共に生きる
僕はずっと身体の調子が悪かった。
幼少の頃は、言葉を発すること、笑うことを封じられ、何かに対して、誰かに対しても何も思わない癖を身に付けていった。
何かを思ってしまうと、それが言葉や表情に表れ、ダメージを受けることになるからだ。
それが人間として間違っていると指摘するかのように、次第に身体的症状に異変が表れてくる。
身体が重い。身体を起こすための力すら湧き出てこない。巨大なビニール袋の中に入った常温水を、上から全身に押し付けられているような感覚。
食欲もない。食べ物の味がしなくなったし、元々食べ物を美味しいと思って食べてきていないし、母の料理は僕が作るよりよっぽど下手だ。
一度倒れると、起き上がるための強力なパワーが必要になる。だから壁を伝って、膝を伸ばして、倒れないことを第一にトイレに行く。
体調に波がある中、なんとか病院(内科)にたどり着いても「若いんだからそれくらいで騒ぐな」と突き返され、診察代だけ支払った。
ひどい人間の子どもは、ひどくなければならない。
豊かな親には、豊かな子を。
並の親には、並の子を。
豊かな同級生が、SNSに人生楽しいといわんばかりの写真を上げている頃、僕は何もできずに羨ましさと悔しさがこみ上げては、疲れて寝ていた。
(僕の中で、並の子はSNSをやらないという定義)
自分のことはいいとして、僕の人生の中で人の役に立てなかった期間が相当年数あることを情けなく思っている。
体調の波を読んで、実家を飛び出した。
大雨の日に、作業中僕は布団を床に落とし、引っ越し初日は泥だらけの布団で寝た。
当初は、実家と距離を取ってすぐに健康な人間になれると思っていたが、そう甘くはなかった。
ただ、精神的にはとても楽になった。
テレビを見て、思いっきり笑える。
スポーツを見ながら、いけいけー!と拳を突き上げる。
ナイスプレーには拍手を。
僕は今、生きている。
僕はようやくユートピアとも言える孤独という場所までたどり着けたんだ。
三歩進んで二歩下がろうとも、今の環境で前を向いている限り、大きく逆戻りすることもない。
豊かに生きている人はどうぞ、日本の経済をたくさん活性化してください、そのために僕もある程度応援しますよ、という善人のスタンスを持っている。
しかし、こんな僕には想像がつかないくらい、豊かな人にとって孤独というものは脅威的な存在らしい。
それこそ、孤独が引き金となって僕のようになってしまうことだってある。
僕は豊かな人には何も敵わないと思っていたけど、孤独でいる時の強さは人の何倍も持っているようだ。
豊かな人が苦手とする所に、僕がやるべき仕事があるような気がする。
交わることはなくとも、そうして世界中の人と補い合って生きていくことが大切なのかもしれない。