人生とは延命の連続である

 昨今、延命治療を中止することや新出生前診断など、医療の発達にともなって起こる問題について、議論が活発化してきている。よくも悪くも人々にとって、「自分の人生」について真剣に向き合う機会が与えられ、また、昔よりも選択肢が増えた分、自己について決断をしなければならない場面が増えたとも言える。

 延命治療と言う時に、まっさきにあがるのが人工呼吸器の装着と心臓マッサージである。肉体の幕引きを自分で決断することは、肉体の最期がすべての終わりであると捉える人にとっては特に重いものでしかないが、意思表示をしていない家族の最期を周囲の人間が決めることについては、もう言葉が見当たらない。ことは自分のことについては淡々と決断ができる人間であっても、自分以外の人間のことについては二の足を踏むというのが、普通である。「魂が人間の本体であり、肉体はそれを入れる入れ物である」・「目の前から消えた人との別れは永遠の別れではない」と頭で理解はしていても、その肉体が目の前から消えることは大きい。

 はっきり言って、どんな選択であっても正しい・正しくないという視点では言い切れない。また、事情のわからない他人があれこれ言うことではない。「出た答えが最良である」と自らを納得させることしかない。

 広く言えば、生まれてから今に至るまで人は延命を続けている。風邪をひいて医者に行くこと、車が来ないか左右を見てから横断歩道を渡ること、これもまた延命である。そう考えると、延命とは何も特別なことではないのだ。それに、仮に本人・家族が延命を望んだとはいえ、人工呼吸器の装着と心臓マッサージを受ける前の段階で、容態が急変し、ナースステーションにも人がいない時に1人で旅立つ人もいる。私の家族がそうであった。

 どんなに高度な医療機械をつけても、この世での契約時間が来れば別の世界へ行くしかないのである。世の中では正社員・契約社員・アルバイトなど、働く業態によってさまざまな区分けがされているが、こと人生の時間に関しては、私たちはみな有期契約社員であると言える。

 だから、自分の人生の最期については、特別視するのではなく、忌避することなく向き合い、他人に何らかの意思表示をしておくことが重要なのである。これは自戒であるが、環境に大きく左右されることもあるとはいえ、自分の人生は自分で考えなくてはならないのである。「身自当之無有代者(しんみずからこれをうくるに、かわるものあることなし)」(『大無量寿経』)と、誰に代わってもらうことができないものが、自分の人生なのである。


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