になった今、“本音であること”の価値は高まってると感じます。特にインターネットはどうとでも取り繕えてしまうから。
建前と本音。
でも、建前だって悪いもんじゃないと思うんです。
「私はこの案、良いと思います」
「レジ袋…、いらないです」
「す、好きだよ」
建前は自分の身を守る盾になるはずです。ただ、広告コピーにおいては、そうはいかない。建前で人の気持ちは動かないですから。
そんなわけで、自分にとっての「コピーライター養成講座 基礎コース」は心の盾を剥がされ続けた半年間でした。
ちなみに、本音をひねり出すためいつも「である調」で書いてるところを「ですます調」にしています。初めて読んでくれる人には関係ないですね。すみません。
本音コピーと、建前コピー
「コピーライター養成講座 基礎コース」はその名の通り、コピーライターになりたい人のための講座です。半年間、毎週講義を受けて、課題を出して、講評をもらいます。
募集ページには、受け身っぽいテイストで誘い込んでいますが、実際は、30人30様のコピーでどつきあう戦場みたいなものでした。あくまで個人の感想です。
同じ教室に集められ、上位の人には証となる金の鉛筆が配られ、下位の人は触れられることもない。ひとり机に向かい、自分だけの指標で良いと思ったコピーを選ぶ孤独の戦い。
広告蠱毒と言っても過言ではない。よく生き延びれたと、自分を褒めてやりたい気分です。
提出課題は、約30人全員が同じテーマを取り組みます。
自分も考える。となりの人も考える。現役コピーライターから学生までみんな考えて、提出されたコピーは玉石混交です。
最初は、全員の前で褒められるコピーより、自分の考えたコピーの方が、どう考えても良いだろうと思ってました。勘違いも甚だしいですね。
でも、時間が経って冷静になると、差が見えてくるんです。
選ばれる(人の心を動かした)コピーには、
書き手(登場人物)の原体験を感じる
脚色されてない生の言葉
強い想いや信念、動機を感じる
これらがありました。例えば、
原体験は、記憶が情報ソースになってるから、ウソをつきようがありません。
生の言葉は、経験が浅いからこそ出せる若い勢いという面もあるかも。
想い・信念・動機はどれだけ課題に感情移入出来るか。明確な目的を決められるか。これにかかってます。
一方、選ばれない(人の心を動かさない)コピーには
拭いきれないフィクション感
いやらしい誇張表現
名言っぽいだけ
指摘されたら恥ずかしくって火吹いちゃう(誇張表現)ものばかり。
上記と同じテーマだと、
「名言っぽいだけ」のやつです。配信サービスを比較対象にしていますが、ユーザーはスマホサイズであることを分かった上で配信サービスを選んでます。みんな知ってることは名言になり得ないってことですね。
人に例えると分かりやすいですかね。
大切にしたいのは、本音だと受け取ってもらえるかどうか。(例え作り物だとしても)
少なくとも自分にとっては、誰かの心が透けて見えるような、気持ちの核のような部分が透けて見える言葉が好きなんだと思います。
にしても、自分のコピーをほじくり返すセルフ墓荒らし。まったくもって晒したくないですが、将来の自分のためと思い、歯茎に血をにじませながら文を進めています。これも誇張表現ですね。
それってあなたの感想ですよね?
実際に思ってました。講師に対して。
自分のコピーが、何かしらの理屈を立てて突っぱねられる。「あなたがピンと来なかっただけで、他の人が見たらどうですかね?」と思ってしまう。悔しいから。
ただひとつ言えるのは、世の中に広まる言葉には強い普遍性がある。誰が見ても、良いと思える要素があるということ。
ベタなチョイスですが、強い普遍性があるコピー。同時に強い“本音”を感じます。
一人称視点の文体だからか。時代を絡めたメッセージだからか。価値の最大化や、対比の構造があるからか。
おそらく全部正解で、全部違う。とにかく言葉の引力が強い。
「良いと思う!コレが私の意見です!」と、堂々と応援したくなる不思議な魅力があります。
基本的にコピーは1人で読むものです。みんなで集まって広告を鑑賞するのは一部の好事家だけ。1対1の関係性だからこそ、「応援したくなる」という個人的な感情が重要視されて、然るべきではないでしょうか。
つまり、「私の意見」でいい。この集合が社会を作るのだから。
まあ、これも自分の意見でしかないですが。
話はそれましたが…
「良いコピーとは?」という議題は、長年に渡って偉い人たちが散々語っていて、もはや哲学の領域に踏み込んでいるとか、いないとか。
半年間、講義を受けることで「誰が良いと言ってたコピー」ではなく、「本音が見えるものが良いコピー」という、自分の価値観を得られたことが、大きな変化だったんじゃないかと思います。
そして、これは広告だけに限った話じゃなく、人と人とのコミュニケーションの話そのもの。「コピーライター養成講座」は「人間生活養成講座」でもありました。
日常生活でも、建前たてまくりの毎日を過ごしています。ちょっとくらい本音を出せるよう、自分と向き合ってみようかな…。
「本音ってなんだ?」という部分もまた、宇宙的議題のひとつなので、今回は触れませんでした。もう少し、学を積んでから挑んでみたいと思います。
おまけ
コピーでどつきあう、広告蠱毒サバイバル。
結果としては、途中まで悪くなかったが失速し、最終的には爆発四散。残ったのは、クラウド容量を食いつぶす言葉の屑のみでした。
パッとしない結果です。
何より、実際の広告を作れるチャンスを2度も逃した。本当に言いたくなかったよ「時間がなかった」なんて。
このまま終わったら、後悔しか残らないと思うので、もうしばらく頑張ってみようと思います。
きっとここがスタートライン。
この半年間で見つけた自分なりの良いコピーを胸に、これからも描き続けていけたらと思います。がんばります。たぶん。
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