
【ソロワーク】ZINE "NON CENTRAL"
ソロ活動として"wanona no wave"名義でZINE(アートブック)を作り、
9/23まで、六本木ヒルズで行われたHILLS ART&ZINE MARKET 2024に置いてもらっていました。
デザイナーのyamamoto megumi、フォトグラファーのOchiai Kiichiとの共作。
まだ手持ちで少しあるので連絡下さい。
『NON CENTRAL』は、ドゥルーズやベルクソンの思想をベースに感じたことを表した作品です。
解説して欲しいという声が結構あったので、
恥を忍び補足を書きます。
読みたい人は読んでください。
#テーマ
社会や認識の構造について、
リゾーム(竹や蓮などの根茎):ルーツ(樹木の根)の対比で表現しています。
-リゾーム的
=横に這って拡がり、どこからでも生え、繋がり、切断され、中心が無い構造、ここが大事ここはいらないというようなヒエラルキーが無い、色々に気を取られよそ見をする子供、逃走、寅さん、フォレスト・ガンプ、欲望、多様体、創造
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-ルーツ的
=1つのものに帰属し、上へ上へ伸びる、中心や上下階層がある、資本主義、一所懸命、ブレないものや信念は偉い、理性的、理解できる、社会的成功、半沢直樹、理性、安定
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解説するということ自体、ルーツ的でやばいなと思いつつ進めます。
#各ページ解説
まず、ページの順番は敢えてばらばらです。
留め具を外して、好きな順番で見て下さい。
以下は一応製本してある順での説明。
(7)

生み出したもう一つの人格タイラー・ダーデンは、
ルーツの破壊を目論んだが、リゾームには至らず、
破壊者のまま終わる。
一方でフォレスト・ガンプはかなりリゾーム的。
「Run,Forest!,Run!」(逃げて!走って!)
という幼馴染の少女の言葉を機に、
フォレストはどこまでも走り出す。
赴くまま戦争の英雄に、エビ漁船の船長に、卓球のチャンピオンに、走るカリスマに、宇宙飛行士に、
そして父親になる。
出会ったものを自由に愛する。
タイラーは何も愛することはできなかった。
(9)

キイチくんの写真を見て感じたことを書きました。
自由に生きていくことには多様に身を溶かしながら
不安定の中を流れていく苦難が伴う。
そして接続の過剰はルーツと同様に閉塞感を招く。
だから時に騒ぎに疲れたら、
ふと消沈し、誰にも挨拶せず飲み屋を出て、
自分1人の輪郭を確かめるように閉じこもり、眠る。
(12)

ノイズビートの波形とQR
(3)

中心も永遠も無く、全ては流動する。
いつか失われるから、美しさを感じる(花に嵐のたとえもあるぞ「さよなら」だけが人生だ)。
音が鳴り止み人がいなくなったダンスホールはまだ記憶の中で揺れている。
(1)

打算なく与えあったものを、
おぼえていなくてもいい。それにとらわれなくてもいい。
狭い場所から抜け出して、
それぞれ散り散りになっていい。
それはもう自分に溶けている。
綺麗な秩序ではなく、
そんなような錯綜する力がこの現実を支えている。
(2)

ブレずに一所懸命にルーツを登ることを良しとするのは、この年老いた乳歯を偉いと誉め讃えているようなもの。
体の細胞は10数年でほぼ入れ替わる。
何が過去の自分と今の自分の同一性を担保するのか。
心も、明日には全く違うものに変化し、
新しいものを生成する。
だから自分を束縛する信念や約束には無理がある。
私とあなたも、それぞれに変化し合う関係で、
私がいま向き合うあなたは、
いまの私にしか見えていないあなた。
(5)

「中心から恣意的なフィクションを増幅して
不安を押し返すのか(n→VCA→N)、
それともどこへでも拡がる血管に流して
新しいものとするのか (n-1→VC I/O→?)」
"不安"についてのリゾームとルーツの対比。
死が間近に迫った評論家が久々にメディアに出ていた。
めちゃくちゃ陰謀論が加速していた。
ああ、この人はこうして不安と戦っているんだと思った。
ルーツは自分の内にある価値を増幅することでその不安を押し返し、抵抗する。
(多様体"n"からただ1つをアンプで増幅して、大きくて硬くて強い"N"だ!と言い張る感じ。)
一方でリゾームは、
シンセサイザーを他のものとパッチングするように
不安を外に拡げ、交差させ、流し込み、流し込まれる。
そのうちにその感覚は、"不安"という言葉が全く似合わない、別の新しい何かに変わっているかもしれない。
(n-1は中心1を差し引いた多様体のこと。
柔らかいどころではなく、
何だかわからず変化し続けるもの。)
(10)

南方熊楠の翠点について教えてもらった。
熊楠は森の中で、一見関係のないもの同士が互いに
影響し合い、強く生態系を支えているスポットが
存在することを見つけ、その場を"翠点"と呼んだ。
それは中心ではなく、
多様性の交差点のようなものとして存在している。
そんな森羅万象のイメージを熊楠がノートに書き殴った
南方曼荼羅という図があり、
それを見てたら作りたくなり、家にあった針金と髪につけていたビーズでオブジェを作りました。
(曼荼羅ちゃんと呼んでいて、
今はめぐの家の玄関に飾られている)
(4)

アンリ・ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』(1932年)
の岩波版のp.48より。
岩波版と中公クラッシクス版の訳を混ぜたもの。
大学の恩師の最終講義でも触れられていた箇所。
リゾームを走らせるのは、
いかなる"予測"も眼中におかないような"意志"。
ベルクソン(ドゥルーズに多大な影響を与えた)は
これを恋愛で例えた。
「この愛情の目指すものは、快楽だろうか。
それはまた、苦痛でもあるのではないだろうか。
恐らくは行手には悲劇が待ちかまえていて、
一生が台無しになり、浪費され、破滅するかもしれない。
そんなことは分かっているし、感じてもいる。
だが、それが何だというのか。」
芸術家が言葉にならないものを作品として
空間に生み出す惨苦の努力(当人はぼろぼろになるが、
それを努力とは思っていない)もそうだと思う。
(13)

普通は出さない低音(iPhoneとか安いイヤホンでは聴こえない)に重心を傾けています。
冒頭の鐘の音は、京都に行ったら必ず訪れる
禅林寺(永観堂)で録音したもの。
時が止まるように感じるお寺です。
写真のモジャモジャしたのはたぶんめぐの家のホコリ。
(8)

量子物理学や熱力学の不思議
(そもそも孕んでいる謎、実際の認識とのねじれ)は、
リゾームとルーツのせめぎ合いに関わっていそう
と感じて書いたもの。
量子は不確定な存在であるのに、
なぜ確率化され、観測され、
1つの存在に確定していくのか。
数式は可逆的(=の前後を反転しても成り立つもの)
なのに、なぜ私達は時間が巻き戻る様子を見ないのか。
エントロピー増加は無秩序の増加であるはずなのに、
なぜ私達にはそれが一様に均一化していく
様子に見えるのか。
(水に垂らした赤い一滴のインクが拡がり、
分子は自由度を増したのだが、
それを私達は一面ピンクの水になった、と見る)
後半のルーツ(樹木)からの解放は、
分かりやすく(分かりづらく)いうと、
「葬送のフリーレン」が描いていることです。
(6)

ルーツはそれを、ただの"繰り返し"とみなす。
リゾームにおいては、
それが例え毎回同じ道筋で、同じ時刻に、
同じ人と行われたとしても、
常に新しさが発見される。"繰り返し"はない。
(ループミュージックの面白いところはそこにある)
写真は、タバコを吸ってるめぐのお爺さんのもの。