#5 消化不良の作品

 劇場版名探偵コナンの公開が迫っているということでHuluで配信されていた『緋色の弾丸』を約2年ぶりに観たのだが、やはり劇場で観た時と同様に消化不良だったのは否めない。なぜだろうか。赤井秀一がメインで出てくるという作品で期待値が上がっていたのか。あるいはコロナの影響で延期されたことで、自分の中の期待感が高まっていたのか。ただ『紺碧の棺』や『業火の向日葵』、『水平線上の陰謀』といったコナン映画の中でもつまらない作品と同じだったわけではない。むしろ内容としては面白い部類だったのではないか。
 ではなぜこんなにも不満感が残る作品なのだろうか。このような感覚を覚えたのはこの作品が初めてというわけではない。過去にも一度経験している。それは鬼滅の刃の無限列車編だ。鬼滅の刃が初めてTVで放送され、最終話まで面白く観ていたのだが、あまりにものめり込んでしまい続きが気になって無限列車編が載っているコミックを買ったのだ。もちろんそれも楽しく読ませてもらった。しかし無限列車編を読み終わったときになにか消化不良であるような感覚を覚えたのだ。
 ふと考えるとこの2つには共通点があるように思う。それは物語に深みがあることまでは分かるものの、その深くなっている部分を掘り進めてくれはしないということだ。たとえば非常に面白い本で、それを横から見ると大変分厚くて読むのが楽しみになる本があるとする。しかしその本全てを読むことはできず途中で読み終わらなければならなかった時のような感覚だ。
 深さは、厚さは分かるのにそこに手が届かない。『緋色の弾丸』ではコナンと赤井一家のつながりが進展するように匂わされたのにもかかわらず、ストーリーの始まる前と後で全く関係性が一緒だった。劇場版だから仕方ない部分もあるかもしれないが、『異次元の狙撃手』で観たような映画を観る前と見終わった後では本編の見方が異なるような映画ではなかった。『ゼロの執行人』の時とは異なり、本編にも影響する展開が観る前に期待されていただけに、満足感が得られなかったのだろう。
 鬼滅の刃の無限列車編においても同様だ。煉獄さんの父親との関係性や、母親や弟の絆が匂わされたにもかかわらず、それらにほとんど触れることなくストーリーは終わってしまった。それを描けばより重厚感や深みが出ていたという偉そうなことを言うつもりはないが、煉獄さんの抱えるバックグラウンドが垣間見えていただけに、より深く煉獄さんのことを知りたかった。そういう意味で無限列車編も消化不良に感じたのだろう。
 

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