
インドの印象4 第5話「インド音楽の大家バハドゥル・カーン」
第5話「バハドゥル・カーン」
いよいよ人間のお話を登場させようと思います。インドに着いて間もなしに、ある日本人の方を介し、シタールの奏者と知り合いになりました。好奇心おう盛な彼は、自ら訪ねて来たんだったと記憶しています。そこにたまたま私もいた、ということ。「来い、来い」というので、翌日早速、彼の家を訪ねて行くと、その彼のお父さんがウスタード(これは称号、真打ちとか名人とかいう意味です。彼らはこれにまたグレートまで付けていました。)バハドゥル・カーンという人だったんです。知る人ぞ知る、というべき音楽家でした。
このサイトの他のページに紹介しているように、インドを代表する弦楽器と言えばシタールですが、次に重要なのがサロードという楽器です。サロードは素晴しい。シタールが女性的な繊細さを持つとすれば、一方のサロードは大変男性的です。当時、サロードの第一人者はアリ・アクバル・カーンでしたが、その次はアムジャッド・アリ・カーンというのが桟敷の人達の評判でした。しかし「暫ーくー!」と、その間に割って入るべき人が、このバハドゥル・カーンだ!と言いたいところです。
それからも、息子である所のキリット氏--彼はサロードをやらずシタールを父から学び、少し上の兄がサロードを受け継いでいました--の度々の誘いに従って、よくそちらに伺うようになり、そこに来ていたタブラ奏者、プロノッブさんとも交流が広がって行くことになりました。
さて、ある日キリット氏から
「今日、父の演奏会があるから、一緒に行かないか?」
と誘われたので行くことにしました。
しかし、実はその日はお腹の具合がとても悪かったのでした。そして、ここが面白いのですが、その後、他の演奏家にも何度かついて行くことがあって、そのたび、いつも思い知らされたこと、彼らはこともなげに訊きます、「一緒に‥」と。「しかーし」それがとにかく遠いのです。「初めに言ってくれよ」と思ったりしますが、タクシーと言うか、車をレンタルしたとかいうのに乗ったはいいが、はて、いつ着くのか?1時間くらいかな、とか思うでしょ、ところが2時間経っても3時間経っても着きません。まるで、そこんとこは誤魔化して、拒絶されないよう連れて行こうという魂胆のようにも思えます。
その時は日没頃出発したので、演奏するには9時には着くだろうから、そろそろ着かなくては、とか思いました。しかし、着きません。
一方、お腹の具合はどんどん悪くなり、痛くてたまりません。狭い車内で苦しんでいると、バハドゥル・カーン氏は気を利かしてくれたのでした。別の人に命じてダヒ(インドのヨーグルト)を買ってきてくれ、
「これはお腹にとってもいいんだ」
と勧めてくれました。インド式のとてもとても甘い、限りなくおいしいもの、掌に乗る素焼きの壷に入っていて、大好きなものの一つです。しかし、一口食べてみて思いました。
「食べられない。今は食べられない!」
と。お腹は「キュルルルー」です。こんな甘いものが効くはずはないし、だいいち喉を超さない。「うう‥」とかで困っていると、
「食べられないんなら窓から捨てたらいい」と言ってもらったので、その素焼きのカップごと、真っ暗闇の、おそらく田んぼのあぜ道のような所へ投げ捨てました。‥手にはその重みがしばらく残っていました。
後日談ですが、
「お前はあのとき、私がせっかく買ったヨーグルトを窓から投げ捨ててしまった」
とからかわれ、
「あ、いや、ども、あの、その‥」
こういう、ちょっとだけ相手を困らすのもインド流儀の一つだと思います。付言しておきますと、日本のヨーグルトと違って、ダヒというのはそうそう誰でも気安く食べるというものではない、ちょっとだけお高いものでした。
さて、着いたのは夜もとっぷりとふけた、真夜中0時過ぎ頃だったと記憶しています。それに、どうも会場の周辺には何もないよう。一体どんなところ?と一人で幕の外へ出てみると、そこは会場から漏れる光で、新鮮な緑の水田がぼんやり見えはすれども、その背後は漆黒の闇に包まれた空間がどこまでも続くという別世界でした。カエルや虫の鳴き声だけが、うるさく聴こえ、すぐその辺の草むらからコブラでも出てきそうな感じだったので、あわてて中に引き返しました。
インドには、舞台作りの職業集団があるようです。よく知らないのですが、そう確信できるのは、仕事の的確さ、またプジャ(お祭り)の多さから来る、にわか舞台の頻繁な必要性があるからです。彼らは、日本のような金属パイプではなく、インドに生育する節が多く、肉厚が3センチくらの丈夫な竹(バンスリーに使う竹とは全く正反対の性質を持つ竹です)を麻ひもで組んで、街の辻つじに、一晩で構造物を出現させたりします。それを白い布で覆い、神像や花を飾ったりし、浄められた舞台に仕上げるのです。
その時の舞台は白い幕が幔幕のように周囲にめぐらされ、小さな体育館ぐらいの広さの会場の仕切りとなり、押しかけてきた近在の村人達を、熱気むんむんと言った状態で包んでいました。典型的なプジャの催しのようで、その目玉として呼ばれたのでしょう。普段、あまり古典音楽など聴いたりしない一般民衆にも、有名な奏者を呼んで、一つ高邁な音楽を聴いて、伝統文化を味わう時間を持ってもらおうという、主催者(多分村の有力者、お金持ち)の意気込み。それに応えるべく、1、2時間とかではなく、新幹線なら日本の端から端まで移動するような時間をかけて、演奏に赴くんです。いやー、普通に疲れます。それも演奏の直前、しかも日付変わって到着するという、インドでは当たり前、日本では「とんでもない」「無茶だ!」となるプラン、つい「旅の疲れは?」と思ってしまいますが、何でもそうですが、そういう「概念」をもたない人には、あまり関係ないようです。これが日常であり、こうやってインドの音楽家は収入を得、家族を養っているわけです。
休憩もそこそこに、すぐ舞台へ移動し、私も一緒にそこへ。かのグレート・ウスタード・バハドゥル・カーンの真横にでんと座りました。不思議とあれだけ苦しかったお腹具合も、その頃には少し楽になっていました。
「さあ、ここに。」
と言われるがままに。
「一体なぜなんだー!!?」
という皆さんのお気持ちはよく分かります。
「お前に何ができるというんだ!!」
とも。
ハイ、そうです、何もできません。しかし、当時は日本人というだけで、一種「魔法使い」のようなものだったのです。何しろソニーの小型録音機を持っていたのですから。そのためだけに、息子二人は連れず、ヨーグルトまで買って気を遣って、はるばる私を連れてきたのです。まあ、実際は録音もできる小型ラジカセだったんですけど、同じようなものです。それに「sony」ではなく「sanyo」。でもインド人にとっては全く同じ、だって、綴りで見るとほとんど同じでしょ。発音も「ソニオ」と言っていました。
「さあ」
と促されて、録音ボタンをガチャっと押し込みます。それだけでも当時はなんだかこっちは緊張してしまいましたが、演奏は会場の少し上気したような雰囲気の中、バハドゥル・カーンらしい口当たりのいい、親しみやすい感じで始まりました。
しかし、その時の私は、ちょっと別のことを考えていました。共演者のタブラ奏者のことです。出発前、相手タブラ奏者の名前を訊くと、マハプルシュ・ミシュラ氏とのことでした。
「うわっ、これはすごい!」
ところが、既に先に到着して、舞台で待っていたのは、全く知らない、とても若い青年でした。はち切れんばかりの体躯、つまりまあ、かなり太っていました。もっとも、これはインドでは当たり前、立派な家庭の子女であれば、ほぼ必ず太っていました。しかし、心中「残念」と言う思いは少なからずあったのを覚えています。
当時、まだそんなにインド音楽は日本には紹介されておらず、LPレコードとして販売されていたものは、それこそラヴィ・シャンカールかアリ・アクバル・カーンしかありませんでした。そしてタブラ奏者はそれぞれアララカとマハプルシュと相場は決まっていました。そのあんまり知らない中で、世界的に有名なマハプルシュ・ミシュラの演奏が間近で聴けるとなれば、心弾みます。
だいたい、インドの奏者の大家は、相手が誰かなんてあまり気にしていません。着いてみて初めて「ああ、君か」といったようなものでしょう。若手のタブラ奏者の方は緊張し、恭しく丁寧な挨拶をしてくる、それを鷹揚に「しっかり頼むよ」と肩をポンポンしたりして励ます、という構図です。だから、名前を適当に言ったんだと思います。あるいは、その予定だったけど、都合で変更になったとか。
「その違いに何か意味があると言うのか?」
と、もし問われれば、困ったことになったでしょう。何しろ、インドには「タブラ奏者」というのは、それこそ山ほどいるんであって、ちょっと外国へ行く「チャンス」を掴んだ者(彼らはこういう表現を使います)が、「世界的奏者」と当地でもてはやされるのであって、元のインドでは、重鎮みたいなのがごろごろいるというような状態です。ですから、できるだけいろんな奏者の演奏を聴いて、
「はぁーっ、奏者によってこんなにも違うのか!」
と驚くのも「勉強」のうちの一つだと思います。それに何より「バハドゥル・カーンの演奏が聴ける」というのが一番であって、相手のタブラがどうのっていうのは「小さな出来事」に過ぎないとも言えます。
さて、名前を尋ねるような時間もなく、すぐに演奏が始まりやがてタブラが入ってきます。すると、
「おおーっ、なかなかやるじゃないか!」
村人達も大喜びです。サロードとタブラの掛け合いが始まったりしたら、
「ワオーーッ、もっとやれもっとやれー!!」と、手を叩いて、叫んで、身を乗り出して大騒ぎです。そして会場の人々一体となって、コンサートは終わりました。
終わった後、ちょっとそのタブラ奏者に、にこっと会釈をしたくらいで、すぐ帰ったものでしたから、話をするというようなことはありませんでした。
帰ったのが何時で(多分朝)、どんなふうに帰ったのかとか全く記憶は残っていませんが、1日置いてプロノッブさんの所へ行って、体験を話しました。すると
「それがサビール・カーンだよ」と、にこにこ嬉しそうに教えてくれます。
「ええっ?ああ、ほんとうに!?そうだったのかあ。それなら何かちょっと話せばよかった。」
つまりプロノッブさん自身が習った、あのウスタード・ケラマトゥッラ・カーンの息子、忘れ形見、ファルカバード・ガラナ直系唯一の後継者ということなんです。それこそ「弱冠二十歳」という年齢にふさわしい風貌、演奏でした。
最近の若い奏者は、妙に老けた演奏をするので、面白くないと言うか、あまりにもこましゃくれた印象を受けてしまいます。早くから「固まり過ぎ」、小学生が飽和状態、ティラクワ状態、これはやはりインドでも、何か「文明の変化」とでもいうものが起こっているように思えます。音楽学校が公立私立ともに整備され、「昔ながらの教え方」というものは、今の「民主主義」の世の中にはそぐわない、唾棄すべき「旧弊」として、追いやられる運命にあるのでしょう。それに、繰り返し聴くことのできる機器、名人の動きまで仔細に観察できるビデオ動画、これが普通に出回っている状態で、その表現を押さえた練習ばかりを強いるのは、土台無理とも言えます。
しかし、サビールは、形式的に固めるより前に、その基礎となる筋肉の動き、力強さや柔らかさ、滑らかさなどを鍛える練習をとことんやらされたのだと思います。お父さんがケラマトゥッラ・カーン、お祖父さんがマシート・カーン(これまたすごい人)、この二人から習う(普段はおじいさんから)という恵まれた環境にありながらも、大切な継承者を伝統的な「基礎体力」を作ることに集中させたということです。そういうことから、サビール氏も自分の弟子に「どの辺に筋肉が付いてきたか」ということを指導してもいました(これはずっと後で分ったことですが)。
というような理由からでしょう、その時の演奏はとにかく、髪を振り振り、パワフルなとても「元気のいい」演奏でした。
話は飛びますが、サビール氏の所へも習いに行くようになるのは、この初めて会った時から何年か経った頃です。でも、もうその頃にはすっかり落ち着いてしまっていて、あのとき見た、昔日の面影はほとんど残っていませんでした。反対にバハドゥル・カーン化していて、それこそ鷹揚に迎えてもらい、肩をポンポン、「なに、ジャパニ、まあ、よく来た、ちょっとひいて見なさい」というような調子(本当は何も言わなかったのですが)。「ちょっとムリして貫禄つけてるんじゃない」と思わなくもありませんでしたが、嫌みはありません。多分、本人も少し緊張していたんじゃないかと思います。
間に入って連れてきてくれたプロノッブさんが、とても嬉しそうに「あれをやれ!」というので、教わったちょっと難しいレーラをやると、眉一つ動かさず、「もっと大事な練習がある」といった感じの反応でした。結婚して、初の子が生まれて間もない頃で、奥さんがまだひと月くらいの、ほんとうにまだ小さな赤ん坊を抱いて出て来て、銀の専用ケースを開けて、ご主人の好きなパン(口が赤くなる嗜好品、味は昔の仁丹そっくり)を作って渡していました。その赤ん坊が今のラティフ カーンです。
バハドゥル・カーン氏にはその後も何度か演奏会に付いて行きました。さすがに、市内の会場では、舞台で真横に座ることはなかったのですが、そのたびに録音しました。後になって彼の若い頃の動画を見て、「ヘー、結構アグレッシヴだったんだ!」と思ったりしましたが、その頃はとにかく「スイート!」、誰も真似のできない感覚でした。それに比べたら、アムジャッドのはまるで無機質な、ちょっと薄気味の悪いような、弦がベロベロしてる音の羅列のように聴こえました。ファンの人には悪いですが、その頃はそんな印象を受け「好きになれないなー」と思い、一方、バハドゥル・カーンは抜群の指のソフトなタッチで、甘く、美しいメロディーを紡いでいて、これぞ!と大いに思いました。まあ、もっとも「これ以上ない」と思った甘さは、あの車中で食べたダヒの方だったかも知れませんが。
しかし、録音はここに描いた最初のが残っているだけで、他のは持っていません。後でダビングして日本から送るといくら言っても、ご子息のキリット氏に信用してもらえないと言うか、理解してもらえなかった、といった感じでした。
忘れられた天才と言うべきでしょう。今、サロードのトップ奏者として活躍してる、アリ・アクバル・カーンの高弟テジェンドラナラヤン・マジュンダール氏も、この頃はこの人の弟子でした。一緒に行ったダムダムの録音スタジオで師匠に命じられるがまま、マンドリンを弾いていたのを思い出します。何かの映画音楽の録音でした。皆からバブンと呼ばれ、自分でもそうノートに書いてくれたので、それが本名だと思い込んでいました。その頃と、後年有名になってからの容貌体躯が余りに違うので(まあ横に倍以上)、なかなか同一人物認識ができなかった訳です。CDに書いてある経歴を読んでいて、師の名前としてバハドゥル・カーンの名前を見つけ「えっ?!」となりました。しばらくその顔写真の顔幅を、指で無理やり半分くらいに狭くして見て、「な、なんと、あの時のバブンだ!」とやっと気づいたのでした。その時の、別々のものが繋がって一つになり、真の理解が訪れるという、得難い体験というのはそうそうあるものではなく、心からの納得感を与えてくれ、なんとも言えぬ安堵感で心を満たしてくれたのを思い出します。もう彼が有名な奏者となり、こっちもそう認識してから何年も経っていました。その辺のことはまたいつか。
(第5話「バハドゥル・カーン」終わり)2020.6.24