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ダラダラしたい

時間に追われないで過ごすにはどうしたら良いのだろう。家の中で本を読んだり美味しい飲物を飲んだりして過ごしていると、なんと贅沢なことでしょうと思う。人によって贅沢の度合いは違うと思うが、人生に贅沢は絶対に必要。このままずっとダラダラ過ごすことが最適だと思われる。結局、生産性のないことをやって時間を過ごすことが一番好きだ。

久しぶりにテレビを見ていると、自分が日々感じていることにとても乖離がある。「どうしてこうなっているのか」と考えると、頭がおかしくなりそうになる。パフォーマンスをしているのだ。金のために。金金金金金。金の切れ目は縁の切れ目と言うけれどなんだかなあ。テレビに映っている光景がイコール社会とは言わないけれど社会も自分も、もともと互いに少しずつおかしいのかもしれない。社会とやらが自分を形成している一部分なのだとしたら?今の社会がおかしいのであればおかしい人間が生成されるはずだ。もう常識がわからない、というか、疑わないと足元を掬われそう。どうしてこんなことになっているのか。明らかに現状を無視しているニュースを見ていると明るく健全風な画面とは対照的に暗い気持ちになってくる。想像し過ぎるとテレビ局員側の気持ちにもなってしまう。早くドキュメンタリー映画を見たい。夏の蝉、よくウザがられるけれど律儀に鳴いている。

親戚の集まりが嫌いで、お盆は嫌な行事のひとつ。もう形式だけならリモート線香で良いじゃん、と思う。有象無象の親戚の中に「不意打ちをかましてくるおっさん」キャラがいる。思春期の頃は二次性徴を指摘したり最近は結婚の予定を聞いてくる、デリカシーとかプライバシーという概念がインストールされていない。性格は悪くないのかもしれないが、そんなのどうだっていい。悪い人間じゃなくても自分にとっては都合の悪い奴というのが世の中にはいるのだ。なのでこちらは避けまくっているのだが、おそらく当人は気づいていない。今回も会わないようにしていたのだが、運悪く鉢合わせしてしまった。やってしまった。しかしよく考えてみれば、嫌なことは嫌だと言えばいい。それか、表情に思い切り出すとか。私が悔しいのは、その場を早くやり過ごしたくて、つい愛想笑いしてしまったことだ。本当に悔しい。忸怩たる思い。これは相手の言動を認めてしまったことと等しい。だから次回は言ってやりたい。「そういうの面白くないですよ」「自分の子供も言えないじゃないですか」とか。なんか喧嘩になりそう。でも喧嘩をしたいのではない。まあ一言くらいは言ってやりたいけれど。喧嘩、時には必要だと思うがエネルギーを使う相手でもない。ましてや、家父長制を重んじている時点で議論などできない。私とあなたでは考えが違いますね。なのでただ、放っておいてほしいのである。「放っておいてほしい」とストレートに言えばいいのか。しかし生まれてこのかた「放っておいてくれ」とか「うるせえなあ」と心底思う場面が多い。

金のために仕方なく労働者にはなるが、死ぬまで洗脳されたくない。どうせ理解不能な社会とやらと今後も付き合っていかなくてはいけないので、せめて自分の思いくらいは自由に泳がせていきたい。私の感じる幸せや自由はちっぽけかもしれないけれどだからこそ、自分で守っていくことが必要。律儀に生きるのは自分の信念とだけでいい。どうせ最初からめちゃくちゃな世界じゃないか。

宗教2世から脱却した人、尊敬する。他人がとやかく言えないほど本当に難しいことだと思うけれど、強さを感じる。人間は弱いけれど自分を信じることができたら、とても強くなれるのだなと思う。

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