ペルーで鉱山開発
喜種壽人
ペルー入国
1983年6月三井金属鉱業㈱神岡鉱山勤務からペルーに転勤になった。
着陸態勢の機内アナウンスがあったが、周りは一面の雲の中(リマ沖合いは、寒流と暖流がぶつかる所で霧が発生する)だった。急に建物の横が見えて来て、深夜12時にリマ国際空港(ホルヘ・チャーベス空港)に降り立った。日本人は、我々三井金属4名(内1人は支社長の奥さん)と家族4人(夫婦、小学校の女の子2名)の赴任者だった。タラップに出たとたんに、強烈な臭いがしてきた。女の子のうち年少が、タラップに出てすぐに嘔吐した。後で知ったが、飛行場近くの魚粉工場からの悪臭とのこと。
空港建物へ徒歩で移動し、建物に入るところでペルー支社通訳に出会った。彼に案内されて入国手続きをした。問題は税関検査だった。通訳の手助けは許されない。通訳から、荷物は全部開けられ、税関員に必ず盗られるので注意しろと言われた。土産物で沢山持ってきたものは、税関員が手で、少しばかり検査台下の自分側に掻き落としていた。特に会社から預けられたダンボール箱の荷物(日本食、機械部品、雑誌など)は、徹底して調べられた。三井金属社員で、下着を全部盗られた者もいた。荷物は出来るだけ隙間無く梱包するので、一旦開けられると、直ぐに再び収納することが難しい。あせるばかりだった。荷物を台車に乗せる。税関検査を終え、出てゆくと迎えの人達と対面する。「きちんと閉めて下さい」と通訳から指示が来る。人だかりになる。色々な人が荷物運びを手伝うと言っているようだ。ここから車に運搬する途中で、荷物の蓋をしてないと盗られてしまうので通訳の指示が飛んで来たのだ。出迎えの支社の人達は、体を張って盗まれないよう体力勝負をしていた。
深夜にホテルに入る。チェックインは通訳がしてくれた。荷物は貴重品と当面の衣類をホテルに持込み、他は会社に運ばれた。睡眠を殆ど採れずに、朝になり、食事に行く。スペイン語が出来ず英語で話すが通じない(なんてことは無い、会社の近くのかなり安いホテル)。仕方なく、近くの人の食べているものを見て、指差して注文する。日本人が2人食堂にいた。三井金属の人ですか、と尋ねてきた。そうです、と答えた。すると近頃は、言葉を話せない人が来るのかと言われた。どちらにお勤めですかと質問したら、同じ三井金属とのこと。出張で来ていると言うではないか。一人は元ペルー支社長、他は元ペルー支社管理部長。元支社長は大学の大先輩、元管理部長は島根出身で一橋大学卒の人だった。スペイン語のスの字も知らない人間が赴任させられていた。言葉は事前の勉強も必要だが、喋らないとメシが食えないとなると覚えが早いと思う。ちなみに同じ鉱山に赴任した人は、スペイン語を少し学んでいた。
ペルーでの生活始まる 豆腐・納豆あり!
着任時のペルーは、軍事政権から民間への移行で大統領選挙が目前に控えていた。選挙のため、治安統制が行われていた。深夜12時以降の外出禁止と食堂でのアルコール類サービス禁止だった。ペルー人は酒を飲むとだらしなくなるのか、日本人も同じだが。支社の歓迎会が日本食堂であった。個室の座敷を締め切って、急須に日本酒、ウイスキーを入れて出され、湯飲み茶碗で酒を飲んだ。
ペルー到着第2日目の晩から、カタンガ鉱山勤務者用のマンションに移った。階下に日系一世の家族がいて、食事、洗濯、部屋掃除などをして頂いた。4LDKで女中部屋もあった。
朝は、納豆、豆腐入りの味噌汁、魚の干物を焼いたもの、漬物に白いご飯だった。時々、パン、ハムエッグ、パパイヤジュース、果物。日本の朝と全く変わらなかった。米粒が少し長いものだった。聞くと豆腐・納豆は、すべてリマ製だった。日本のように納豆のタレは無かった。ペルー製醤油か輸入日本醤油を掛けて食べた。豆腐はニガリが強いのか、日本と比べて固く木綿豆腐だった。所謂絹漉豆腐は無かった。また豆腐は防腐剤が入っていないのか、早く傷んだと思う。何故か、山に帰る前日の夕方買って、翌日の夕方に山に到着するが腐っていた。一度買ってすぐに丸ごと揚げ物にすると、山までもつことがあった。気候条件によるのかも。
移民された方々も多く、リマ生活で、我々は健康の元、食事に不自由することは無かった。
鉱山での日々
スポーツのこと
ペルーで盛んなスポーツは、男子はサッカー、女子はバレーボールだった。バレーボールは日本人の加藤氏?がペルーの監督として、国内普及に努められていた。我々の時は、韓国人が監督だった。韓国の監督はよく、リマゴルフでプレーしていた。何回か前を回っていた。
鉱山の女子を集めて、当時鉱山長の尾形さんの起案でバレーボール大会を開催した。小生は高校時代と神岡時代にバレーボールをしていたので、コーチ・審判をし、バレーボールコートを造成した。男は課別のサッカー大会。
好評で、ケチュア鉱山近くのアタラヤ銅山との定期交流大会に発展して行った。社旗を掲げ、トラックに選手団が乗って、音楽つきでやってきた。カタンガ、アタラヤと交互開催となった。
インカ石積み技術と神岡坑内能率給のこと
ワンサラ水力発電所建設に従事、水路、水路トンネル開削が担当だった。メスコの蒔田さんがチーフ、開削は新宮さんと小生、工程管理・設計変更および出来形管理は神岡・工作出身の山本さん、電気はメスコ斉藤さんと西芝電機の人、機械はメスコ七条さんとペンストックの三菱?の人が現場スタッフだった。
水路開削で湿地帯にぶつかると、水路側壁が崩壊し、浚えても浚えても時間がたつと崩壊した。
新宮さんと相談し、崩壊をインカ末裔なので石積みさせて、防いでみようと言うことになった。石は適当な大きさ(頭大以上)のものが、砕石プラント近くにふんだんにあった。
早速に、石を運搬しておき、積ませてみると驚く早さできれいに積みあげるではないか。ハンマーで細工し、仕上げ面の凹凸も少なく出来る。彼らがどうだと言って、生き生きして仕事をしているように思われた。これで一気に問題解決した。
しかし、施工ペースが上がらなくなってきた。材料(石、鉄筋、砂など)が揃わないこともあったが、これまでのペースより落ちていた。ここで、神岡能率給の応用で、一日の当方目論見をノルマとし、早く消化すれば給与を保証し早退できることにした。進むではないか。
氷河の氷のこと
ワラス、リマに下りる途中に氷河があり、暖かい季節に氷河が壊れて落下し、我々は氷河の欠片を採ることができた。氷河の欠片を新聞紙に包んでワラス、リマに持って行った。ウイスキーのオンザロック。ウイスキーが甘く、大変にうまいものだった。
ワジャンカの人は、氷河の欠片で掻き氷を作って日曜日などにして売っていた。本当に贅沢なことをしていた。