小説 熱帯夜①
赤いカップが宙を舞った。あれは私が高校生の時、友達と一緒に修学旅行で買ったおそろいのマグカップで、デザインも気に入っていたので長年使っている。しかし、そのカップは今、目の前で壁に激突し、真っ二つに割れ、賃貸の壁をへこませた。次は、透明なカップだ。あれは、知り合いの腕のいいガラス職人が私のために作ってくれたもので、品がよく気に入っていた。壊れないように気を使って洗ったりしていたのだが、それももう意味がなくなった。床に叩きつけられ、破片は盛大に部屋を駆け回った。
私は食器を集めるのが趣味で、中でもカップが好きだった。素敵なカップを使っていると、飲料を介し、素敵なものが自分の中に満ちていくような気がした。でも、今目の前で乱暴に次々と夫の手によって割られている。今、窓から放り投げられたのは、昔のボーイフレンドがイギリスの留学帰りに私にくれたもので、淡い青色を帯びていて、持ち手を握るとわずかにでこぼこしている。それが、なんだか温かな感じがして好きだった。夫も数年前まではごつごつした手を振りかざすのではなく、優しく私を温めるのに使ってくれていた。ああ、いつからこんなことになってしまったのだろうか。私が出来損ないで醜い人間であるがゆえに、存在が夫を激高させているのだろうか。
私の問答に答えを返すかのように、ガラスの重いボウルが私の元へ飛んでくる。私はよろめいて、地面に手をつくと、カップの破片が手に刺さり血がにじむ。
「明日も仕事だというのにお前は、なぜ家事の一つもまともにこなせないんだ!」
夫の右足が勢いよく私の脇腹に刺さる。小学校から高校までサッカーをしていて、強豪校のエースを務めていたからか、重く内臓がグニリと圧迫される。息が出来なくなり、私は下を向いてうずくまる。罵声と蹴りを何度も浴びせられ、涙と唾液で床がびしょびしょになり、水たまりを作る。こんな粘っこい水たまりには、たとえ黄色い長靴を履いている幼稚園児だって飛び込みたくはないだろうなと思う。
本当はこの繰り返される暴力には、理由などないことを知っているからこそ、こんな風にどうでもいいことばかり考えてしまう。
「痛い!」
突然、頭に痛みを感じる。髪を全部引き抜かれるのではないかという勢いで引っ張られ、その痛みから逃れようと反射的に立ち上がる。
「お前が!……んで!……からな……だ!」
私の意識が朦朧としているせいなのか、夫が興奮しているせいなのか、何かを叫ばれているがほとんど意味が分からない。ガチャコと無遠慮に開けられた扉から放り出され、アパートの廊下の壁にぶつかる。それと同時に自動販売機で2Lペットボトルでも買ったかのような大きな音が聞こえる。私は家を追い出されてしまったのだ。