安倍元首相銃撃は記憶にございません!?星組の暴走か宝塚の崩壊か
総理大臣が街頭演説中に襲撃なんて、ほとんどファンタジーだった。
アメリカ大統領が銃撃されるのでさえ、教科書の話だった。
そんな時代に公開されたのが、映画「記憶にございません!」 である。
しかしこの数年で元とはいえ総理大臣も大統領も銃撃され、日本では命を失った。
それをギャグっぽく「フィクション」と言い張れば済むのか?
あの1文で、生々しい事件を茶化すコメディが「表現の自由」を得るのか?
映画では子どもの頃に書いた作文で「みんなの前でボールが当たれば、性格を変えられる」という考えを示している。ここが重要であった。
「いつ記憶が戻ったのか」への考察を多く見るが「ここっぽく見せてる」場面はある。
しかし最初から記憶喪失でなかったなら、あえて計算された動きに見える。
周囲に信じ込ませるために、日常的に細かい演出演技をする。気の置けない時など無い。そこが総理大臣っぽいのだ。
近しい仲間も家族も、神の目線である観客をも欺く。兵庫県知事ならまだしも「総理大臣」になるのはそんな人、という映画だと思っていた。考察というより、風刺を入れまくったゆえの逃げ道かもしれない。
しかし作文の内容を変え、逃げ道を塞いでしまった。
そのせいで更に新たな問題も生じた。
宝塚大劇場公演時は一周忌もまだだったはずの、宙組生転落死事件だ。
額に傷が残った主人公が「おかげで変われた」と加害者にお礼を言う……パワハラ自殺とされる根拠になった、ヘアアイロン事件である。
礼真琴の上級生なんてそれほど残っていないのに、わざわざ配役するのも嫌みったらしい。
宝塚における「正しい下級生像」が示されていた。
石を投げた犯人に感謝するのは「記憶喪失が嘘かもしれない」から成り立つ。
つまり死にかけた訳でもなく、変われるいい機会が無いかなーと思っているところに石が向かってきたから、乗っかっただけ。「変わるチャンス」だけをくれた可能性があるから納得していた。
しかし作文の内容を変えたことで、宝塚版の投石犯は確実に「殺人未遂犯」となった。
安倍元首相銃撃事件の犯人もかなりの事情が報じられているので、情状酌量を求める意図があるのかというと……おそらく無い。政界コメディというにはいっちょかみの風刺で、ただのコントなのだ。
元首相が暗殺されたのに、総理が襲撃され「生まれ変わる」話をやる酷さ。
礼真琴は脚本から逸脱しないようにしており、心情は読み取れなかった。
舞空瞳は気持ち悪いわざとらしさで、白々しいコントに落とし込んでいる。
そしてコントの中にいる暁千星は虚無っていて、持て余されたトリオ芸人のよう。
無難な役とはいえ、まともに芝居らしい芝居をしているのは詩ちづるぐらいであった。
ただまともな神経をしていれば、この作品の醜悪さが分かるはずで。
それゆえの虚無コントなら納得だ。
死人が出た事件をコントにし、笑っている客席。これが本当にキツかった。この1年、宝塚ファンがどう見られているのかを思い知った。
しかし今回最も問題だったのは、三谷幸喜が許可したことだと思っている。
演出家の石田昌也、悪名高き現理事長、『RRR × TAKA"R"AZUKA ~√Bheem~』での問題行動がリークされた星組スタッフ等、竜宮城の住人に俗世のモラルが欠けているのは散々知らしめられた。
だからこそ令和のエンタメ最前線にいる原作者に「コンプライアンス審査」を求めたのではないか。
宝塚版を認めたのは「安倍晋三銃撃事件後でもこの映画を作った」という表明になる。『スオミの話をしよう』の酷評も分かる気がした。
もちろん単なるチェック不足の可能性も否めない。原作に忠実でギリギリのラインだったのを、完全アウトにしたのは余計な改変だ。
しかし責任は知名度に比例しがちである。
宝塚歌劇団は「いざとなれば三谷幸喜のせいにできる」狙いで打診したのかもしれない。
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