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ガダルカナル島、そしてニューブリテン島へ    

喜種 壽人

探鉱技師としてガダルカナル島に

1973年3月秋田大学鉱山学部採鉱学科卒業、採鉱屋の仕事が無く地化学探査の地質屋になった。4月からオーストラリアの探鉱会社に就職、鉱山開発をすると意気込んでいた。探鉱技師としてガダルカナル島に赴任した。ガダルカナル島は社会人生活出発の地であった。

シドニー直行便の最初に登乗、生涯初の飛行機、搭乗記念品を緊張で機内に忘れる
4月1日夜に羽田空港を飛び立った。航空会社はカンタス航空。何かセレモニーが行われているようだった。語学がついて行ってない。機内の放送などは、市販の旅行解説本で読んでいたので理解できた。地上職員の幹部らしき人が、なにか言っている。なにしろ、生まれて初めて飛行機に乗った。座席は狭いが、座っていて疲れないなと感じた。
配布された航空会社のビニールカバン(当時は各航空会社が航空券を買うと無料でくれた)、洗面道具セット、カンガルーのネクタイピンなどを見てみると、羽田-シドニー間ノンストップ便就航記念と書いてあった。食事時間にビール、ウィスキーなど酒を飲む余裕も銭はなかった(当時、アルコール類は有料だった)。
食事が終わり、しばらくして消灯。いつ寝入ったのか、スチュワーデスに起される。機内に灯りが点く。朝食が出される。緊張のためか食欲はない。時差2時間?のシドニー空港に、朝に到着した。窓から外を眺めると、曇りだった。
日本の出発前に、シドニーの会社に、到着日時、到着便名、迎えを頼むと電報を打っておいた。当然、出迎えが来ていると思っていた。しかし、誰も声を掛けてくれる人がいない。荷物はサムソナイトのトランク1つと肩掛けカバン。ここで、機内で貰った搭乗記念品を座席ポケットに忘れたことを思い出す。カンガルーのネクタイピンは、非常に気に入っていたので残念でたまらない。
空港への出迎えが来ない。電話しようにも、小銭がない。まして、早朝で日曜日だった。途方に暮れ、少し頭が痛くなってくる。
廻りを見渡して日本人を探した。4人組の日本人がいたので事情を話したら、宿泊ホテルまで連れて行くと言って貰い安心した。この方は住友商事の地質屋さんだった。車中でホテル名を聞かれ、「ウエントワース・ホテル」と答えると、良いホテルに泊めて貰えるんだと言われた。自分には、指定されたホテルであり、格式あるホテルとは知らなかった。

戦争の跡、軍札、日本の童謡
ソロモン諸島の首都ホニアラは、ガダルカナル島の北側にある。先の大戦の軍事施設は北側海岸にあったのではと思う。宿舎の西側にあるサンゴ残骸の海岸を歩いて行く、沈没船の残骸があった。国際空港の側の海岸には、米軍上陸艇、戦闘機、機関銃台座などがあった。日本軍記念碑もあった。知っている人でないと解らない場所だった。

市場で野菜、魚を買っていたが、現地人が紙切れを出して現金と交換してくれと言ってきた。紙切れを見ると軍札だった。現地の日本人から、心苦しいが交換するな、幾らで交換するか問題になる、まだ沢山あれば大変なことになると言われた。
サンゴ残骸の海岸を散歩していると、ヤシの実を採っている現地人がいた。ヤシの実に孔を開けて貰い、中のジュースを生まれて初めて飲んだ。少し甘いような、冷やして飲めば美味しいのではと思った。飲み終わると彼らは、実の殻の内側にある白い部分を蛮刀で削ぎ食べた。試しに食べたが、今まで水に浸かっていたのにカスカスした舌ざわりだった。完熟して落下し、水分の無くなったヤシの実の白い部分は、ヤシ饅頭と言うらしい。
ヤシの実を提供してくれた老人が、この歌を知っていると言って、「もしもし亀よ亀さんよ」と歌った。ジャングルの中で、日本軍の人から習ったと老人は言った。

皮膚病
ガダルカナル島で一度だけ、床屋に行った。中国人で建築業もやっていた。床屋兼建築士だった。建築士資格を持っているかは疑問だった。
バリカンで外周を刈る。櫛を入れ鋏で整髪と手際よくやってくれる。ちゃんと、衣服などに毛が付着しないように、布カバーを肩から垂らしてくれる。現地人もやってくる。
数日後に、首周りがかゆい。肌がザラザラする。乾燥肌みたいな粉が出る。何か、かゆい所を触ると少し凸凹する。鏡でよく見てみると、丸いカルデラが出来ている。円周が赤く盛り上がっていた。ハウスキーパに見せて聞くと、リングワームと応えた。日本で言うタムシ。水銀軟膏のお世話になる。
リングワーム伝染の原因は、櫛、カミソリ、タオルなどの消毒不足。リングワームはしつこく生き延びていた。体調が悪いと、肩口などに再発した。日本に帰っても、しばらく再発した。嫁さんの背中に出現したことがあった。
 
言葉はむつかしい
生活に慣れ、日常英会話に少し自信が出始めた頃。教会経営の雑貨屋兼本屋で、ソロモンの民話本を購入した。レジで白人シスター(若い)に、休日はどう過ごしているかと聞かれ、暑いので寝て過ごすと答えました。寝るに「sleep」を使った。
若いシスターは不機嫌な顔をした。「sleep」は、異性と寝床で過ごすと解釈されるそうだ。若いシスターに気をつけろ、「take a rest」を使えと教えられた。 

蛍光色の島々、ブーゲンビル島上空からのブーゲンビル鉱山を望む
会社代理人から、ニューブリテン島のプロジェクト配置を知らされ、ラバウル経由でホスキンス空港行き切符を受け取った。代理人に見送られて、ホニアラを後にした。
飛行機旅に慣れたこともあり、機内からソロモン諸島の島々を見た。真っ青な海、小さな島が幾つも海に浮かんでいた。島の周りは蛍光色を持っているような薄緑ながら、島の渕は白っぽくなっていた。沖縄のきれいな海のようだった。
途中、鉱山屋には知れ渡っていたブーゲンビル銅鉱山のブーゲンビル島の上空を通過した。感慨深く眺めた。
島の中心近くに鉱山があった。露天掘なので、赤茶けた岩盤が剥き出しの、すり鉢状になっていた。リオ・チント・オーストラリの子会社ブーゲンビル鉱業㈱のものだった。日本の商社が資本を出して鉱石を買鉱していた。ポーフィリーカッパー鉱床なので、銅品位が0.5%くらい、金を含んでいたので鉱山収入は良かった。
ブーゲンビル鉱業㈱の事務所が丸の内にあった。卒業年度に、卒業論文・履歴書を英文にし、現地採用もしくは研修機会を貰うべく事務所を訪問した。日本人の代表1名と女性1名の事務所だった。丁寧な応対を受け、書類を山元に送り、返事を待てと言われた。結果は、実際に会って英会話能力を確かめられないのでと断られた。
中継と給油でラバウル空港に降りた。トランシトのため、空港建物の外には出られなかった。臭いが強烈な不衛生と感じる空港床だった。腰に布を巻いただけの人、リトルナッツを口に入れて赤い唾をはく人、リングワームなど皮膚病の人が沢山いた。腹を空かしたのか、甘い菓子が欲しいのか、鼻水を垂らした子供が他人の荷物にある菓子袋に手を入れる風景が見られた。
第二次世界大戦の基地だった。海の方角、左側に突き出た小高い半島があった。これがラバウル富士かと思った。陸側は椰子の木が見られ、白い平屋のコンクリートブロック造りの建物が多かった。
 
ニューブリテン島プロジェクト -現地人の顔面切創事故
地球化学探査の仕事をしていたが、河川地図をもとに土壌採取を行い、採取地点をプロットする。さらに、歩いている河川や陸地を簡易測量(ポケットコンパスと巻尺)して地図の精度を上げてゆく。調査は自分と現地人スタッフ4名で行動する。現地人スタッフの中に、英語を話せて数字の書き込みが出来る者を必ず1名連れて行く。
携行品は、屋根用シート2枚、10日間の食料・燃料、各人の毛布、医薬品、嗜好品(タバコなど)と新聞紙などの紙類、ランプとコンロ。新聞紙はタバコの巻紙と大便に使う。
調査行は、自分を真ん中に、前に2名と後ろに2名の現地人スタッフで歩く。河川でなく陸地を調査する際に、前2名が草木を蛮刀で切って、獣・蛇に注意を払う。後ろ2名は調査用品運搬と記録を地図に書き込んでゆく。
ある日、急な雨(スコール)に見舞われた。登り斜面になった。先頭が草木を払うための蛮刀を振るうとチャリンと刃が石に当たった音がした。先頭が我々を振り向いた。額が真っ白だった。急に血が溢れ出て、顔面が血だらけになった。刃が石に当たった反動で、額に跳ね返って切創したらしい。真っ白な部分は額の骨だった。
救急医薬品を携行しているので、寝かせて治療した。額を横に一文字に切っていたため、額の皮が鼻まで垂れてきていた。救急箱の包帯留め金具(両端に金具がありゴムバンドで繋がっているもの)を出し、金具の一方を下がった皮に引っ掛け、他の一方を額上部に掛けて皮を持ち上げ切り目を合わせて簡易縫合をした。止血剤を塗り包帯を巻いた。
ベースキャンプに戻り、無線で街中の会社事務所を呼んで、救急ヘリコプターの手配をして貰った。ベースキャンプの位置を緯度・経度で知らせる。さらに、ヘリコプター場に焚き火をして目印とする。数時間後にヘリコプターがやってきて、怪我人を運んでくれた。ベースキャンプの近くで調査していたことが幸いだった。
救急箱の中には、毒蛇などに噛まれた場合のメス、止血剤、包帯、解熱剤、下剤、抗生物質類、消毒剤などが入っている。
 
日本に帰国し、三井金属鉱業㈱に入社した。神岡鉱山勤務から1983年6月からペルーに転勤になった。次稿に続く。

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