議論・レスバに於いて「単語の定義・意味の違い論争」が起こる理由とその分析
緋です。
今回はタイトルにも記載してある通り『議論やツイッターのレスバ等でよく発生する「単語の定義や意味の違い論争」が起こる理由の解説とこの問題の分析、また起こった際の対処法』について書いていきたいと思います。
この記事を書こうと思った理由
自分がこの記事を書こうと思い立った理由は、実際に自分がつい最近「言葉の定義の違い論争」を経験したからです。
この間、自分はtwitterで他のユーザーと「原理的・客観的にに正しいものは存在し得ない」と主張するネット記事の内容について議論をしていました。
その方は記事に書かれている「正しい」と言う言葉を「道理や法に適って、誤りがない」と辞書に載っているものと同じ意味で使われていると解釈をし、その前提の上で反論をして「この記事に書かれている内容は間違っている」と主張しました。
しかし、このノートでに書かれている「正しい」と言う言葉の意味を単に「誤りがない」と解釈すれば特に矛盾は生じない上、もしこのノートの著者が仮に「正しい」という言葉の意味を辞書通りに使ってなかったとしたら、「正しい」と言う言葉を辞書通りに使ったと仮定した上で生じる矛盾点などを指摘したとしても、「正しい」と言う言葉の解釈が背反しているため、著者が本当に意図していた主張に反駁したことにはなりません。
例えば、「りんご」と言う言葉を「長靴」という意味で使っている人が『りんごは食べられない』と主張していたとして、こちらが「りんご」と言う単語を言葉通りに解釈し、『いや、りんごは食べられる』と反論したとしても、「りんごを長靴と解釈する人」が本当に意図していた主張に対して反論したことにはなりませんよね。
自分は上記の内容を用いそのユーザーに対して反論し、「なので、正しいと言う言葉の意味を『誤りがない』と解釈して議論をしよう」と言った所、「こっちは辞書通りに言葉を使っているのになんでわざわざ間違った言葉の使い方をしなきゃいけないんだ」「そもそもそのノートの著者が本当に『正しい』と言う言葉の意味を単に『誤りがない』と主張している根拠はあるのか」などと的外れな反論をされ、挙句の果てに「お前には社交性がない」「お前の言っている言葉は難解すぎるからもっと人にわかりやすく伝える練習をしろ」と議論に全く関係のない戯言を言われてブロックされました。
辞書通りに使う方と使わない方、どちらが正しいのか
この人の議論に対する態度はともかく、元々はこの揉め事は単語の意味・定義論争が原因で起こった物です。要するに単語の取り合いです。
もしこの問題に他の人の主張や辞書が関係していない場合はただ単に「わかりました。自分はこれ以降『正しい』と言う言葉を『道理や法に適って誤りがない』と言う意味で使います。そして、自分が今まで『正しい』と読んでいたものはこれから『りんご』と呼ぶことにします。」と言葉をあげてしまえば済む話ですが、第三者の主張について話し合ってる以上、複数の解釈について議論するためには争いの原因となった言葉をあげてしまう訳には行きませんし、あちらには「ちゃんと辞書に基づいて話している」と言う一見尤もらしい根拠があるため、かなり解決するのが難しい問題になっています。
しかし、「辞書に定められているから」と言って、その辞書に定められた意味に従って言葉を使わなければいけない理由にはなり得ません。何故なら、言葉と言うものは人によって意味がバラバラだと不便な為便宜上概念につけただけの物であって、ある言葉がある概念を表現しなければならない原理的な理由では無い為です。
その根拠に違う意味を持つ違う言葉の意味を入れ替えても(例えば「死ぬ」の意味と「気絶する」の意味を入れ替えたり)なんら論理的な矛盾は生じません。
「一般的に使われている意味を使用しないと他者に伝わらないから辞書に従わなければいけない」と言った反論は何の意味もありません。それはあくまで「便利か不便か」の問題であり、辞書に従わないことが論理的に間違っている根拠にはならないからです。
この事から、言葉と言うものはどのようにも解釈をする事ができ、辞書に記されている意味はただの解釈の一つに過ぎず、「辞書に書いていない意味は間違いである」と言う主張はただの独断的な解釈によるものでしかありません。
言葉の意味を言葉で表現する事の不完全性
これは辞書に限らない話ではありますが、そもそも言葉の意味を言葉で表現する行為自体に欠陥があります。
例えばこの世にA,B,Cの3単語しかない言語があって、それについての辞書が作りたいとしましょう。
Cという単語の意味を最初に決めるとして、この単語の意味を記述するにはAかB、もしくは両方の単語を使用する必要があります。(Cという単語の意味にCと言う言葉を使うと、Cの意味はCと言うことになってしまい、意味がない)ここでは仮にCの意味をBとしましょう。
次にBという単語の意味を決めたいとなった時、意味を記すのに使える単語はAのみと言うことになります。(Bという単語の意味にCを使うと、Cの意味はB、Bの意味はCとなるが、Cの意味が不明な為、Bの意味もまた不明となる。因みにこのような論理構造の事を「循環論法」と呼ぶ)
最後にAという単語を使うには、3単語のどれを使っても辞書として欠陥が生まれます。Aを使用すればAの意味はAと言うことになって意味がなくなってしまい、BやCを使用すれば先程と同じく循環論法に陥ります。(Bを使用すればBの意味はA、Aの意味はBとなり、Cを使用すればCの意味はB、Bの意味はA、Aの意味はCとなるが、Cの意味が不明な為、BとAの意味も同じく不明となる)
結局の所、辞書を使用していてもそうでなくても言葉を言葉で表現する事自体に欠陥があり、何処かしらで自分のイメージを意味として使うしかありません。
以上の理由により、辞書に必ず従わなければいけない理由はどこにもない事がわかります。
後書き
如何でしたでしょうか。
一般的によく正しいとされている辞書や広辞苑が、実際には何の原理的な正当性もなく、権威主義的な物でしかないという事がわかっていただけたかと思います。
因みに冒頭で話した自分がした議論についてですが、一通り「こっちは辞書の通りに言葉を使っているのに何故わざわざ間違った使い方をしなければいけないのだ」とゴネられた後、賛同が得られそうになかった為「さっき言ってた事は忘れていいから、ノートに書かれている『正しい』という単語は全て『誤りがない』という言葉に置き換えよう」と言った所、「いいからさっきの事を説明しろ、間違っていたのを誤魔化そうとしているのか」的な事を言われて阻止されてしまいました。この人には「議論を少しでも円滑に進めよう」と言う意志が無いのでしょうか…
有難うございました。
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