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あんなに頑張って入社した出版社を、私は1年も経たずに辞めた。



1.苦しかった就職活動


中学の頃からテレビ業界を目指すも挫折。

周りはコロナウイルスと戦いながらも続々と内定をもらい、大学1年生から企業でインターンをしていた私は取り残され、いつの間にか負け組になっていた。

それでも必死に夢だけは捨てず、諦めず、縋りついた結果、大学4年生の11月に某出版社の内定を獲得した。

今でもよく覚えている。駅のホームでかかってきた電話に出ると、電波が悪くもハッキリと聞こえた「一緒に働きましょう」の一言は、嬉しいよりもホットした気持ちよりも、"やっと終わった"と苦しい就活に終止符が打たれた瞬間だった。

寒さが厳しくなり、あっという間に2021年がきた。私は出版社で働くことを誇りに桜吹雪に見送られ、4年間の大学生活を最高の形で終えた。


(就活期の記事はこちら↓)


2.檻の中



4月、入社式で同期と顔を合わせるといよいよ新生活が始まったのだと胸が高鳴る。周りが高学歴の中、身が狭い思いに不安はあったが、案外出版社一筋に就職活動をしていた人は少なく、どこか安心感もあった。


なぜなら私は"本"が全く好きではない。漫画や雑誌には昔から縁がありよく集めてはいたものの、大学4年間は広告業界でのインターン、さらにプライベートでもSNSに努めていた為、得意分野と最もかけ離れていた媒体だった。



そういえば私は一次面接で、

"本"は月に何冊読みますか?という問に対し、

"1冊読めばいい方です"と答えた。

今思えば何て賭けのような回答かと呆れもするが、同じ面接を受けていた子が月に20冊読みますと答えてるのを聞いて、咄嗟に"嘘をついたら負ける"と自分なりに考えた結果であろう。

しかし、

出版社でやりたいことはなんですか?"という問に対しては、

SNSを導入したPRとAIを駆使したアプリを作りたい"と答えた。


相手の面接官は50代くらいの役員だったが、きっと私が熱弁したSNSやアプリの話の9割は伝わっていなかったと思う。でも、あの頃の私はあまりにも衰退しつつある出版業界を自分の知識や企画で右肩上がりにしたい気持ちがあった。



あの頃は、たしかに私に熱はあったはずだった。



何かが違う



入社してから3日が経つ頃、私は何か違和感を覚え胸がザワつき、すぐその正体に気付く。


"息が詰まる"


大学4年間、風通しがよく自由な空間でインターンをしていた私にとって、出版社の古臭い価値観や風潮、閉鎖的な世界は生きづらかった。

会社の空気は不穏で、覇気が全くない。誰も新入社員に向ける目線に希望や歓迎すらまるで無かった。

"可哀想"

"辞めた方がいい"


そう裏で言われていることを知ったのは随分と先のことで、後に22卒の内定者が確定したと社内に通告が渡ったとき、私も全く同じことを思った。

3日目で感じたこの居心地の悪さは、辞めるまでずっと引きずった。新卒だから、新社会人だから最初は仕方ないよと親には流されたが、明らかにおかしい、そんな笑えるような雰囲気ではなかった。


おかしなルール



まず朝の掃除。新卒が1時間早く出社をして行う。次にお茶出し。ペットボトルではなく、新卒の女性が1からお茶を作って、お客様に出す。往訪で特にご年配の社長ならば「ただ、ニコニコ笑ってたらいいから」と言われ連れ出された。

あとは有給がなかった。
当日休んだら、当たり前に欠勤扱いだった。

そして極めつけは社長が行う新卒研修。


自己研鑽のために業務が終わったら勉強をしろ、新卒の内は帰るな、知識を蓄えることが宿題と、徹底的に擦り込まれた。

それが当たり前だと思い込み、頑なに帰ろうとしない新卒を見兼ねた先輩達が、必死になって私たちを帰そうとしてくれた。そして新卒が帰った後、帰したことを社長に叱られていた事実を、私たちは知らなかった。



3.救世主


入社して1週間、早くもその苦しさに私は悩んでいた。これは早々に辞めて、既卒として22卒に混ざり就活をし直した方がいいのではないかと考えていた時、救世主が現れた。



「私も実は辞めたい」



お昼、公園で一緒にご飯を食べていた同期のAちゃんにあまりの苦しさから否定されると覚悟した上で入社してから感じている違和感を伝えると、全く同じ思いをしていたらしく、驚くほどに意気投合した。



しかし当時の私達はやはりアウェイだった。なぜなら周りの同期も昔からの友達も、これからの新生活に期待し、皆必死に頑張っていたからだ。

そんな中、たまたま会社の上司に呼ばれ私達2人とBくん、Cくんで面談を受けることになった。


「あなた達、この会社で何がしたい?」

編集者になりたい、漫画が作りたい、PRがしたい等
口にし出すと上司に言われた。

「その夢、ほとんどがこの会社では叶わない」

「踏み台にして嫌になったら辞めなさい」

「若い貴重な時間を、無駄にしてはだめ」

後に、この上司は会社の悪事が許せず環境を変えたいと思っている1人だと知った。BくんとCくんはポカンとしていたけれど、私達2人は目を合わせ確信を得た。

面談の後、こっそりその場にいたBくんに連絡をすると返事がきた。


人それぞれ価値観は違う。やはり私達2人の考えは100%"うん、そうだよね"と受け入れてくれるものではなかった。


"私達2人だけでも一緒に抜け出して辞めようね"


そう強く、Aちゃんと誓った。
そしてGWが終わり、配属が決まったのだ。


4.営業時代


GW後、新卒は全員集められ配属を言い渡された。営業部に5人・編集部に4人と半々で分けられ、私もAちゃんも営業部に配属された。



正直編集部にはならないだろうと予想はしていた。コミュニケーション力には自信があったし、ずっと黙って編集業務をするよりは向いていると思い、当時は編集者になりたいという強い希望もなかった。


運命のチーム分け




営業部は全4チームあり、直属の上司が誰になるかはかなり重要だった。その中でも1番フランクに話しかけてきてくれた上司のチームになればいいなと思っていたら本当にそのチームになった。

しかし嬉しがっている私とは裏腹に、周りの社員に心配されていたことを知ったのは、些細な瞬間だった。

ある日の朝、掃除が終わった時のこと。今も忘れはしない出来事が起こる。

"ゴミ箱の位置が違うんだけど"

 
突然そう上司に朝から怒られた。正直何が気に食わないのか腑に落ちなかったが、休み時間ある1人の先輩が私の元に心配して来てくれた。

話を聞くと私の上司は営業部のエースで1番仕事ができるが、売上や数字を追いすぎて部下にパワハラをすることで有名らしい。同時に細かいことに厳しく面倒なタイプで周りから嫌われていることまで知った。


上司ガチャ外れたか


そう思いきや、この上司は私にとって出会えてよかった人物となった。何でも教えてほしい、管理してほしい自分の不安な性格は、経験値が高く何でも把握していたい上司の性格とぴったりハマったのだ。

またいい事は褒める、悪い事はきちんと注意してくれた上司には今でも感謝しており、チームメンバーの優しさにも救われていた。


営業時代は数字のノルマに追われ苦しくもあったが、楽しい記憶の方が鮮明に残っている。チームで目標を達成し、喜びを共有できることが何よりも嬉しかった。


天国から地獄へ


そんな日々も束の間。8月に入った頃、急にAちゃんが編集部に移動すると朝礼で発表された。何も聞いていなかった私はとても驚き「どういうこと?」と訪ねようとした瞬間、社長に呼び止められ社長室に来てほしいと言われた。




「急だけど、君も編集部に移動してほしい」



頭が、真っ白になった。営業として働いてきた今までの時間は何だったのか。まだ何も成績を残せてない上、突然営業部にお前はいらないと捨てられたように思えた。


この時期私は頻繁に体調を崩し、生理が2ヶ月ほど続き血が止まらなくなっていた。病院に行くと子宮頸がんの前兆だと言われ不安でいっぱいだった。

ストレスの影響もあるとぼちぼち転職活動も進め、休み時間や休日には面接も受けていた。9月には辞めようと決意が固まってきた矢先、こうして会社側から新たな道を提示してきたのだ。



しかし私にも簡単に承諾できない理由があった。移動したとて、研修はもう終わっている。誰が編集の知識を教えてくれるのか不安が募る。さらにAちゃんは元々編集部に行きたい願望があり、編集部のリーダーから引き抜かれたという事実も知っていた。そんな私はただの補充要員、その比較が何より辛かった。

結果、私は編集部に行くことを決めるが人生というのはやはり面白くタイミングが重要なもので、今ではこの選択が正しかったと心から思う。ただ、もう二度とあの地獄の日々には絶対に戻りたくない。



5.波乱と孤独な編集部



2021年9月

編集部のドアを開けると、本棚には数え切れないほどの書籍、机からはみ出た大量の原稿、床にも溢れかえる紙クズ。BGMは鳴り止まないコピー機の音。

営業部は賑やかで、騒がしかった空間とはまさに対極で1番奇妙なことは誰1人会話をしていないことだった。


活気的なドラマの印象は偽り


オフィスの造りが下手なのか、まず日が入らない。パラサイトのようなその場所は空調が悪く、月曜日の朝は決まって死にたくなった。

1番奥の1番端に座ると同時にため息が出た。用意された自分の居場所は落ち着く一方、孤独さから消えてしまいたくなる。幸い、隣はAちゃんで編集部の仕様を教えてもらえたものの、自分がいてもいなくても何も変わらないであろうこの空間は、生気を吸い取られる感覚に陥り、異常だった。


営業部から移動してきました、
よろしくお願いします。



当たり前に挨拶など返ってこなかった。返してくれたとて、誰もこちらを見ない機械的な温かみのない返事。

最初は全員愛想が悪く冷たい人達だと思った。しかし編集部に配属されてから数ヶ月が経ち、初めて自分の後に新人が入ってきた時、私は全く同じ対応をしていた。

あんなに自分が嫌だったことを平然としていた自分を最低だとも思うが、もうすべてがどうでもよかった。きっと私が移動してきた時も周りは同じことを思っていたのだろう。


個人主義


編集者の基本は、個人主義だ。作家と1対1、誰も自分の仕事に口出しをしてこない、いや"口出しできない"が正しい。

良い意味で言えば自分のペースで仕事ができる。でも悪い意味で言えば自分が動かなければ誰も助けてくれず、ほとんど放置に近い。

私が編集部に移動した時、業務を教えてくれたのはAちゃんだった。たった1ヶ月前に編集部に移動してきた同期に教えてもらう、そんな馬鹿なことが当たり前と成されている環境だった。


背中を見て覚えろ精神


会社の1番の課題は、教育体制が皆無なところ。誰も何も教えてくれない環境は途中参加した私にとってストレスが溜まる1番の不安要因となった。

例えば本の制作過程が1から10あるとする。普通の会社は1から順番に教えていき、10まで覚えると本が完成するので知識は線として繋がっていく。

しかし私の会社はいきなり7、その次に2、次は5などバラバラに業務を任せられる。結局、今自分がどの段階で何をしているのか当本人が分からず、いつまでも線として結びつかない"点の知識"としてずっと放置される。


分からないことや質問したいことは沢山あった。でも皆忙しくバタバタしている、集中している、イライラしている状態で声をかけられる度胸など無い。

半端者のまま、先が見えない状況で時間が経つことがとても怖くてたまらなかった。



6.配属1ヶ月で初担当



アシスタント期間が終わり、1ヶ月後。
初めて担当を任されることが決まった。

知識も業務もマトモに蓄えていない中、担当の作家はもちろん私を"新入社員"としてではなく、"プロの編集者"として頼ってくる。どう思いますか?と聞かれても、ついこの間まで大学生だった私に何も答えられることはまるでない。たった1ヶ月で担当なんて、前代未聞だ。


圧倒的人手不足


この会社は課題が多すぎる上、全く改善しようとしない。賢い人間ほどすぐに辞めていくし、知識を蓄え優秀に育った瞬間、皆転職してしまう。

他社では基本1人の編集者につき、多くても作家5人前後の比率に対し、自社では新卒が20〜25人、2年目以降の先輩は50人、役職がつくリーダーは70人も担当していた。

もちろん、全員同じ月に本が発売される訳では無い。翌月の人もいれば、半年後、1年後、3年後もいるが、幅広い期間の中で20人近くの面倒を見るには頭も心も足りず、精神がすり減っていった。



ヒステリックな作家たち


編集者の一番の仕事は担当作家と信頼関係を築くことだ。ただ、これがまた難しい。

返信が遅い

原稿の感想がほしい

ただ雑談がしたい


理由は様々あったが、やはり作家にとっては1人しかいない編集者に"自分だけ見てほしい"といった独占欲を強く押し付けるヒステリック気味の方が多かった。

私の担当作家はたまたま良い方が多く、信頼関係上トラブルをおこしたことはなかった。しかし同期含め先輩達は電話での口論が止まらず、頭を抱えたり、無心で謝っていたり、怒ってる人もいた。


初担当で戸惑っていたのも束の間、次から次へと案件が増えていき、12月の時点で担当は20人を超えていた。

もちろん、やりがいはある。白紙だった原稿が話し合いを重ねて内容が膨らみ、カバーのデザイン案があがってくる。タイトルや帯の文章を考え、作家に喜んでもらう。印刷所からあがってきた見本を手に取り、何より実際に1冊の書籍として売り出されている様子を目にした時は"頑張ってよかった"と心から思えた。


責任がある故、しんどい



でも、それ以上に自分の無力さに心が押し潰されそうだった。何より私を信じてくれる作家に申し訳ない。自分が担当じゃなければ、優秀な編集者であれば、もっといい本になったかもしれない。


こんなに不安な気持ちを持っていると、作家にもそれが伝染し悪循環となってしまうこともあり、電話で意見や説明を求められる度、戸惑いが抑え切れず"折り返しします"と切ることは正直何度もあった。



誰にも頼れない



そんな苦しさの中、3年も付き合った彼氏に別れを告げたのは私だった。就活期の記事にも記載した日本テレビのインターンで出会い、結婚も考えるほど人生で1番好きな人だった。

出会った時からよく私に"大きな事件をスクープする記者になる"と語るような人だった。そして本当に夢を叶え報道記者となった彼は転勤族となり、遠距離恋愛をしていた。

私が学生のうちは上手く行っていたものの、とても仕事に熱く厳しい人で、私の悩みを否定されることも多々あった。1番頼りたい人に頼れない関係が酷く辛かった。

不思議と涙は出なかった。私が泣いたらダメだと思った。彼が泣いているのを、3年も付き合って初めて見た。


そんな視界が霞むような日々はあっという間に過ぎていき、2021年が終わった。



7.生ける屍

人生で最も心が晴れないまま、2022年を迎えた。


1月4日から働き始めデスクに座ると、オフィスの寒さから白い息が漏れる。

朝がきて昼になり、気がつくと夜になっていた。外から聞こえる鳴り止まないサイレンの音が、私を現実に引き戻してくれた。



あれ、私今日なにしてたっけ


ただ何もせず時間だけが過ぎていた。年末までは頑張ろうと決めていた私のやる気は完全に""になっていた。


これまでとは何かが違う、苦しくも辛くもない、
どうにでもなれ"という感じだろうか。

職場外でも支障が出てきた。まず夜寝られない。寝ると朝が来て、 仕事が始まってしまうことが怖く、意地でも起きていた。反対に起きられなかったらどうしようと過度に気にするようになり、睡眠時間が1.2時間の日々が続いた。

また、寝れたとしても朝はこれまで以上に起きられなくなった。行きたくないと項垂れ、なぜか涙が出てくる。何とか着替えるも家のドアが鉄のように重い。次第に課金しては特急に無理やり乗ることで、何とか会社までたどり着こうとしていた。


集中力に欠け、大きなミス


そんな中、私は初めて担当作品の校了に迫られていた。先輩にやり方を教えてもらっても話が頭に入って来ず、"わかった?"と迫られても言葉が出てこない。何が分からないのか、私にも分からないのだ。

次第にミスもするようになり、ある日もう印刷し終わった担当作品に誤字が見つかった。何度も確認した自覚はたしかにある、でもこういう状況になっているということは明らかに私の確認ミスだ。


この件に関して、編集部に移動してきてから上司から初めて怒られた。自分がミスしたことに対して怒られるのはいい。でも、仕事は教えてくれないのに、責任は全て新卒のせいだと押し付けられたことにとんでもなく呆れ、悔しかった。



ダメだ、もう死にたい



ある朝、ホームのベンチに座っているといつも乗っている電車が私の前を通り過ぎていく。数分後、また同じように電車が来るも発車するのを横目にわざと乗るのをやめた。この電車を乗り過ごすと完全に始業には間に合わないことを知っていた。でも、乗らなかった。

別の日の朝、会社の最寄り駅。改札を出ると足が止まって動かなくなった。その足はしばらくすると会社には真反対に向かって動き出し、家に帰るようになった。

さらに駅では30分も御手洗から出られず、嘔吐を繰り返した。行かなければと自分を鼓舞し、言い聞かせるたび過呼吸になりそうだった。会社に着くもトイレで永遠と泣いていた。そんな私の隣でAちゃんがずっと慰めてくれていたけど、次第にAちゃんもこの苦しさに耐えられず同じように泣いていた。

こんなボロボロの状態で、何ができるのか。もう自分のことを気遣うことはもちろん、誰かを思いやれる余力なんかない。今思い出してみてもあの時の私はおかしく、完全な鬱状態になっていたと思う。


私の心は完全に死に、そこから以前の自分に戻ることは無かった。


8.会社とは


2月に入り、私はいつ辞表を出そうか悩んでいた。

いよいよ誰にも隠さず転職サイトから来る通知を就業中に見ながら何とか平常心を保っていた。やはり普段の業務に並行して転職活動するのは厳しい。このままだとズルズル引き伸ばすだけ、行動しないとダメになると分かっていた。

世間をピラミッド型のカーストで見るならば、私の会社はどこに位置するだろう。これよりブラックな会社が存在するのだろうか、はたまたこれでもホワイトな部類に入るのか、社会人1年目には到底知らないことだらけだ。


世間的に見て、完全アウト



追い打ちをかけるように、ある事件が2つ起きた。

1つ目は社内で初めてコロナウイルスの陽性者が出た挙句、クラスターになってしまったことだ。

突然社員が10人ほど休む中、夕方のリモート会議では全員の陽性が発表された。

そんな中、社長から発された言葉に衝撃を受けた。


"皆気をつけてね"


PCR検査を受けさせるわけでもなく、待機期間を設ける訳でもない。さらに陽性者で症状がない場合には、リモートで仕事をさせていた。

アクリル板もないオフィスでは、隣の席の社員がコロナにかかっても"気をつけてね"の一言で済まされるのかと唖然した。今では陽性者が増え、重症化するリスクも減ってはいるものの、当時はまだコロナに対する政府の取り組みは厳重なものだった。

残された人への措置は何も無いのか?会社は私たち社員をなんだと思ってるんだと、さすがに社内でも不満が渋滞していた。同期の家族含め私の父も肺疾患を持っており、会社の対応に怒りが湧いてきたのは無理もない。

2つ目は労基が入り、役員が警察に連れていかれたことだ。

私たちの会社は45時間分の固定残業代がついているが、社員は終電近くまで働き退勤していた。残業申請をする中、規定の労働時間をあっという間に超えた結果、それを隠し政府に嘘の労働時間を報告していたのだ。

後に知ったが社員の一部が証拠を集め、コロナの対応と共に労基に密告したらしい。それを踏まえ残業は少なくしようと掲げ、ネットの残業申請から目に見える勤怠カードの打刻へと申請方法が切り替わったのだが、定時である19時に1度打刻をした後、タダ働きで残業をし始めた先輩達を見た途端、この世の終わりだと我ながら思った。


社員を人間として見なしていない


この会社は社員コロナにかかろうが、残業のせいで自殺しようが助けてさえくれない。最終的には見捨て守ってくれない会社なんだろうと全て諦め、その瞬間辞めることを決断した。


人や業務ではなく、会社に不信感を持った時点で終わりなんだと社会人1年目にして学んだ。


9.裏切り者


2022年3月1日


その日は、朝から体調が悪く午後から出勤しようと思っていた。12時を回り電車に揺られている時、急にLINEの未読数が増え始め、止まなくなっていた。

開くとそこには同期から次々とメッセージが送られ、思いもよらない内容が目に入った。




異動ってなに!!!!!


異動さみしい


異動するの本当なの?




"時が止まる"とはこういうことだと実感した。


"異動って誰が?"

どこか冷静に同期に尋ねると、電車の中にも関わらず一筋涙がこぼれ落ちた。




掲示板に書いてある。
編集部からグループ会社の営業に異動になってるよ
もしかして、聞かされてないの?





"やられた"と思った。

私は飛ばされたってことだ。

父と母にすぐさま連絡をいれた。「今日、会社異動になったらしい、何も聞いてない、申し訳ないけどこのまま辞めてきます」


母は怒っていたけど、父からはすぐ「帰ってきな」と連絡がきた。


会社に着くと机の上に"至急人事折り返し"とメモが置いてあった。人事に内線をすると、なんと人事も掲示板で知ったらしい。そんなふざけた話があるだろうか。正真正銘、人事を通さず社長独自の判断で異動になった証拠だった。

人事からはいつこちらに来るかと聞かれたが、私は何も聞いてないので少し待ってもらえますか?と言い電話を切った途端、編集長に「今から社長室行ってもらえる?」と指示を受けた。


やってやろうじゃないか




正直冷静さを保ってられる余裕はなく、怒りは留まることを知らなかった。

社長室に入ると、いつもと何も変わらない平然とした顔でそいつは私を見た。

掲示板、見たよね。悲しいけどそういうことだから、この後向こうの会社の部長と面談して早々に移動してもらえるかな。



そう何食わぬ顔で私を見る顔が、ムカついた。悔しすぎて、怒鳴り散らしてやろうと思った。生きてきて、こんなに誰かのことを殺したくなったのは初めてだった。


(ここからの一部始終は会話のみにします)

○→わたし
●→社長


○すみませんが、異動するくらいなら辞めます。

●ここに入ってきた時から思ってたけど、何を君はそんなに怒ってるの?あと異動するくらいなら辞めるって、その態度は何だ?言ってみろよ。

○私がなぜ怒られているのか、全くわかりません。営業から編集に移動した時も急でしたけど、あなたが急にするこの決断が、新卒にとってはどのくらい重大なものなのか、人生を左右するものかがわからないんですか?あなたはただ、左から右に物を移動するくらいにしか考えていないでしょうけど、私にとっては崖を超えるくらい、不安で怖くて悩んで悩み抜いて人生をかけている選択ですよ?しかも今回は会社毎です。理由を教えてください、なぜ私が、なぜ今異動することになったんですか。

●理由は言えない決まりだし、会社にとって人事異動はよくある話。それが組織なの、それが会社ってものなの。

○本人に言わずに、周りが先に知ることがありえるんですかこの会社は。人事も知らないことがありえますか。

●そう、それが君が入社した会社なの。

○なら私はこんな会社にはいたくありません、辞めさせてください。

●君が体調が悪いと相談してきて、休ませてやってたのは誰だよ、俺だろうが、お前は感謝もしないで俺を裏切るんだな、この裏切り者が。

○裏切り者はどちらですか、いい顔して相談していて理解していただけてると思ってたのに、より過酷な状況になるとわかっていて異動させるなんて、最低です。

●うん、最低だね、いいよまだ不満があるなら言ってみなよ聞いてあげるから。ただ君の移動はもう変わらないからね。

○私が今不満を言ったところで、全て会社だからとか組織だからと、突き返されてしまうんですよね?

●うん。そう。

○なら全部私が悪いでいいです、誰がなんと言おうと私は会社を辞めます。お世話になりました、さようなら。



勢いで社長室から出ていき、非常階段で死ぬほど泣いた。間違いなく人生でトップ3に入るくらい怒りが湧いた私は今自分がどうすべきか考えると、担当作家の顔が頭に浮かぶ。


今すぐ鞄を持って会社から去りたい、でも引き継ぎはしなければとんでもなく迷惑がかかると分かっていたが、編集部の引き継ぎは最低でも1ヶ月はかかるのだ。


とりあえずパソコンに全部の情報を残し早々に去ろうと決め自席に戻ると、編集長に引き止められた。


"社長が怒ってる、今すぐ移動先の会社に行きなさい。"



悔しさで、人はこんなにも涙が溢れることを知った。泣いてる時間など1秒も自分には残されていないことが、尚更悔しかった。



10.最果ての、その先に


その後、必死に抵抗し藻掻くも会社という組織に左遷された私はグループ会社へと移動した。しかしやはり私は運に恵まれていると思う。わらをつかむ思いで受入担当に"体調が悪く、3月末で辞めたい"と相談すると、面談予定だった部長に話を通してもらい、異動発表からたった4日間後、退職することが正式に決まった。


編集部の人達には本当に申し訳ないことをした。1ヶ月もかかる引き継ぎを、たった3日で簡易的に行い編集長含めたリーダー達、先輩、同期が協力してくれた。


誰にも責められず、むしろ"1番良い選択だよ"と励ましの言葉をもらった。リーダー達には"もっと新卒を見てあげなきゃいけないのは課題だと分かっているけど、見てあげられる余裕がなくてごめんね"と謝られた。

退職日の定時過ぎ、もう22時を回る時間、引き継ぎが終わらない私の元に営業部の人達が来てくれた。社長と言い合いになったこと、辞める決断をしたこと、この4日間にあったことを拙い言葉で伝えると"かっこいい""よくやった"と慰めてくれた。

忘れないように今回は1人だけ、お世話になった先輩の話を記録にしたい。

私のことをずっと気にかけてくれた営業部の先輩。彼は最初、無愛想で怖い印象だった。しかし私の異変に1番最初に気付いてくれたのは彼だった。そして辞めたいと初めて相談したのも彼だった。

 「元気?」 「大丈夫?」 「なにかあった?」と、すれ違う度、内線で話す度、エレベーターで会う度、笑いながら話しかけてくれたことに何度助けられただろう。 

退職日の前日、わざわざ私の席に来てくれた彼と会議室で雑談をした。1度転職を経験している彼から、 最後に言われた言葉はこうだった。

「僕ね、 前職を退職した時に周りから"期待外れ"って言われたの。誰も僕の退職を祝ってなんてくれなかった。お前の未来は暗いって上司に言われたこと、今でも覚えてる。 だから僕はあなたの未来に期待しているよ。あなたはもっともっといい会社に入って、楽しく働く。明るい未来が広がっていると僕が保証します。今までよく頑張ったね。」


よく頑張ったね


そう言われた瞬間、崩れるように泣いた。

なぜ社会人になると誰も褒めてくれないのだろうか。学生から社会人へ、新ステージに突入し右往左往しながら必死に頑張ってきた姿を、誰も見てくれないと思っていた。

さらにこの"頑張ったね"という言葉は、私が就活時代、内定切りをされボロボロになっていた時に寄った本屋で見つけた絵本に書いてあった言葉だ。出版社を志したきっかけのひとつとなった大切な、大切すぎる言葉だ。

私が出版社に入社をし、何を残せたのか、何に貢献できたのか、それはまだ分からない。ただ"頑張った"という事実だけはこころの中に強く存在している。


パソコンのフォルダ


23時になりそうだった。
最後の作業はパソコンの初期化。

マニュアル、メモ帳、作家一覧、進捗状況、引き継ぎシート。思い出がと苦しみが1つ1つ消えていく。

最後に残った"無題"のwordファイルを開くと、そこにはびっしりと"死にたい""つらい""消えたい""辞めたい"と就業中に書き溜めたものが溢れかえっていた。

右クリック

削除

ゴミ箱

削除。

こうして私の最後の業務が終わった。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


ずっと待っててくれたAちゃんと会社を出て、コンビニに行った。夜食とお酒を買い込み、大好きな推しのDVDを見ながらAちゃんの部屋で朝まで語り尽くした。

朝日が眩しい。


大量の荷物を持ってAちゃんの家を出ると、ずっと背負っていたものがスっと軽くなり、肩の荷が降りた気がした。


ふと空を見上げると、雲ひとつない青空が広がっている。


久しぶりに空見たな


その時に見た空は、23年間生きてきた中で、間違いなく1番澄んでいて綺麗だった。空を見る暇などなく、下ばかり見ていたこの1年。先がどうなるかなんてまだわからない。

ただ、ただ、涙が溢れるくらい空が綺麗だった。

ーfinー





















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