藤野
ほかのあらゆるものをなげうって、ひとつ物事に取り組まなければいけない。そうしなければ価値を認められるものは生み出されず、この世界に存在を認められ生きる権利を得ることはできないという強迫的な価値観が、まあそれは時代にかかわらずのものだと思うけれど、それにしても今この最近はゆきすぎて幅を利かせているのではないかと思うことがある。ウマ、アイマス、後藤ひとり。炭治郎君もそうかも。他人から引かれる程度にはのめり込んでいるけれど、他事にはいっさい脇目も振らないというほどの狂気的な情熱でもないというダンジョン飯のライオスのキャラクタ描写はそうした潮流への反抗のようにも感じられる。
それが実際にそうなのか、自分のフィクションの受け取りかたがそのように偏ってきているからそう感じるだけなのか、自分にはわからない。
そういう、世界に立場を得るための努力、自身の存在を示す手段としての技能の研鑽ではなくもっと根源的な、描かずにいられないという衝動と、のちには人を楽しませたいという利他的な意志が生まれて(思い出して)藤野はペンを動かすという結末、すくなくともそういう面が重んじられて描写されたように思えるルックバックのストーリーは、人死にの出る悲しいストーリーであるにもかかわらず軽やかで明るい。しかし実際、生きる世界が、見ている世界が自分とは違う人たちだなとも強く感じさせられる。この作品に感化される人があるとすれば、もちろんすでに同じ世界に生きている人たちか、あるいは、今この世界に存在できないでいる人、この世界から逃げ出したいと思っている人たちかのどちらかだろう。
ああ。家族も、健康も、社会生活も、四季の移ろいも将来の心配もなげうってただひとつ物事に取り組む自由が本当はすべての人にあるのだと信じることができたなら!そういって、多くの人にペンをとらせる力のある作品だと思う。それが自由への導きなのか、自己実現と承認欲求の泥沼に落ち込ませる罪深い罠なのか、自分にはわからない。
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