【書評】ジョン・グレイ『猫に学ぶ -いかに良く生きるか』
『猫に学ぶ -いかに良く生きるか』(ジョン・グレイ 鈴木晶訳/みすず書房/2021年11月)
「私が猫と遊んでいる時、私が猫を相手に暇つぶしをしているのか、猫が私を相手に暇つぶしをしているのか、私にはわからない」
これは作中でも引用されているフランスの思想家モンテーニュの言葉。思想家による夢想的な言葉として映るかもしれない。あるいは、特に猫が即ち飼い猫を指し、猫との関係に主従が前提されやすい現代人にとってはこの切実な疑問の真意は見えにくいかもしれない。自身も、本書を読んだことで自身が(あえて犬派、猫派という土台に身を置いた上で)犬には投影できない何か、猫にだけ感じる憧憬の正体を見ることが出来た。
諸説あるようだが、本書にて猫はヨーロッパ山猫というたった一種類の猫が人間と共生する術を身につけ、世界中に広まったとされている。猫は人間を安定した食料源として利用し、人間もまた猫をネズミやその他動物の捕食者として利用した。けれどそれから現在に至るまで、猫はその身体的特徴を大きく変えることなく専門家は今も尚、家ネコと野生ネコとを区別することは困難であるという。対象的な例として、犬の祖先はオオカミであり、人間との共生を、主従の受容という形で受け入れ、身体的特徴を変えてきた動物が犬だ。(本書の中では犬はしばしば「人間もどき」と称されている)
しかし実際には猫は必ずしも良き捕食者ではなく、目の前にネズミがいても襲わない場合もあるし、目の前のゴミをネズミと共有する場合もある。猫と人間の関係の根本は利害関係ではなく、猫が人間に猫を愛することを教えたことにあった。
では猫を愛する理由は何か。本書はそれをモンテーニュやフロイト、パスカルといった哲学者から、コレット、谷崎潤一郎といった作家に至るまでを渉猟しながら、考察していく。それほど難解ではないが哲学史についての記述も多いため、『読まずに死ねない哲学名著50冊』(平原卓/フォレスト出版)あたりを適宜参照しながらその外郭を理解した上だとより読みやすいかもしれない。
猫を愛する理由はいくつも挙げられるけれど、結局のところそれは猫が人間とあまりに違うから、ということになる。愛猫家は猫の中に自分自身を見出すから猫を愛するのではなく、猫があまりに自分と違うから愛するのだ。熱心に引用されている哲学や論理は、猫とはあまりに異なる人間の営みとして、猫にとっては嘲笑さえしてしまうであろうものとして、用いられる。猫は冒頭に述べたような人間が勝手に想定した主従関係を元より持ち合わせておらず、本性に従う、超リアリストである。
本書で哲学を引用する必要として、例えば、人間は幸福を追求する。けれど現在は過ぎ去り、すぐに不安が忍び寄る。宗教、哲学、現代なら心理療法(セラピー)は不安を解消するための手段であり、それらは猫には必要のないものだ。なぜなら、猫にとっての幸福とは、それを邪魔するもの(脅かされたり、知らない場所へ連れていかれたり)がなくなった時に自然に戻る状態のことだからだ。人間の幸福は人工的なものであり、猫にとっての幸福は自然状態を指す。猫は歴史の中で崇拝されることもあれば、忌み嫌われることもあった。けれどその嫌悪は、人間が持つ慢性的な不安を持たない、生まれつき幸福を得ている、猫への羨望の裏返しだったのかもしれない。過去から現在においても、しばしば人は抽象的な思考能力を持たない人間以外の動物を下に見るが、本性に従って現在のみを生きる猫と、本性を覆い人生に物語を常に必要とする人間とを比べて、必ずしも猫が人間よりも下の存在だとどうして言えるだろう。
人間が、理性やら道徳やら言語やらと言っているとき、全く異質の存在である猫が人間世界に入ってきたことで人間は世界の外を見られるようになった。上記は内容の一部に過ぎず、それ以外にも猫から学ぶことは多い。けれど猫が人間から学ぶことはなにもない。ということがこの本を読むとよくわかった。
実際、悲しいかな猫に学んでも、人間がそれを完璧にものにすることは出来ない。「猫になりたい」という願望はフランクなものだけれど、人間と猫の差異を理解すればするほど、その願望はかなり切実なものであると思われる。猫にはなれません、それでも最後に、本書の末尾「いかに良く生きるかについて、猫がくれる十のヒント」の章から一番現実的で有用だと思ったものを引用する。
8.眠る喜びのために眠れ
目が覚めたときにもっと働けるように眠るというのは、みじめな生き方だ。得をするためではなく、楽しみのために眠れ。(p.155)