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箱根の山は天下の剣
2025年も気付けば1ヶ月目が過ぎ。あまりに速すぎて、気づけば2026年が到来。あっという間に30歳になってしまわないか?と心配になる今日この頃。
28歳にもなると、周囲は結婚ラッシュ。
昨年11月〜今年の5月までに5つの結婚式に招かれている。つい先日は大学時代の駅伝部の同期の結婚式で大阪へ。同期のほとんどが集まり、昔話を花を咲かせた。
同期の中の1人が3次会のカラオケの最中、
「よく、みんな辞めなかったよな」と言っていて、本当にそうだなと思った。特に僕に関しては人一倍(笑)
今日は大学時代の経験と、同期について書こうと思う。
マネージャー
知っている人もいるかもしれないが、僕は大学時代に箱根駅伝常連校の駅伝部に所属していた。
正確には入部基準を満たすことができず、半年間は準部員。寮に入らず一人暮らしをしながら練習に参加。結局ランナーとしては大成せず「マネージャー」というポジションを選ぶことになった。
当然の如く、箱根駅伝を走る可能性が限りなく0に近づく。故に、裏方に回る意思決定は簡単ではなかった。
だが、マネージャーになっていなければ今の僕はいない。僕という人間を形成するに、絶対的に必要な選択と意思決定だったと言い切れる。
マネージャーの仕事は多岐に渡る。
一般的にイメージしやすい給水、タイム計測は序の口。
寮の備品管理、大会のエントリー、合宿の手配。箱根駅伝前には報道各社との連絡窓口にもなるし、タスクを切り出すと枚挙にいとまがない。
学生ながら片足半分を社会に突っ込み、社会人と一緒に仕事をするのは刺激的であり、学びでもあった。
失意と決意
だからこそ「箱根駅伝が好き」という理由だけでは4年間成し遂げることは容易ではない。
「他の選手は走っているのに、自分は走れない」
「走れる選手のために動く」という心理状態をコントロールする難しさは、箱根駅伝への思いの強さに比例して高くなっていくことが多いと感じる。
例に漏れず僕もその1人であって、マネージャーであることの意義や、その価値に悩み、考えることがあった。
時に大学2年生の秋には、本当にあと一歩…というところまで突き進んだ。
心理的にはあれを超えるほどに辛い時期はまだないな…と感じるほどに当時の僕にとっては大きな壁だった。
その時、救ってくれたのが同期だった。
退部はおろか「逃げる」という表現が近しいような行動をとってしまった僕だったが、その事実を彼らは否定しなかった。
むしろ「4年間駆け抜けて、卒業する」という道のりから離脱することは「許さない」といった意志表示を、僕への否定ではない、それぞれの形で伝えてくれた。
そこから僕は心を入れ替えてマネジメントに徹した。
大学2年生の箱根駅伝でシード権を逃し、そのあとで僕は主務に就任。高校生ぶりに頭を丸めて、魂を込めてマネージャー業に打ち込むようになった。
※主務:マネージャーを取りまとめるリーダー的ポジション。
嫌われるのが仕事
マネージャーというのは難しい立場で、組織の成果のために全体最適を取るシーンが多い。
故に、チームに対して厳しい意見を発したり、時に選手とぶつかることもある。
主務になってそういうシーンが圧倒的に増えた。
僕は今以上に当時は口下手だった。
加えて「逃げようとした」ことに負い目を感じるシーンもあり、胸を張ってマネジメントをできないこともあり、同期を含め色んな選手とぶつかることがあった。
おそらく、人一倍嫌われていたと思うし、仲も良くはなかった。それでも、自分に与えられた役割を全うしようと日々を全力で過ごしていた。
同期の背中
時は流れ大学4年生。
僕らは創部史上最高順位や記録が狙えるチーム状態であった。「出雲駅伝」「全日本大学駅伝」では共に5位。
箱根駅伝も過去最高3位を狙えるチームだった。
そして、衝突がなかったといえば嘘になるが、それらを経て僕らなりに勝負ができるチームになっていたと思う。
特に箱根駅伝のエントリーメンバーに入らなかった同期たちがチームを盛り上げ、支えてくれて「戦う」雰囲気を作ってくれた。
僕はそんな彼らの「箱根を走る姿」がどうしても見たいと思った。そして監督に「4年生全員に給水をさせていいですか?」と直談判した。
例年、エントリーメンバー次点や次年度に一念発起してほしい選手に給水を任せることが多かった。
故に4年生に任せるというのは前例になかったが、監督は快諾してくれた。
箱根駅伝の運営管理車から眺める選手の後ろ姿は格別だったが、217.1kmの道中で僕は同期の背中を全員見ることができた。あの光景は今でも一生忘れないし、彼ら自身の記憶にも残っていて欲しいなと思う。
結婚式の二次会、三次会でみんなの顔を眺めた。
僕も含め、颯爽と走っていた頃の面影が残っている同期は3分の1程度だが…(笑)
変わってしまったな…と思いながらも、僕は彼らが走った数十メートルを思い出した。
箱根の山は天下の剣
言葉にするのが得意ではなくて、ここに書いてある内容を誰かに伝えことはほとんどない。
けれど改めて「彼らがいなければ、今の僕はいない」と、そう感じた時間だった。
卒業して6年が経って、そう感じることができるほどに人として成長した自分がいて、それを忘れたくなくて今日は1ヶ月ぶりにnoteを開いて、勢いのままに書いた。
箱根の山は天下の剣。
社会人として生きていくことは決して楽ではないし、苦しいことも沢山あるはず。
でも、あの4年間を乗り越えた自分たちならきっと生き抜いて、またどこかで会える。そう思う。