『稲盛和夫一日一言』 8月6日
こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 8月6日(日)は、「手の切れるような仕事」です。
ポイント:「手の切れるような製品」とは、真新しい紙幣のような手触りを感じさせる素晴らしい製品のこと。「手の切れるような仕事」をしなければ、お客様に本当に満足していただくことはできない。
2001年発刊の『京セラフィロソフィを語るⅠ』(稲盛和夫著 京セラ経営研究課編/非売品)の中で、「手の切れるような製品をつくる」として、稲盛名誉会長は次のように述べられています。
私たちがつくる製品は、「手の切れるような製品」でなくてはなりません。それは、たとえばまっさらなお札のように、見るからに鋭い切れ味や手触りを感じさせる素晴らしい製品のことです。
製品にはつくった人の心があらわれます。ラフな人がつくったものはラフなものに、繊細な人がつくったものは繊細なものになります。たくさんの製品をつくって、そのなかから良品を選ぶというような発想では、決してお客様に喜んでいただけるような製品はできません。
完璧な作業工程のもと、一つの不良も出さないよう全員が神経を集中して作業にあたり、一つ一つが完璧である製品づくりを目指さなければなりません。(要約)
また名誉会長は、「優れた製品は見た目にも美しい」として、次のようにも述べられています。
「手の切れるような製品」というのは、最高の品質をもった完璧な製品ということです。
「本来、立派な物性を備えているものは、見た目も美しいものであるはずです。大体において、優れたスポーツ選手はそのフォームも美しい。製品もまたしかり。良いものは良いものなりに、備えるべき品格があるはずです。
例えば、このセラミックは本来純白の色調で、触れれば手が切れてしまうのではないかと怖くなるくらい、非の打ちどころのないものでなければならなりません。それぐらい外観的にも素晴らしければ、その特性も最高のものに違いないでしょう」
私がそのような話をして以降、「手の切れるような製品」という言葉は社内のいたるところで使われるようになりました。
「迂闊(うかつ)に触れれば汚れてしまいそうだから、手袋をはめてから触ろう」と思わず思ってしまうくらい、見た目も最高に美しいものを目指す。
このことは製品に限った話ではありません。例えば社員の立ち居振る舞いについても言えることです。社員の立ち居振る舞いを通じて、社風にも品格が備わり、いわば「手の切れるような仕事」を通じて「手の切れるような会社」へとなっていかなければならないのです。(要約)
「手の切れるような製品」という言葉は、京セラに入社し研究所で新規セラミック材料の研究開発を担当することになった私にとって、まさに目指すべき究極のゴールを示すものとなりました。例えば、社内で試作品の出来栄えを確認する際も、「今度のは手が切れそうか?」という一言で会話が成立します。
どこから見ても、誰が見ても、一点の非の打ちどころもない状態に仕上がっていること。
「手の切れるような」という表現は、仕事において常に完璧を目指そうとする姿勢をより身近なものにしてくれるだけでなく、職場や会社全体の雰囲気さえも変えることのできる魔法のような言葉なのではないでしょうか。