ほんとの自分がわからない。(躁鬱)
調子がいいときは薬のおかげ、調子悪い時は病気だという自覚が増す。だから「普通」の状態がわからない。
今日医者にいったが少しハイになっているのではと言われた。普段はおだやかだが職場での人間関係をこじらせすこし攻撃的になっているのを見抜かれた。
継続していきているというよりその場をしのいでいく。そういう生き方しかできない。
将来を見据える。そんな生活をしたいものだ。常に意識しているのは「明日の朝も元気で仕事に行けるか」ということ。
調子がいいからと頑張りすぎると後が辛い。そして頑張りすぎないということもできない。不器用がすぎる。
仕事では笑顔の仮面をつけて、仕事が終わればその笑顔がすこし引きつっている。
結局のところ調子がいいと思えば調子はでてくるし調子が悪いと思えば調子が悪くなっていく。そんな気がする。しかしそれは常に外側からの影響をまっともに受ける。自分でコントロールすることなどできない。
好きなことさえ見出せない。波があるから継続なんて至難の技だ。
元気とはいったいどういうことなのかほんとにわからない。朝起きて仕事行ければ元気なのか?休日好きなことができるのが元気なのか?
ハイになっているときと鬱のときで世界が変わる。考え方しだいでほんとに見え方が変わると実感する時がある。
物は考えようとはよく言ったものだ。
頑張ろうと思えば頑張れて多少の仕事をこなせることが逆に僕の首をしめる原因にもなっている。
いっそのこと頑張れない自分になりたいと思う時がある。もうリタイアしてもいい。そんな時もある。
でもそれは僕の夢である「普通でほどほどの日常生活を送る」ことに反する。
だから止まることはあっても常に前に進もうと、そういう気持ちでいる。
でも正直通信高校卒からほどほどの企業の正社員になれたしもう僕としては思い残すこともない。もう頑張った。そう言い聞かせたいこともある。
ただ死ぬことが怖い。それが僕の原動力となっている。
だから死ぬのが怖くなくなったとき、僕はこの世からはいなくなるんだろうなと考えてる。
僕はなにも贅沢なことなんて言ってないのにな。言ってこなかったのにな。ただ「普通」に生きたかった。
今その「普通」というのが自分にとってハードルの高いものだと痛感している。
「普通」というものが贅沢なのか?
精神障害である僕はそんな贅沢してはいけないのか?
はあ、これからいつまで生きていけるだろうか。もう死んでもいい。