『稲盛和夫一日一言』 10月24日
こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 10月24日(火)は、「才能を私物化してはならない ②」です。
ポイント:才能を持って生まれた人間は、その天賦の才を決して私物化することなく、集団のために行使するリーダーであるべき。
1996年発刊の『成功への情熱 ーPASSIONー 』(稲盛和夫著 PHP研究所)の「才能を私物化しない」の項で、稲盛名誉会長は次のように述べられています。
リーダーとしての必要条件を考えるとき、自分には能力もある、指導力もある、素晴らしい人格も備えている、だから自分はリーダーとしての資格がある、というように思うかもしれません。
しかしこの場合、さらに理解しておかなければならないことがあります。
天がなぜ、自分にそのようなリーダーとしての才能を授けてくれたか、そこには理由があるはずです。自分がそのような才能に恵まれていなければならなかった必然性はなく、誰か他の人でもよかったはずです。
私は、特定の才能を持った人間は一定の割合で生まれてくるものなのだと考えています。芸術の才能を持って生まれてくる人もいれば、スポーツの才能を持っている人もいます。また、集団を幸福に導くためのカリスマ性を与えられている人もいます。
もし、自分がたまたまある種の才能を持って生まれてきたとしたら、その才能は世界のため、社会のため、そして集団のために使うべきなのであり、決して自分のためだけに使うべきものではないのです。
例えば、リーダーシップという才能を持って生まれた人は、しっかりとリーダーとしての責務を果たさなければなりません。自分には経営の才能が与えられているのだと、傲岸不遜(ごうがんふそん)になってはならないのです。
天賦の才を決して私物化してはなりません。才能を持って生まれたなら、むしろ謙虚になり、集団のためにその才能を使うべきなのです。(要約)
「才能を私物化しない」というフィロソフィは、名誉会長がご自身のことをいろいろと考えていかれる中で、早い時期から言い出された言葉です。
何かしら天賦の才を持って生まれ、それを自覚したうえでその才能を十分に発揮して世の中に貢献できているとすれば、それはその人に与えられた固有の才能と言えなくもありません。しかし、そこにどうしても自分でなければならない、という必然性がどれほどあったのか。
多様性のある社会においては、個々人がさまざまな固有の才能を持っているということが必要条件なのだと考えるべきです。
仮に同じ才能を持った者ばかりが存在していれば、今の社会は成立していないでしょう。言い換えれば、多様な才能を持った人々が存在しているからこそ、この社会は成り立っているとも言えるわけです。
そういう意味では、世の中は劇場みたいなもので、誰もが皆、創造主からある役割を与えられてこの世に生きているのです。
才能があればあるほど、「才能というのは自然から預かったようなものだから、その才能を世のため人のために使うことで、世の中に貢献していく、自分はそうした使命を担っているのだ」と理解し、自らの人生を間違いのないよう、しっかりと生きていかなければなりません。
どのように優れた能力も、それが生み出した成果も、自分に属していながら自分のものではないと考え、才能や手柄を自分一人で独占することなく、世のため人のため、社会のために尽くすという姿勢で生きていく。
つまり、己の才を「公」に向けて行使することを第一義とし、「私」のために行使するのは第二義とすることが大切なのではないでしょうか。
「謙虚にして驕らず、さらに努力を」
常に意識しておくべき心構えのひとつです。