エゴは悪いもの?私流エゴとの向き合い方
私が「エゴ」という概念にあったのは2017年。
その頃はスピリチュアルという言葉に非常に嫌悪感を抱いていました。
20代前半にカルトまがいの団体にお金を使ってしまったこと、知り合いに新興宗教にうっかり入会させられていた経験などから精神世界に触れることが怖くなってしまったからです。(今では笑い話)
そのため「物質界だけがリアルである」が信念となっていましたが、私の心はとても枯れてて希死念慮でいっぱいの日々でした。
そんな限界を迎えた頃に連絡が途絶えていた友人と街でバッタリ。
彼はスピリチュアルカウンセラーになっていました。
「おいおいまじか!!よりによってスピか〜」と思いましたが、私のなにかが彼を呼び止め今のモヤモヤした気持ちを伝えたことを覚えています。
その時におすすめしてもらったのが「ニューアース」という本。
この本が私を正しい内的探求へ誘ってくれた最初の本だと思います。
ちなみに2冊目はケン・ウィルバーの無境界。
ニューアースは「エゴ」がどんなものなのかが、とことん書いてある本です。エゴ説明書という感じ。笑
「全米580万部突破、世界37か国で翻訳、 アメリカ屈指のスピリチュアル・マスターによるスーパーベストセラー!」と書いてあるので、スピリチュアル嫌悪の私からすると抵抗感がありましたがエゴによる「分断」が対人関係の問題から戦争までも引き起こしていることが丁寧に書いてあり、当時は衝撃を受けました。
先日この本を再読した際に7年前よりもエゴに対しての理解が深まっているなと感じたので、ニューアースの言葉を引用しながら私なりのエゴとの向き合い方を書いてみようと思います。
この本を読むときのちょっとした注意点も。
そもそも「エゴ(ego)」ってなんやねん
「あの人はエゴイストだよね」という文脈では、「自分本位のわがままな人」といった意味で使うことが多いかと思います。
内的探求の文脈でいうと自分勝手というよりは「自我」の意味合いが強く、「認識、意欲、行動などの主体として、他と区別される自分。」といったニュアンスかと思います。(コトバンクより引用)
一方、ニューアースではこのように定義されています。
私なりに噛み砕くと『自分と他を切り分けるために拠り所としている自己定義(アイデンティティ)。それに付随する感覚(感情)パターン』といったところでしょうか。
エゴによって”自”と”それ以外”を認識することができる。
というのが大切なポイントかと思います。
エゴに対しての基本スタンス
「自己の主体はエゴではないことに、ただ気づくこと」
これは内的探求でよく言われることです。
ニューアースでもこのように書かれています。
この「ただ気づくこと」が自我意識で何十年も生きていると非常に難しい。
「ただ気づくだけでいいんだ!」と思っても、「本当にこれでいいのか?」というモヤモヤした思考が立ち上がったり「この思考は私ではない!」と信じるエゴが生まれたりして。
エゴは悪いもの?
「そもそもエゴは消すものなの?悪いものなのか?」という問いが私にはずっとありました。
ニューアースは結構なページ数がありますが全編にわたって「エゴは狂気であり、エゴからの解放を目指そう」という方向性で主張が繰り返されています。駆逐じゃ!ばりの勢いです。
そのため、通常意識で読むと「エゴ=いけないもの」という二元論で捉えてしまいがちで、私も何年もエゴを否定して生きていました。
そしてまさにそれこそがエゴの罠なのです。
でもニューアースに一箇所だけ「エゴは悪ではない。」とハッキリ書いてある箇所があります。(他にもあって見落としていたらすみません)
7年前はこんな1文読み飛ばしてますわ〜。
でも7年経ってからこの「エゴは悪ではない」という前提がとっても大切だということがわかりました。
この前提にたたないと先ほどのエゴの罠にまんまとハマってしまう。
もれなく「エゴと戦う私」というエゴを手に入れてしまうのです。
ここ最近では、エゴはシンプルに目に見えない領域(精神性)を切り分けるナイフ(道具)のようなものだと感じるようになりました。
ナイフなので機能は切り分けること。
エゴ自体は実直にこの機能を遂行しているだけであり、エゴ自体は別に悪いものではないのです。
実際に以前書いた記事でも発達過程で精神の切り分けに失敗した場合は病理を発症すると書きました。
エゴは私たち人間が「人間という物質界で生きていく」ためには必要不可欠な機能なのです。
なぜエゴから苦しみがうまれるのか?
では悪ではないものからなぜ「苦しみ」が生まれるか?
私が思う理由は3つ。
1.執着が生まれるから
自己アイデンティティ(私は●●という人だ)が強化されすぎると、そこに執着が生まれ、手放すことができなくなります。
なかなか子離れできない、中年クライシスなども、自己アイデンティティを「親」や「働く自分」といった概念に自己同一化しているからです。
2.ペルソナでしか生きられなくなるから
エゴは分断する機能なので「良い私」と「悪い私」という概念を作り出し、良い私という概念だけに自己同一化をする傾向があります。
この分断が進むと自分の精神性がどんどん小さくなっていき、ペルソナ(仮面)としてか生きていけなくなってしまいます。
この分断については下記記事で詳しく書いています。
3.孤独を感じるから
エゴは切り分ける機能なので、強化されすぎると「この世界にぽつんといる自分」という感覚が強くなり、人も含めたいろいろなものとのつながりが感じられなくなってしまいます。そうして孤独を感じやすくなります。
私が希死念慮がひどかった時もこの腐敗した世界に産み落とされた私(by鬼束ちひろ)の世界観がとても強固でした。
理由はまだまだ挙げられると思いますが、ナイフが使い方を間違えると誰かを傷つけてしまうようにエゴも使い方、扱い方が大切なのです。
だから無意識であるエゴに気づいて、自己同一化するのはやめましょう。というのが多くの本で主張されていることかと思います。
やりがちな誤ったエゴとの切り離し方
「自己の主体はエゴではないことに、ただ気づくこと」
それは、エゴは「私ではない」と切り捨てることとは違います。
よくスピリチュアルでは「手放す」という言葉を多用しますが、このニュアンスを「いらないから、否定する」みたいな感覚でやってしまうと、エゴを抑圧して、よりひどいことになります。
繰り返しているようにエゴは悪いものではなく、私たちの機能の一部として存在しています。
胃は確かにあるけど胃=私ではないみたいな感じです。
胃は食べ物を細かく消化しているけれど悪い!なんて感じないでしょう。
機能が行き過ぎて消化するものがないのに胃酸を出し始めた時に初めて害となってきます。
ウィルバーが唱える「超えて含む」の概念ように、確かに内包しているけれど私の全てがエゴではないということです。
マインドコントロールを間近にみた恐怖体験
「エゴを意識から排除する危険性」については実体験があります。
冒頭で申し上げたほぼカルト宗教の自己啓発セミナー。
そこでは何日かかけてプログラムをこなし最終的には湧き上がってくるエゴを感じ切った上で「それは私ではない」と宣言していくような内的ワークを行います。
周りにいた人々はこの方法でどんどん洗脳されて主体性を失っていきました。そして最終的にはこの組織に属することが自分の使命であると信じるようになっていくのです。
今思うとこれはこれは言葉(思考)でエゴを切り離している感じなのですごく無理やりなのです。
「この思考は私ではない(だからいらない)」というかなり強い否定感によって麻痺状態にさせられていた気がします。
「私」という意識を広げていくのではなく、どんどん分離させていったのです。そうして残ったものは団体への信奉です。
逆に言うとこの概念だけが残るようにプログラムされているのです。
素直な人ほど真面目にやってしまい、最終的に残った概念に自己同一化させられます。
この最終パートではみんな「宇宙が見えた!」などと言って興奮しきってましたが、そういった「ヤバいスピリチュアル」も実際たくさん存在します。
その見分け方についてはまた今度書こうと思います。
(ちなみに私は懐疑的すぎたのと、秘策があり洗脳されなかった。笑)
話が若干脱線しましたが、
・エゴは機能(構造)であり、悪ではない
・無理やり排除するものではない
このことが記事を通して伝われば嬉しいです。
苦しみがエゴに気づくキッカケになる
私がこういう内容を書くのはそれを知ることで「救われた、楽になった」からです。でも最近思うのは時に『意識の発達を自分や他者に強制していないか』ということ。
ニューアースでもエゴからの解放という方向性が救いであるように書かれていますが、こういったことを正として焚き付けてしまうのもまたエゴなのだと思います。
これが行き過ぎると気持ち悪いスピリチュアルになってしまう。。。
でも、今ぼんやりと「苦しい」と感じるなら私と同じように、意識の発達や内面のメカニズムを知ることで楽になる人もいるかもしれないなという想いで書かせてもらってます。
「苦しさ」は人を動かす原動力で、意識に上がってきていないことを知らせるサインだとも思っています。
まずは自分の内面にある苦しみにじっくり向き合ってあげること。
辛い時はカウンセラーさんなどプロの力をかりてほしいです。
(日本はまだまだカウンセラー文化が浸透してないので…)
想像以上に長くなってしまいましたが、最後まで読んでくださりありがとうございました!
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