コインランドリーストーリー

いよいよ明日履く靴下がなくなった。

スカスカになった棚を開けて洗濯カゴへと視線を落とす。

3週間分の洗濯物が、カゴの中に収まりきらず上へ上へと積み重なっている。
ラーメン二郎の野菜マシマシのようである。

ランドリーに行かなくては。はぁ、面倒臭い。

自炊、洗い物、掃除は苦じゃないのに、ランドリーに行く時間だけがどうしても面倒臭い。

面倒臭いという理由だけで新しい靴下を買いに行ったりするので、毎月靴下が増えていく。

買い足した靴下すら使い切った時には、洗濯物の山の中から過去に履いた靴下を発掘することもある。

靴下の柄を見て、それを履いていた日を思い出し、その日歩き回った量の少なさで、再度履くかを決める。

そんな涙ぐましい取り組みも全てやり切った上で
いよいよ明日履く靴下がなくなった。

どうしてランドリーに行くことだけ
こんなに面倒臭いのか。

家から地味に遠い上に、作業行程を考えると気が滅入るからだろう。

家の周りにはランドリーが2つある。
近い方が8分、遠い方が10分かかる。

いつもどちらに行こうか迷う。

近い方にすれば良いと思うかもしれないが、洗濯と乾燥が一度でできる洗濯乾燥機が付いているのは遠い方だけなのだ。

この面倒臭さは体験してみれば分かると思うが、
洗濯乾燥機の場合の行程は
1.家を出る
2.洗濯乾燥機を回す
3.家に帰って待つ
4.家を出る
5.洗濯物を取り込んで家に帰る
と、5行程で済むのに対し

洗濯乾燥がバラバラの場合、
1.家を出る
2.洗濯機を回す
3.家に帰って待つ
4.家を出る
5.洗濯機から乾燥機へ移す
6.家に帰って待つ
7.家を出る
8.洗濯物を取り込んで家に帰る

と、8行程、つまり3行程も増えるのだ!
これはもうちょっとしたイベントである。

しかし遠い方は遠い方で、緩やかな長い坂を登っていかなければならず、値段も少し高い。

そのため、どちらのランドリーに行くかは、その時の気力、体力、経済力によって毎度変わるのだ。洗濯の選択。

今日の僕は8行程を耐える気力はない。坂道を登る体力はある。財布の中の経済力もギリギリある。

よし。遠い方のランドリーへ行こう。

無印良品で買ったデカすぎる袋に3週間分の洗濯物を詰め込み、重たくなった袋に体幹を乱されながらランドリーまでの坂道をフラフラと歩く。

いつかテレビで見た、何キロも先の湖まで歩いて水を汲みに行って、壺を頭に乗せたまま村まで運ぶ外国の少女を思い出す。

たとえ文明が進んでも、貧しい人間は重たいものを持って往復し続けないといけないのだろう。僕のように。

貧しいとは、重たいものを持って往復しなければいけないことをいうのかもしれない。

ランドリーに着くと、一番人気の、一番大きな洗濯乾燥機が空いていた。今日はラッキーだ。

洗濯乾燥機の中に洗濯物の塊をつっこんで蓋を閉める。
『洗濯物の目安』と書かれた線はゆうに超えているが、賞味期限しかり、公共料金支払日しかり、世の中の決められた線引きは、多少超えても大丈夫なようにできている。

今から1時間で洗濯と乾燥が終わる。
今日はまだ晩御飯を食べていなかったので近くのファミレスで食事をとることにした。

ここで家に帰ってしまうと、取りに行く気力をチャージするのにまた2時間かかる。
一度家に帰ったせいで全ての行程を終わらすのに8時間かかったこともある。

晩御飯を終えてスマホで漫画など読んで、50分くらいたった。
そろそろランドリーに向かおう。

ランドリーの前に行き、窓ガラスから中を覗くと、まだ洗濯物は回っていた。
終了まで残り8分の表示。

そして、店の中にはおじさんが一人立っており、僕の洗濯乾燥機を腕組みをして見ていることに気が付いた。

おじさんの足元には、洗濯物が入った紙袋が三つ置かれている。
全て合わせたら、僕の洗濯物と同じくらいの量か。

おじさんも一番大きい洗濯乾燥機を使いたいのだろう。
迷惑をかけるわけにはいかないので、8分後に着くよう心得て近くのコンビニで時間を潰す。

洗濯物以外に荷物は増やしたくないので結局何も買わずにランドリーに戻った時、驚いた。

確かに8分ほどで戻ってきた。
しかし僕の洗濯物が入っていた洗濯乾燥機は空になっており、そこにおじさんが自分の洗濯物を詰め込んでいた。

そしておじさんの後ろには店が用意した大きなカゴがあり、その中に僕の洗濯物のすべてが積まれていたのだ。

洗濯機の数に限りがあるランドリーにおいて、取りに来ない洗濯物を次に使いたい人が出して外のカゴに入れるのは珍しいことではない。

しかし、いやしかしである。
それをするには早すぎないか?

反射的に約30秒前の光景を想像した。

洗濯乾燥機の残り時間が0になり、ピーという音のpの音がなったと同時におじさんが疾風怒濤の勢いで蓋を開けている光景を。

そして、洗濯したばかりの僕のパーカー、Tシャツ、靴下、そしてパンツを鷲掴みにしてカゴの中に放り込んでいく様を。

あぁ、、、気分が悪くなってきた。

いや、僕も乾燥が終わる少し前からスタンバイしていたら良かったのかもしれない。
だが、一つの洗濯乾燥機の前で二人で待つのも、お互い気まずいだろうと思って避けたのだ。

その気遣いが不幸を呼んだ。
思えば8分前に腕組みをしていたあの時から、おじさんの助走はすでに始まっていたのだ。

あぁ、、これから3週間、おじさんが掴んだパンツを着て、おじさんが握った靴下を履いて、おじさんがカゴに詰め込んだTシャツを着て過ごさないといけないのか、、、、。

僕がおじさんを視認したことも不幸だった。
もし誰もおらずカゴに洗濯物が積まれただけの状態だったらまだ救いがあった。
入れたのは清潔なお兄さんかもしれないし、綺麗なレディかもしれない。
シュレディンガーのランドリーだ。

だが僕は、カゴに洗濯物を入れたであろうおじさんをはっきりと視認してしまった。
黒いジャージを着たメガネの40代後半であろうおじさんだ。

僕はモヤモヤしたまま、カゴをとっておじさんが一手間加えて仕上げた服を袋に入れていった。

すると
「あっ」
とさっきまで無心で洗濯乾燥機に服を詰め込んでいたおじさんが振り向いて僕の目を見て言った。

「すみません、カゴに入れちゃいました。」

謝られた。
謝られた。
ということは、悪いことをしたと思っていたのか。
悪気はないと思っていたが、悪気があったのか、、

いや、悪気があるはずがない。
彼は8分前から助走をつけていたのだ。
するべきか否か、考える時間は十分あったはずだ。
乾燥が終わった時点でも待つ時間もあったはずだ。
しかしおじさんは、疾風怒濤の勢いで、百人一首大会のスピードで、一瞬の迷いもなく、0分になった瞬間に洗濯乾燥機の蓋を開いたのだ。

そんな人間が、悪気などあってたまるか。
自分の行為に間違いがあったなどと思っているものか。

一年前から殺人の計画を立てて緻密なトリックで遂行した犯人が、自分が間違っているなどと思うものか。

おじさんはただ、行為を正当化する自論を確立させ、強い意志で犯行に及んだ。
だが、来るはずがないと思っていた持ち主が思いの外早く来たので、バレずに退散する計画が頓挫し、完全犯罪がバレてしまい、思い半ばで自首するしか選択肢なかっただけなのだ。

このおじさんは、自分自身のために謝っている。
許されたくて謝っている。

もう少し僕が遅く来れば
「すみません、待ってたんですけど、カゴに入れちゃいました。」
と正当化できる保身のワードを入れることもできただろうが、あまりに早く来た僕に言える言葉は
「すみません、カゴに入れちゃいました。」
というどうしようもない自首だけだったわけだ。

しかし思考より早く僕の口から言葉が出ていた。

「ああ、大丈夫です。」

反射的に合意の下であるという言質を吐いてしまった。
僕の裁判の勝率がゼロになった。
人と争わず流れに身を任せて生きてきた人間の末路である。
頭の中ではいろいろ考えても行動に移せない。
情けない、ああ情けない。

行動に移したところでどうにもならないことも分かっている。
おじさんが潔く謝った時点で、僕に勝ち目はなくなっていたのだ。

そのまま僕はただただ黙って袋に詰め込むことしかできなかった。

ああ、こうしてまた、ランドリーに行くのが嫌になる。

貧しい外国の女の子は明日を生きるために汚い水が入った壺を村まで運ぶのでした。


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