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遊びの数学的分析について、

こんにちは。本日も素敵な一日になりますように願っております

ロジェ・カイヨワ著の『遊びと人間』について独自の解説を記述しておりますが、今回は補論の”教育学から数学まで”内の数学的分析に関して述べさせていただきたいと存じます。

以前の記事”遊びの教育心理学的分析について、”の中で眩暈の遊びと偶然の遊びの研究は心理学、社会学、教育学においては暗黙裡に触れられることが無い旨説明させて頂きました。眩暈は医学の分野で運の算定は数学の分野の研究に委ねられてことになってしまっています。

『遊びと人間』ロジェ・カイヨワ著/多田道太郎・塚崎幹夫訳 講談社学芸文庫 第39刷 2019 (262-285頁)によれば、

遊びに関して医学、数学の新研究は必要であるが、どちらの分野も遊びの本質には注意を向けてはおりません。
三半規管の機能を研究しても、スウィング(ブランコ)、回転滑り台になぜ子どもたちは惹かれるのか説明はあまりつけられておりせん。他方、富くじやカジノ、競馬に関する勝敗の確率論が発達したところで、賭博者の心理についての何らかの情報を与えるものでもありません。数学的研究は一定の状況に可能なすべての答えを検討するだけを義務としているからです。不確定要素が加われば当然勝敗の確率は大きく異なることになります。

不確定要素は、その遊びの環境による外的な要因によるものと各プレーヤーの体調や精神状態、思考方法など内的な要因によるものなどが絡み合って結果的に数え切れない数の状況が創出されるため、これらを統計的に分析して正確な確率を算出することは不可能です。とりわけ遊びに関する限り「人が計算通り動かないところに」遊びの究極的な要素が存在し、また存在しつづけるため、不確実性が無ければ遊びはつまらない活動になってしまいます。

数学は人の行動およびそれに伴う結果の不確定なこの基本的要素まで触れえないし、遊びについての代数学でしかないからです。人は絶対確実に勝つために遊びをするのではなく、負けるリスクがあるドキドキ感の中に楽しみを感じるからで、万一、数学が遊びの代数学になってしまえば、状況の理論的解明に成功するたびに結果の不確実性が失われ、同時に遊びの興味も消滅してしまい、遊び自体が破壊されてしまいます。

どの駒を動かせばよいか、どのトランプ札を出せばよいか、それをすべての状況において確実に決定せんとする数学理論は、遊びの精神に恩恵を考えるどころか、その存在理由を失わせ、遊びの精神を破滅させます。遊びの数学的分析は、チェスやポーカーの偶然の遊びの中で、次の一手をどのように選択するかによる勝敗の行方を確率的に示してくれます。それは遊びの本質に微塵も影響を与えないが、付随的にしか関係しないからです。しかし、遊びに対する数学的分析は分析がある確実性に達し遊びが興趣を喪失してしまうか、それとも、分析が確率係数を確立して遊戯者がその慎重か無謀かの性質に従い、リスクをより合理的に判断させられるようになるかのいずれかになるだけであります。

遊びは全体的な現象で学問の分野ごとで分割して理論的に解読させることが出来ないが、遊びの興趣は何よりもまずこの分割不可能の世界から引き出されてくるものであり、学問の分野ごとで解明できない複雑多岐なものになります。