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気付くと視野が狭くなっている。

 夜勤で体内時計も狂い、ぐっすり眠れずに鉛のような体を移動させて生きています。久々にnoteを書くなあ。

過去の記事を読むのは辛い。何せ、視野が狭い。そういう時期を乗り越えて今ちょっと楽にはなったけども、そんなにつらい時間をよく乗り越えてきたなあ自分。って声をかけて慰める。そうだよ、今頃生きていなかったかもしれない。よく耐えたね。

 我慢は美徳、苦労は買ってでもなんていうけども、私はそうは思わない。
そういうのって、習慣になって来る。そして、満たされない自分に嫌気がさして、何もかも嫌になって、自分に優しくできなくなって、そういう負のループにはまるシナリオしかないと思う。後からなら、いくらでも笑い話にも美談にもできる。かつての死にたかったどん底の、灰色の世界を今なら家族に冗談のように話せるけど、笑い事じゃないくらい、つらかった。
本当なら、助けてほしいって言える強さが欲しかった。甘えたっていいと思う。迷惑かけたっていいと思う。みんな百年後には大体死んでるんだから、思いつめる方が損だって今なら思える。あの時はそう思えなかった。そんなに楽観的に生きられなかった。どうしてだろうと振り返る作業も、辛い。

 トンネルを抜けた先の世界が想像できなくて死のうかな~と思っていたあの時、世界は確実に狭くて、まるで自分の部屋しか存在しないみたいな、でも周りの喧騒も聞こえてきて、境界線が曖昧で、すごく不思議な感覚だった。食べ物の味も、においも、食べたいと思うものも分からず、ただひたすらシャワーで突っ伏していることしかできず、夜は眠れず、死にたいという思いが頭の中を占め、翌朝はぼーっとしながら出勤し、勢いで乗り切る。

どうしてそんなに頑張っていたんだろう。
気を抜くと、すぐキャパオーバーするようなことを平気でする。
役に立っているという実感、愛されているという実感、笑顔になる他人を見る安心感。そういうのを小さいころから渇望してきたからだと思う。
親の顔色を窺い、どうしたら褒められるか、どうしたら笑ってくれるのか、どうしたら不機嫌にせずにすごせるか。そんなことばっかりに夢中で、自分の興味ややりたいこと、大好きなもの、そういう声に耳を傾けてこなかった。だから、本当の声が「もういいよ、しゃべらないから。」って言った。
 それで私も意地になり「別にいい。自分の声より、他人の声や機嫌が大事。上手に世渡りできるスキルの方が大事」って返事しちゃった。そしたらもう、何も聞こえなくなった。そこから虚無の空間が生まれた。

 自分の人生を生きているようで、他人の求める人生を生きている。
もっと、自分に正直に、自分に優しく、自分のありのままを好きになって、多少の欠点には目をつむり愛嬌だと笑い、自分のご機嫌をとることを大切にしてくれば、今はもっと違ったかもしれない。こんなに遠回りしなくて済んだかもしれない。気付くとすぐ我慢したり顔色を窺うくせなんて身に付けずにいられたかもしれない。

今まで優しくしなかったこと、自分にごめんと言いたい。
すぐ無理して、一人で泣いて、疲れ果てて眠って、また次の日愛想笑いをしていた自分に、もうそんなに頑張らなくていいよって言いたい。

未来の私へ、忘れそうになったら思い出してください。
自分を大切にしてから、他人のことを考えればいいんです。
なんと言われたってそれが一番大事。まずは自分を笑顔にしよう。できないときは、沢山眠って沢山食べて、どんな格好でもいいから外を散歩して、
深呼吸してください。私の好きなものは沢山あって、笑顔になれることもこの世にあって、辛い思いをすることだけが人生じゃなくて、今はただの通過点でしかなくて、だから無理することないよって。
逃げたって、いいじゃないですか。自分がご機嫌で楽しくいられるなら、どんな手段だっていいと思う。極論だけど。何言ってんのって怒られるかもしれないけど、意外とどうにでもなるのかもよ、人生って。それくらい、適当に生きたらいいと思う。適当の中に、幸せを見つけて、穏やかな時間を過ごせたらいい。