『稲盛和夫一日一言』 2月28日
こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 2月28日(水)は、「額に汗して得た利益」です。
ポイント:「額に汗して自分で稼いだお金だけが、本当の利益」その信念は、「人間として正しいことを貫く」という原理原則に基づいたもの。
2015年発刊の『「稲盛和夫の実学」を語る』(稲盛和夫著 京セラ経営研究部・経理部編/非売品)の中で、額に汗した利益こそが貴いとして、稲盛名誉会長は次のように述べられています。
私にとって投資とは、自らの額に汗して働いて利益を得るために、必要な資金を投入することであって、苦労せずに利益を手に収めようとすることではありません。私の会計学には、投機的利益を狙うという発想は微塵もないのです。
だから、余剰資金の運用については、元本保証の運用が大原則であり、その中に投機的な資金運用のための「リスク管理」などはまったく含まれていません。
かつて「財テク」という言葉が当たり前のように使われ、企業の経理・財務部門でも一時的な運用利益を追ったあげくに、最終的には会社の根幹を揺るがすほどの甚大な被害をもたらすという例が数多く見られました。このようなことが起きるのは、自ら働いて得る利益を尊ぶという原理原則を経営者が無視した結果です。
第一次石油ショックによる日本経済の混乱がまだ続いていたころ、ある都市銀行の支店長が訪ねてきて、「値上がり確実な不動産がたくさんありますので、ぜひ紹介させていただきたい」と言ってきたときも、私は「自分で額に汗して稼いだものしか利益ではない」と思っている旨を述べて、話を聞いただけで済ませました。
その後、当時のバブルが弾けて、多くの会社が次々と経営破綻に追い込まれました。雑誌や新聞の記者から京セラがそうならなかった理由を聞かれた際、私は率直に「何も私に先見性があったわけではありません。ただ浮利を追うのは好きではないし、不動産を転がすような金儲けは嫌だったというだけのことです」と答えました。
その以降も、世の中の動きにあおり立てられるように、同じようなことが繰り返されています。しかし、多くの社員に対して責任を負う経営者は、あくまでも自分の中にある原理原則や行動の規範に従うべきであって、時勢に不和雷同し、流されるような経営をしてはならないのです。
投機というのは、「ゼロサムゲーム」と言われるように、基本的に誰かが他の者の犠牲の上に利益を得ることです。ですから、もし投機的な利益を得たとしても、それは世の中に対して新たに価値を創り出したことにはなりません。
本当の経済的価値、すなわち人間や社会にとってプラスになるような価値は、投機的活動によって増加するわけではないのです。
企業の使命は、自由で創意に富んだ活動によって新たな価値を生み出し、人類社会の進歩発展に貢献することです。
このような活動の成果として得られる利益を、私は「額に汗して得る利益」と呼び、企業が追求すべき真の利益と考えています。
経営者はあくまでも自分の原理原則を堅持し、何が正しいのか、会社の使命とは何かというところから行動する必要があるのです。(要約)
今日の一言で名誉会長は、「バブルのときに、利益が得られると投資の誘いを受けても、欲張ってはならないと自戒することはあっても、心を動かされることはなかった」と、当時を振り返って述べられています。
そこには、「原理原則にしたがう」という京セラフィロソフィの根幹ともいうべき大原則が貫かれています。
京セラでは創業の当初から、すべてのことを原理原則にしたがって判断してきました。会社の経営というものは、筋の通った、道理に合う、世間一般の道徳に反しないものでなければ決してうまくいかず、長続きしないはずです。
我々は、いわゆる経営の常識というものに頼ることはしません。「大抵の会社ではこうだから」という常識に頼って安易な判断をしてはなりません。
組織にしても、財務にしても、利益の配分にしても、本来どうあるべきなのか、ものの本質に基づいて判断していけば、外国においても、また、いまだかつて遭遇したことのない新しい経済状況にあっても、判断を誤ることはありません。(要約)
京セラ在籍中、「京セラフィロソフィ」そのものが原理原則であり、フィロソフィの個々の項目には、こういう場合はこういう判断をするのだという判断基準が書いてある、と教えられました。
それが習い性となっているのか、退職した今でも、日々の生活の中で迷ったときは、原理原則にしたがって判断すしようとする自分がいます。
筋は通っているか、道理に合っているか、道徳に反してはいないか。ともするとブレてしまいがちな心の軸をまっすぐな状態に戻すために、忘れてはならない判断基準ではないでしょうか。