#191 雑談回|田中一村がスゴい
『紙について楽しく学ぶラジオ/Rethink Paper Project』
このラジオは、「紙の歴史やニュースなどを楽しく学んで、これからの紙の価値を考えていこう」という番組です。
この番組は、清水紙工(株)の清水聡がお送りします。
よろしくお願いします。
「田中一村展」に行ってきました
はい、皆さんこんにちは、こんばんは。
いかがお過ごしでしょうか。
さて、今回のテーマは紙ではありません。
たまに来る、雑談回です。
というのも、先日、東京都美術館で開催されている「田中一村展」を観に行ったんですけれども、これが凄い良くて。
知ってますか?「田中一村」。
大きい括りで言うと、日本画家になるんだと思います。
一村は、生きている間に、大きく名をのすことなくこの世を去りましたが、死後にフィーバーしていきます。
その大きな転機となったのが、彼が亡くなった7年後の昭和59年に放映されたNHKの『日曜美術館』。
これで、田中一村の名が一気に日本中に知れ渡ることになります。
「なんだ、このヤバい画家は。」となって、平成13年には、彼を専門に展示する「田中一村記念美術館」がオープンします。
そして令和6年に、東京都美術館で過去最大級の展覧会が開催される。
こんな感じです。
僕は今回、それほど田中一村について詳しくない中で行ったんですが、もう、完全にファンになってしまいました。
絵ももちろん素晴らしいんですが、僕はどっちかと言うと彼の生きざまに引き込まれました。
という訳で、田中一村の波乱万丈な生涯をご紹介していきたいと思います。
東京時代
田中一村は、明治41年に、現在の栃木県栃木市に生まれます。
その後、5歳の時に、東京都千代田区に移り住みます。
ちなみに、今回の「田中一村展」は、第1章から第3章に分かれているんですが、まず、「東京時代」、そして「千葉時代」、最後に「奄美大島時代」です。
そう、彼は人生で3つの場所に移り住んでいるんですね。
まずは、東京時代。
展覧会の入り口を入ると、まず一枚の絵が飾られています。
作品名は「紅葉にるりかけす/雀」です。
紅葉の木の枝に雀がとまっている、色鮮やかで素晴らしい水墨画です。
この作品の制作時期、なんと8歳!
そう、彼は8歳にして、本格的な水墨画を描く才能を持っており、「神童」と呼ばれていました。
彼の作風は、中国から伝わった「南画」と呼ばれるもので、テクニック重視の「北宋画」とは違い、どっちかと言うと心で描くみたいな「南宋画」を日本風にアレンジしたものです。
こんな感じで、幼少期から才能を発揮していた一村は、東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学します。
同期には、あの東山魁夷や、橋本明治らがいるという、なんともプレミアムな年に入学します。
大学で、また名をあげていくかと思いきや、なんと、大学を2か月で退学します。
「父親の体調が悪くなり、家庭を支えるため」という理由を残したそうですが、実際のところは分かりません。
もしかしたら、当時ブームだった、「西洋画風にアレンジした日本画」的なノリが合わなかったのかもしれません。
そんな感じで速攻で退学しましたが、なんと翌年、6人兄弟のうち一人の弟が亡くなります。
そして、さらにその翌年にはもう一人の弟と母親が亡くなります。
度重なる家族との死別、相当なショックだったに違いありません。
しかし、一村にはしっかりとパトロンがついていて、その後も南画を描き続けることで、家庭を支えていきます。
昭和6年、一村に転機が訪れます。
これまで描き続けてきた南画をやめて、写実主義に切り替えます。
これに、これまで支援してきたパトロンは首をかしげますが、一村は気にせず突き進みます。
この後も出てきますが、彼の、自分を曲げない、そして自分を信じる強靭なメンタルの強さは、すごいものがあります。
昭和10年、今度は父と弟が亡くなります。
貧しくなっていった一村と遺された家族は、親せきの川村さんを頼り、千葉県に移り住みます。
千葉時代
ここからが千葉時代。
一村は、襖絵などの注文を受けて、何とか生活をしていきます。
昭和22年、青龍社展に出品した「白い花」という作品が、初入選します。
これに喜んだ一村は、翌年にも2作品を出品しますが、1つが入選、1つが落選という結果になります。
渾身の作品が落選したことに不満ならない一村は、入選した作品を辞退します。
出ましたね、このオラオラ感が一村の魅力です(笑)
そしてこの後、一村は、「琳派」や「カメラ」の研究も始めます。
琳派と言えば、尾形光琳なんかが有名な作風ですが、、、なぜカメラ!?ですよね。
これにはちゃんと理由があって、カメラって、人が捉えられない構図を簡単に捉えることができるんですね。
極端なことを言うと、寝ながら書かなくちゃいけないような画角も、カメラなら簡単に撮れます。
つまり、彼は、カメラで撮影した構図を後で描きなおす、その為にカメラを使っていたんです。
その後、一村は、2年連続日展に出品します。
が、いずれも落選。
同期の東山魁夷、橋本明治たちはとんでもない功績を残している中、一村は、なかなか芽が出ません。
そして、昭和30年、一村は、九州・四国・紀州を旅行します。
この時に、恐らく南国の魅力にハマったんだと思います。
昭和33年、彼は、当時の日本最南端の島・奄美大島に単身移ります。
奄美大島時代
ここからが奄美大島時代です。
小さな高床式住居に住みながら、そして、お金を稼ぐために織物の染色工場で働きながら、奄美大島の絵を描き続けます。
昭和40年、ずっと応援してくれた一番の理解者の姉と、親せきの川村さんが亡くなります。
最も彼を理解してくれていた2人が亡くなってもなお、彼は奄美大島を描き続けます。
そして、昭和44年、一村の最高傑作とも言われる「アダンの海辺」が完成します。
アダンという熱帯植物の背景に奄美大島の夕空と海、浜辺が描かれた作品です。
一村は、この作品をとても気に入っていて、「閻魔大王への土産。いくら積まれても売れない。」と言います。
気に入っている作品だから売れないとかじゃなく、閻魔大王への土産だから売れないんです。
「アダンの海辺」見たことがない方はぜひ見てください。
閻魔大王への土産とは思えないくらい、いや、むしろ真逆の印象の、素敵な作品です。
奄美大島時代の彼の作風は、これまでの全ての要素が詰まった、まさに、一村にしか描けない次元に達しています。
これまで実践してきた、南画、写実主義、琳派、カメラの構図、これらを融合させて、奄美大島の風景や植物、鳥などを描きます。
そう、これまでの作風の変化は、このためにあったんじゃないかと思わせるほど、奄美大島時代の一村の作風は、飛びぬけています。
ジャンルを付けるとしたら、「一村」としか言えない、独特の雰囲気を漂わせています。
会場の最後に「アダンの海辺」が飾られているんですが、8歳の神童と呼ばれた頃から、不遇の時代を経て、最後に奄美大島で一村のスタイルが確立する、この流れを感じると、とても胸を打つものがありました。
今でこそ、日本中でファンが多い田中一村ですが、本当の魅力は、彼の生き方じゃないかと思いました。
そして、昭和52年、一村は69歳でこの世を去ります。
今年の12月1日まで、東京都美術館で「田中一村展」が開催されていますので、是非足を運んでみてください。
はい、という訳で今回は、番外編ということで「田中一村」について解説してきました。いかがだったでしょうか。
それでは、本日も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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