【書評】角幡唯介『書くことの不純』
角幡唯介『書くことの不純』(2024年1月25日/中央公論社/1600円+税)
学生ラストとなる書評を何で飾ろうか、せっかくならこれまでの読書で印象に残っている本の中から選びたい、と思っていた(最後でハズしたくなかったのだ)。しかし選書に迷っている期間、覗いたツイッターにてうっかり、著者の新刊告知を目にした。探検家であり、作家でもある人間が感じ取った「書くことの不純」について。純粋な興味を抱いたため、書店に向かったのだった。
同作家については以前にも、『極夜行』という数か月に及ぶ極夜での探訪を記したノンフィクション作品を書評した。本作は『極夜行』や『空白の五マイル』をはじめ、これまで数多くのノンフィクション作品を残してきた著者によるエッセイ本だ。
話題はまたツイッターに戻るが、数年前に著者のあるツイートがバズったことを覚えている。本作品の序論も、当時のツイートについて触れるところから始まっている。
〈昨日若い記者のインタビューがあり、あえて意地悪な言い方をしますが角幡さんの探検は社会の役にたっていないのでは、との質問を受け絶句した。
自分たちの世代は行為や人生そのものが社会への還元の観点からしか価値づけされておらずそういう思考を強いる圧力を感じる、という話が印象的だった。〉
この記者からの質問を受け、著者は反射的なムカつきを覚えつつも、いいフックが脇腹に入った感じもしたという。絶句した著者は、記者の質問に対して「本当にそんなことを考えるの?」と反問した。このツイートに対しては数多くの反響があり、著者自身も現代人の持つ「外部」と「内部」について思索を深めたという。ここで言う外部とはすなわち、社会システムのことであり、個人を取り巻く環境全般を指している。著者は当時下界にいなかったそうだが、特にコロナ禍での自粛を巡る風潮を思い出せばわかりやすいだろう。著者自身、決して外部の存在を否定しているわけではない。けれど、現代人、特に若い世代はあまりにも外部の論理にしたがい過ぎているのではないか、その結果、社会からの要請を抜きにした、これをやりたい、こういう生き方をしたい、という人の内側から湧き上がる内部がゆるされない社会になりつつあるのではないか、と指摘する。
内部と外部の不均衡については首を縦に振るばかりだった。というのも私自身、この問題は言葉にならずとも、これまでずっと付きまとっていたような気がするからだ。
小学校の卒業式でのことだった。卒業式では、証書を受け取る前に、壇上で各々が順に自身の夢を語る、というルールがあった。当時12歳。具体的な目標も、なりたい職業も特になかった。周囲が医者や野球選手、学校の先生と自身の将来像について発表する中で私は、「サッカーのスパイクをデザインする人」と壇上で夢を語った。虚無だった。先生には、「具体的でいいね」と言われた。今振り返れば皮肉な話だと思う。きっとこの少年は出来ることなら「サッカー選手」になりたかったのだろう。けれど、スポーツ選手になるにはあまりに天分が足りなかった。そしてそのことを自身、というよりも周囲が口に出さずとも知っていた。だからこの少年は、12歳ながらに抱えた羞恥心との落とし所として「サッカーのスパイクをデザインする人」という空虚な答えを出したのだろう。自身の内部よりも、外部、関係を優先したのだ。
暫しの時が経ち、18歳。私は浪人生だった。春過ぎだったか、両親が私に志望先を聞いた。私の志望は早稲田大学で、それは私にとってかなり現実的な目標であった。必ず受かる、とは言えないが、一年あれば圏内には入れるという目算があった。両親の望み通り志望を伝えると、二人は鼻で笑った。これまでの実績を見れば仕方がないということは理解していたが、親に嘲笑われた私は一年間、孤独に外部よりも内部より発せられる声に従った。結果、ギリ合格した。途中、いくら成績が跳ね上がって嬉しくとも、模試の結果は誰にも見せなかった。
どちらも本当に取り留めのないエピソードで、別に学校も親も恨んじゃいない。けれど夢がない時に外部に夢を語らされ、目標が出来たら外部に目標を嘲笑され、というのは私自身のもつ内部と外部の存在を印象付けた出来事ではあったはずだ。ちなみに以降私は真面目に将来について聞かれると、(そのときに夢や目標があってもなくても)簡単に受け流すか、あるいは吃るようになった。夢の強要はドリハラ(ドリームハラスメント)というらしく、それもそれで面倒な世の中だ、とは思うが。
エッセイに話を戻そう。内部の薄い、外部による圧力によって生きる人は前述した自身の経験から逆説的に言えば、外部に反発する理由がない、延いては優しい(その実非常な)外部によって生きてきたということなのかもしれない。当然人は皆、多かれ少なかれ不条理な体験は経ているだろうけれど、その時に何を思い、意識したかという点で差異が出る。自身の持つ内部や、湧き上がる衝動について気付く機会がなければ、自然と、外部の論理に従うほかない。この内部とは、例えば進路決定でよく見受けられる「なんとなく」のことでは決してない。「なんとなく」はむしろ外部による圧力に近いように思う。著者にインタビューをした記者は優秀で真面目そうだったそうだ。著者は取材を端緒に、現代人について、〈別に本心から社会の役に立ちたいと思っているわけではないが、風潮という外からの圧力があるから、仕方なく社会の役に立つことにしている。世の多くの人の行動基準はそのようなものだと憶測する。〉
一方で、序論での筆者の話は要するに「よく生きるためには内部に従う必要がある」ということになるのだが、これが生存者の論であることにも留意しておかなければならないだろう。内部のない外部に生きることは確かに空虚かもしれないが、内部に従えば生きていける訳でもない。著者の場合は、冒険という内からの衝動による行為が文筆とリンクし、収入となり、内部に従い続けることを可能にしている。このことはどうしても否めない。けれど必ずしも内からの衝動が利益を産むとは限らず、また、外部に従っているうちにそこに湧き上がるものを見つけることもあるだろう。主張していることはあくまで、内部を持つことの重要性であり、外部の否定では無い。
さて、ここでようやく「書くことの不純」だ。
著者は探検家であり、その探検を綴る作家でもある。著者にとって探検することは内部からの衝動による〝行為〟であって、その体験を書くことは社会との関係を意識した外部性を持つ〝表現〟である。そして、行為者であり、表現者である著者を、これだけはっきりと結論付けたはずの内部と外部の問題が蝕む。
ある探検の道中、著者はどうしても川幅70mの激流を渡る必要性に迫られた。近くに橋はない。遭難覚悟で川へ下り立とうとしたとき、一本の金属ワイヤーが対岸にかかっているのを見つけ、それを頼りに激流を渡った。
本来ならば幸運に安堵すべきこのとき、著者にはある考えが浮かぶ。それは〈もしワイヤーではなく、川を泳いで生き残ったら、そっちの方が話は面白くなったんじゃないか?〉という悪魔の囁きに近い思考だ。その瞬間、行為者としての探検家が、表現者としての書く存在にとって代わっていたのだ。本書で示す「書くことの不純」とは、行為と表現の狭間に生きる著者の苦悩を表す言葉だった。本書ではこうした「書くということ」に加えて、「生きるということ」の二つの軸をもって、著名な登山家や開口建、三島由紀夫などの論を援用しつつ、スパルタンな思考を巡らせていく。
〈結局のところオレは死ななかった〉
〈生きることに不徹底だったのではないか〉
冒険家の宿痾を見ることは、生きることへの探求でもある。そうなれば、著者の論は下界に生きる我々とリンクする点も大いにあるだろう。
最後に本書に水を差すようではあるが、アマチュアの書き手としては、著者を取り巻く葛藤や問題が一応は探検期間に凝縮されること、これだけは結構羨ましく思えて仕方がなかった。極限状態での自己分裂にはそれなりの苦悩が在るのは分かる。一方で、プロアマ関係なく、純粋な作家にはまた少し違う戸惑いがある気もする。それはつまり、行為全般、要するに生活すべてが、常に書くこと、表現を前提にしているような気がする、ということだ。この出来事は使えるんじゃないか、今ここから何々が見える。そんなことばっかり考えているような気が、時たまするのだ。著者が探検中にジェットコースターの如く巡らせる思考の奔流が、作家には薄くのっぺりと日常を覆っているような感じがしないでもない。どちらが苦しいということではなく、どちらもそれなりに苦しいのだろう。それでも少し、冒険者×ノンフィクション作家という存在が羨ましい。本書を読みながらそんなことを考えた。要するにないものねだりである。