『稲盛和夫一日一言』 4月2日
こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 4月2日(火)は、「魂を磨く」です。
ポイント:己の人間性を高め、精神を修養し、この世にやってきたときよりも高い次元の魂を持ってこの世を去っていく。そのことより他に、人間が生きる目的はない。
2001年発刊の『稲盛和夫の哲学 人は何のために生きるのか』(稲盛和夫著 PHP研究所)の中で、生きていく意味・人生の目的について、稲盛名誉会長は次のように述べられています。
「人間は価値ある存在なのか」「この世に生を受け、生きていく意味とはどこにあるのか」
そのような「人間」というものに対して核心をつくような問いを受けたとき、私は次のように答えています。
「地球上、いや全宇宙に存在するものすべてが、存在する必要性があって存在している。どんな微小なものであっても、不必要なものはない。
人間はもちろんのこと、森羅万象、あらゆるものに存在する理由がある。たとえ道端に生えている雑草一本にしても、あるいは転がっている石ころ一つにしても、そこに存在する必然性があったから存在している。
どんなに小さな存在であっても、その存在がなかりせば、この地球も宇宙も成り立たない。存在ということ自体に、そのくらい大きな意味がある」
他が存在しているから自分が存在するし、自分が存在するから他が存在するという、相対的なつながりにおいて存在というものが成り立っている。
お釈迦様はそのことを、「縁があって存在する」というふうに表現されています。
まさに、すべてのものは決して偶然ではなく、存在すべくして存在している。ですから、私たちがこの世に生まれ、存在していることは必然であり、存在するだけで価値があることなのです。
しかし、存在しているだけならまだしも宇宙のためになったのに、悪い心を持てば人間はたいへんな害毒を流す存在にもなりかねません。ですから、人間が「人間として価値ある存在」になるためには、心、考え方、知恵、理性といった精神作用の質が大切になります。
人間の生き方は人それぞれですが、仮に私たち一人一人が必然的に生まれてきたのだとすれば、そこにはそれぞれ生きる意義、使命といったものがあるはずです。
死んだ後、あの世へ向かうのは、魂、意識体だけです。その魂、意識体そのものの価値が問われるのが、私たちの人生ではないでしょうか。
現世にあったとき、名声を得た、財産をつくった、高い地位についたといったことが、その魂の価値になるでしょうか。また、おもしろおかしく波瀾万丈の人生を生きてきたことが、魂の価値を高めることになったでしょうか。
私はそうではなく、生きている間にどのくらい世のため人のために貢献したか、つまり生きているときにどのくらい善きことをしたかが、万人に共通する魂の価値だろうと思うのです。
人間性を磨くこと、すなわち魂を磨くこと、それが大事なことであり、魂を磨く、つまり人間性を高め、素晴らしい人格を身につけることこそが、人生の本当の目的です。
人はそれぞれのコースをたどって生き、人生を終えるわけですが、どんなコースをとろうとも、それは「人間性を磨くために創造主が与えてくれた道だった」と理解すべきなのではないかと思っています。(要約)
今日の一言には、「死を迎えるときには、現世でつくり上げた地位も名誉も財産もすべて脱ぎ捨て、魂だけを携えて新しい旅立ちをしなくてはならない。俗世間に生き、さまざまな苦楽を味わい、幸不幸の波に洗われながらも、やがて息絶えるその日まで、倦まず弛まず一生懸命に生きていく。そのプロセスそのものが己の魂の磨き砂となる」とあります。
名誉会長は、「死を迎えるときには、現世でつくり上げた地位も名誉も財産もすべて脱ぎ捨て、魂だけを携えて新しい旅立ちをしなくてはならない」と言われていますが、世襲議員による日本政治の私物化に見られるように、死んでもなおゾンビのごとく影響力を残そうとするご老人のあまりの多さに辟易しているのは、私だけでしょうか。
老舗企業における家訓や、京セラにおけるフィロソフィも同様なのでしょうが、伝えるべきは、どこから見ても人間として正しいこと、つまりまっとうな価値観や行動指針であるべきだと思います。
自分が生きていく意味、人生の目的といったものを、今一度真摯に見つめ直す時間を持ってみるのも、まんざら無駄なことではないように思います。