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#4 2024年7月前半の日記

07-08
実家にわんこがやって来た。色んなご縁が重なって、想定より早く新たな一員を迎えることになったらしい。母親から送られてきた動画には、ロイ(先代犬)より二回り以上は大きな新入りの姿。まだ若く元気いっぱい。ロイとは真逆の人好き犬好き、少食。もちろん嬉しかった。
早く会いたいとワクワクしながら、ロイが居た場所にいる新入りを見て当たり前のように泣きそうになった。
ロイが居たんだよなあ、と。
今でも私は、それはもう簡単に涙が出る。人間は忘却の生き物だと思っていたけど、忘れることも消えてゆくこともない。質感は変われど悲しみはずっと、私が死ぬまでずっと悲しいんだと最近は思う。
嬉しさと寂しさ、喜びと悲しみは共存できる。
こうして人は生きてゆくのだな、という学び。

央助

07-10
「人に泣かされる」って感覚が私にはほんのちょっとも備わっていないから、全然しっくり来ない。私に備わるは「自分が泣く」という感覚だけ。こうした違和感は私だけのもので、正しいも間違いもないのだけど、
「わしだけのものだ!」という感覚が頑固者の勘違いになってしまう線引きを教えて欲しいです。

07-11
自分だけの文字と、相手に話す前提の言葉は違う。内省しながら書き殴るメモと、誰かの目にさらされるnoteの日記も。同じ人間が同じように書きたいことを書いても、完成したものはやっぱりちょっと変わってくる。そこに隔たりが生まれるのは当然だけど、本質が変わって来たら意味ない。ただ、思ってることを言いたくて、思ってないことは言いたくない。それだけなのにな。

07-12
おばあちゃんの容体が良くないと連絡が入り、急遽病院へ向かうことに。
奇しくも出社日で、ロイの訃報を受け取った日を思い出しざわざわした。仕事を早退し帰宅すると、私の連絡を見ていなかった彼が、まさにムニャムニャといった感じで「午前授業だねえ?」と言ってきた。なんじゃそりゃと思いながら、少し解けた感覚を覚える。彼の鷹揚さに私は時たま救われる。(無論、イラッとすることもある)

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