『模擬』と『眩暈』の現代社会への再湧出について
こんにちは。今日も素敵な一日になりますことを願っております。
これまでに遊びを、『競争(アゴン)』、『偶然(アレア)』、『模擬(ミミクリ)』、そして『眩暈(イリンクス)』の4つに分類して記述してきました、原始的と呼ばれる社会においては後者の『模擬(ミミクリ)』と『眩暈(イリンクス)』の社会的支配が強いですが、文明化された社会に移行していく中でこれらの社会制度としての慣行や風習が廃れていき、前者の『競争(アゴン)』と『偶然(アレア)』が社会の根幹として優位的位置を占める様になります。しかし『模擬(ミミクリ)』と『眩暈(イリンクス)』は文明社会において完全に消滅するわけではなく、様々な形態で現代社会の中に脈々と残滓として残り、時折人々の前にその存在を現します。
『遊びと人間』ロジェ・カイヨワ著/多田道太郎・塚崎幹夫訳 講談社学芸文庫 第39刷 2019 (216-234頁)によれば、
『模擬(ミミクリ)』と『眩暈(イリンクス)』の残滓として、縁日(祭り・カーニヴァル・アミューズメント施設などを含む)やサーカスがあります。
男鹿半島の伝統行事であるなまはげまつりは、鬼の仮面を着けた男性が神の使いに扮して練り歩く郷土の伝承芸能や、一晩中トランス状態になりながらも踊り続ける阿波踊りの行事などの祭りや、リオ・デ・ジャネイロに代表される豪華な衣装を身に纏った大々的に催される仮装舞踏会のカーニヴァル、アミューズメント施設においては、日常の喧騒から離れて、眩暈を引き起こさせる壮大な装置に興じたり、キャストが演じるキャラクターに癒されることで、おとぎ話や夢の世界を体験できたりします。
更には、縁日ともつながりのあるサーカスでも、イリンクスとミミクリと緊密に意味深く結びついている伝統的な行動様式があります。道化師の演じる道化の演技に観客は笑い、危険な空中ブランコや綱渡りなどにハッと息を飲まされます。
『模擬(ミミクリ)』や『眩暈(イリンクス)』では、素顔を隠す仮面の着用が大きな意味をもってきます。仮面は、祖霊、精霊、神々との交流共生の経験、憑依の経験を伴うもので、仮面を被る者は一時的興奮一時的興奮を感じ、自分が何か決定的な変身を遂げたと信じます。その上、仮面はエロチックなお祭り騒ぎや陰謀に昔からつきものであり、それは官能の怪しげな遊びや権力に反抗する陰謀密儀において主役を演じます。
仮面に対して文明社会の制服は眩暈とはちょうど対極の原理にもとづく権威の徴しになります。仮面はこちらの姿を隠し人を怯えさせるものである一方で、制服も変装であるが、官僚的、永続的、規則的な変装で、制服を着用して顔を露出させることで、感染しやすい熱狂にとらわれることなく、公平かつ不動の規則の代表者、奉仕者になることができます。
もしミミクリとイリンクスが人間にとって永遠の誘惑であるなら、これらを集団生活から排除し、子どもの楽しみや異状の振舞いとしてだけ許しておくことは、容易にできることではありません。この魅惑の根源はミミクリとインリンクスの両者の結合に由来しており、この魅力的力を抑制するためには両者を分断し共謀することを禁止することであります。模擬と眩暈、仮面と恍惚は常に無意識的幻想的社会においてつながっており、この世界を長く支えてきたのは両者の共謀でありました。しかし両者を否定する後世の社会は、それらの暴力を自由に抑制し欺くことにおいてのみ繁栄を見てきました。こうした社会では両者は分離され、孤立させられ、衰退しているのであります。
しかし、現代社会でも、ミミクリとインリンクスの永遠の誘惑に対して、幾分かの満足を与えられる必要があることから、無害なものに限定されるが、喧騒に満ちた社会において、神秘、戦慄、パニック、麻痺、熱狂を垣間見られるものでなければなりません。