『稲盛和夫一日一言』 1月15日
こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 1月15日(月)は、「狂であれ」です。
ポイント:バリアを越えるには、それを打ち破れるだけのエネルギーが必要となる。そのエネルギーとは、それに従事している人の情熱。それがチャレンジする際の必要条件となる。
1979年発刊の『ある少年の夢 京セラの奇蹟』(加藤勝美著 現代創造社)「狂の章」の冒頭で、加藤氏は「狂」の意味するところを次のように述べられている。
これまでは、稲盛が事にあたって何を説いてきたかを追ってきたが、社員の側がそれをどう受け止めてきたかを明らかにしないと片手落ちになる。
稲盛はことあるごとに、社員に「半キチ(=半分気違いの意)にならないといい仕事はできない」と説いているが、まさに社員の働きぶりはサラリーマンの枠をはずれたところにあり、それは「狂徒セラミック」と呼んだほうがふさわしいとさえ言える。またその狂徒ぶりは、稲盛自身が経営者の枠を逸脱したところに身を置いているのと対応している。
そして、どの社員の発言をとっても、そこから京セラというものの姿が透けて見える。結果論ではあるが、必ずしも稲盛の話を聞かなくても、京セラの姿を描き出すことができるような気がする。
それは、京セラがごく単純なつくりであり(それゆえに強い)、どの社員も京セラの一員にすぎないけれども、どの社員も一員という部分性において、京セラの全体像を体現しているように思う。
川内工場で会った高卒の社員が、「入社したときは、流れ作業の一つをするとばかり思っていた」と意外さを語っていたが、それがこの部分性と全体性という問題と関連してくるだろう。(要約)
また同著には、次のようなエピソードも紹介されている。
京セラの本流にいる社員の仕事ぶりは、仕事以外の場面でも、社員たちが意識しなくても現れる。
ある日、乗り合わせたタクシーの運転手は、京セラ本社の近くにある食堂のおかみさんから聞いた話を教えてくれた。
「京セラの社員がうちによく食べに来るけれども、恐ろしい人たちですわ。店に入って食い終わって出ていくまで仕事の話ばかりしている。とにかく恐ろしい人たちや」
一般に「モーレツ」と言うとき、そこにはサラリーマンとしてよく働く、働きすぎという意味合いが込められていて、質の議論は抜け落ちている。
しかし京セラでは上記のような状態が常態で、それが日常的な流れ方となっている。そしてそこには、「京セラの中で働くということは、共同の創造行為でなければならない。それが人間あるいは働く者としてのあるべき営みの姿なのではないか」という稲盛自身の根源的な思いが具現化されたものではないだろうか。
「何かを任されて、それをやり遂げたときの充実感、これこそが生きがい、働きがいだと思うが、京セラではそういう機会が早くから、しかも数多く経験できるようになっている。
任されて、これは俺の手でやり遂げるんだという気持ちになれば、時がたつのも忘れるし、気がついて深夜になっていても少しも苦痛を感じない。
よく、大学時代の友人と話をするが、自分が入社して半年か一年くらいのときにやらせてもらったような仕事を、彼らはいまやっと始めようとしている。自分の現在の仕事の内容を言うと、たいていの友人は、うちの会社では課長クラスがやっていることだと驚く」(社員S氏)
「京セラの人間は、自分がムチャクチャ働いているとは誰も思っていない。みな仕事を楽しんでいると思う」(社員M氏)
いずれも第三者から見れば「気違い沙汰」とも思えるような働きぶりなのだが、実は当事者たちはそうした状況を楽しんでいるという事実を、うまく第三者に伝えるのは難しい。それは体得した人間にしかわからないとしか言いようがないものなのかもしれない。(要約)
42年前、私が京都セラミツクの入社面接を受けるにあたって示された事前課題のひとつが、「『ある少年の夢』を読んでくるように」というものだったのを、久し振りに思い出しました。
現在は就業管理も厳しくなり、ひと昔前のような無茶苦茶な働き方はできなくなりましたが、目の前の課題をブレークスルーしていくには「狂」の状態が必要だというのは、自身の経験も含めて疑う余地のないところです。
チャレンジは、燃えるような熱意、すさまじい根性、執念といったものがエネルギー源となって成就していくのではないでしょうか。