指導からの解放
25歳娘役が急死した問題を巡り、宝塚歌劇団側と遺族側が合意書を締結したと発表された。
宝塚ファンから観たことも無いという人まで、多くのコメントを出している。それらを読んでいると「悪い点を虱潰しにすればいい」というのが多い。
しかしその考えは危険だ。整合性ある変革には、良いとされている面から無くす必要がある。
宝塚は古く大きい組織だが、高齢者だらけではない。閉じられた世界とはいえ完全に遮断されているわけでもなく、毎年40人ほどが入れ替わる。トップスターでさえ一般社会では若い部類だ。
それでも変わらなかったり悪化した点は、合理的な面やニーズがあったからであろう。風土改革となれば、今の宝塚の魅力も多少諦めなければならない。
公演回数など過密スケジュールは既に見直された。また技術的な難易度を、低めに設定すると思われる。観客としてはチケットが取れなかったり、物足りないかもしれない。しかし大半が望み受け入れているはずだ。
特に近年は配信重視の傾向もあり、客席へのアピールやファンサが得意な演者への風当たりが強かった。
スポーツ的に技量を測るファンも多く、数値的技量の低い演者を叩く風潮があった。しかしそれらは、実力派とされる演者の首を締めている。
難易度の高いダンスシーンは、体調を不安視する声も多い。調子が悪い時の回避策が難しいのもあるだろう。実際に休演中止を招いた事例も出た。
宝塚で評価されやすい群舞は、軍隊だと批判を浴びた一因でもある。いかにもパワハラの象徴なのは確かだ。
宝塚は本来、絆を売りにする劇団である。だからこそ舞台だけではなく、音楽学校自体に憧れる人も多い。
ベテランといわれる上級生でも、音楽学校時代や配属当初である研1~2のエピソードは目を輝かせて語る。反応は桁違いだ。何かと真っ先に話題になる。
技術体力的に無理のないパフォーマンスに抑えたとしても「同期や予科本科」「生え抜き同士」といった、ビジネスを越えた絆で十分魅力を発揮できるはずだ。
さらに過重労働に関係するのは、指導業務からの解放や自由化と思われる。
合意書(1)(2)はヘアアイロンの件で、気遣いや謝罪をしても真にではないとしてパワハラが成立した。下級生自身が付けるアクセサリーを向上させる指導もパワハラとなった。
(13)では下級生の失敗を上級生の責任とするのもパワハラとされた。
裏を返せば、上級生に指導を強要しないということだ。もう「教えなかった」ことを上級生の職務放棄といえない。
駄目なら駄目なままでいいのだ。
ところで新人公演は、本公演の演出家が作った舞台を新人公演担当者が演出する。つまり新人公演にとって演出家は、原作者のようなものだ。
演出家の指導もパワハラ視される一方で、セクシー田中さん事件により著作人格権にも注目が集まっている。
作家にとって作品の表現に不満が残るのは、命に関わる苦しみになりえるのだ。
一緒に創る本役と比べ、新人公演はそれほど教えられない。
本役による指導も自由となれば、演出家の意図を教わらない下級生も出るだろう。そもそも本役のスターが責任を持って指導したからこそ、顔を立てざるをえない面もあったはずだ。
厳しい指導を避けつつ、著作人格権を守るとなると「出来映えを理由に新公中止」や役を降ろすのを認めなければいけない。
教わりたい上級生にだけ聞く下級生と、教えたい下級生にだけ教える上級生。
その上で世の中に出せる舞台を作るには、下級生自身が全ての責任を負うことにはなるだろう。
しかしそれこそが、健全な令和の宝塚歌劇団かもしれない。