私事 埼玉で過ごした27年
私事ですが、先日8日に48歳になりました。48年のうち、通算で約27年を埼玉県で過ごしました。79年の幼稚園年長の春に父親が埼玉県富士見市にマンションをローンで買って、都心から引っ越し、埼玉での生活がスタートしました。父が秩父出身で、学生時代に東武東上線の沿線に住んでいたこともあり、土地勘もあったようです。最寄り駅のみずほ台駅が部屋から見える場所で、電車が好きだった自分に配慮してくれたようでした。
みずほ台という場所は、区画整理で開発された街。自分の成長とともに、周囲には新しいマンションやビルが建ち始めました。住んでいた富士見市は、60年代以降、都心のベッドタウンとして、人口が急増した地域。隣駅の鶴瀬駅が最寄りの鶴瀬団地では、人口急増でインフラ整備が追い付かず、日曜になるとみんなが水を使うので断水し、給水車が出ていたとの記事を、14年前に散歩がてらに訪れた市の民俗資料館で知りました。そこには、復元古民家のほか、別棟に、戦時下の千人針や日の丸にかいた寄せ書きなどもあって、見たことがなかったので目を引いたのを覚えています。もともと、富士見市の現在の荒川付近は縄文時代は海で、当時の遺跡がたくさんあります。竪穴式住居がたくさんあるのは、水子貝塚公園です。小さい頃、公園や造成前の森なんかで遊んでいると、普通に土器のかけらのようなモノが出てきました。昔は誰もがゴッドハンド=神の手になれました(そんな騒動もあった)。
富士見市であと公園といえば、頭の写真に使っていますが、菖蒲が見ごろの山崎公園。菖蒲には江戸系、肥後系など色々と種類があるそうです。菖蒲の季節になると、メディアに取り上げられることもあり、NHKニュースで見た時は少し感動したものです。さらに感動したのが、東武東上線が08年副都心線との乗り入れを始めて、渋谷とつながったとき。それがいまは東急東横線ともつながり、横浜にも出られるようになりました。個人的には、当時東横線沿線に住んで2年くらいだったので、渋谷まで乗り入れ、本当に便利に感じました。当時実家に帰るときに、急行の川越市行きに乗車。これで実家のあるみずほ台まで40分強で一本で行けました。みずほ台の駅で渋谷行きの案内板を見たとき、何か違和感を覚えましたが。
さて、そんな副都心線が渋谷まで開通した08年、92年から03年まで埼玉県知事を務めていた土屋義彦氏が亡くなりました。自分にとっては良くも悪くも忘れられない人です。96年から00年まで、実家のある埼玉で建設業界の新聞社に勤めました。当時は「ツッチー」(埼玉県庁などでは裏でそう呼ばれていた)のもと、さいたま新都心、埼玉スタジアム、常磐新線=つくばエクスプレス、圏央道などなど、さまざまなプロジェクトがあり、相応に活気付いていました。とはいえ、そんな中から、厚生省の岡光次官逮捕につながる汚職事件やら、国会議員の逮捕者を出したものつくり大学の事件やらが出てきて、自分がこの仕事を辞めた後でしたが、最後は身内の不祥事であっけなく辞任。三権の長である参議院議長経験の知事になって、それを威光に予算も引っ張ってきたり、うわさレベルでは彼が知事になったときに、立候補を辞めさせようした人たちが失脚したりと、何と話題に事欠かない感じでした。刺しでインタビューってことはなかったですが、色々な行事の取材でお会いしました。なんかいつも彼の周りには、たくさんの取り巻きがいて、さながら「お殿様」という印象。周りの職員が時間の段取りとか見てると大変そうでした。発言もなかなか面白かったりで。スーパーアリーナにジョンレノンミュージアムができたときの感想を尋ねられて、「平和の曲、最高だね」と答えて、記者が「ではビートルズで好きな曲は?」と聞かれ、「しらねぇ~」って答えたり。それと昔、とある道路の完成記念式典で、当時の建設省の統括官を務めていた埼玉出身の自分より当然回数の少ない国会議員が、先にあいさつをすることになったのに「順番違うだろう~」と激高して、周りをあたふたさせたりと、エピソードは数知れず。自分としては、結構あの時期にいまの仕事の下地を作ったときで、まあ給料は異様に安かったですが、訃報を聞いた時は、当時の経験と重ね合わせて、少し感慨深かったです。というわけで、48回目の誕生日を機に、長く過ごして埼玉について投稿しました。