【サイコサスペンス】誰がための死に花(1/3)

あらすじ

 SNSで集められた自殺志願者十七人が毒を飲まされた上、刺し殺された。犯人は占い師の女、椿。彼女もまた生きたまま斬首という方法で凄惨な自殺を遂げた。
 何が一人の女を大量殺人鬼へと変えたのか? そこには一人の男の姿が──

 副業として占い喫茶で働いていた椿は、客として訪れた片桐という男と出会う。真面目で軽薄で鋭くて危うい彼に惹かれていく椿。椿を気に入ってひいきにする片桐。
 しかし、ある日突然片桐が自殺。調べ始めた椿は状況や理由に不審を覚える。片桐の影を追い求めるうち、彼女にとんでもない考えが芽生え始める。
 小さな悪意の種と好奇心の雫から、血塗られた大輪の花が咲く。サイコサスペンス!


各話リンク

第2話

第3話(最終回)

誰がための死に花(3/3)|古賀菜美子 (note.com)




序 椿死亡前後

『あなたはどうして自殺しようと思ったんですか?』

 軽い自己紹介が済むなり、椿は目の前の女にそう書いた紙を差し出した。白いワンピースの女は一瞬面食らったような顔をしたが、同じ自殺志願仲間という気楽さからか、丁寧に答えてくれた。
「自分に価値を見出せなくなってしまったんですの。ちょっとした失敗一つ一つが頭を離れなくて。そういうのが積み重なるうちに希望が持てなくなってしまって。〈零〉さんの方は?」

〈零〉 こと椿はメモ帳にペンを走らせると、女に見せた。
『いわば、健康上の問題です。声が出ない以外にも不自由なことがたくさんあって。もっとつらい人はいくらでもいるんでしょうけど、私はもう限界です』
「そう、それは大変ね。ところで、さっきからいろんな人に話しかけているみたいだけど、自殺の理由を訊いて回っているの?」
『はい。興味があるんです。ここにいるような人たちって身近にいないし、いてもわからないじゃないですか』
「そうね。こうやって一堂に会する機会なんて無いものね」
 女はかすかに笑うと言葉を継いだ。
「それにしても、インターネットって恐ろしいわ。見ず知らずの人の呼びかけでこんなに集まっちゃうなんて。それとも、〈ツバサ〉さんがすごいのかしら……」

 女の呟きは、パンパンと手を叩く威勢の良い音にかき消された。音の主たる若い男は、奥の壁の前に背筋を伸ばして立っていた。彼はあたりが静まり、居並ぶ人々の視線が自分に集まるのを待って、口火を切った。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございました。こんなにいらしてくださるなんて、企画者として嬉しい限りです」
 男が椿たちを見回した。つられるように椿も室内に目を走らせる。

 椿たちのいる半二階建てコテージの一階は広いホールになっていて、夕闇を追い払うように明かりが煌々と灯されていた。
 ホールには長方形の大きなテーブルが二つ置かれ、人々はその周りに集まっている。テーブルの上には開封済みのワインボトル、コーヒーの入ったサーバー、グラス、カップがまとめて載せられ、宴の始まりを待っていた。

「申し遅れましたが、わたくし〈ツバサ〉と申します。いつもやりとりはすべてSNS上だったので、こうして喋っていると不思議な感じですね。……さて、無駄話はこの辺にして、さっそく本題に入りましょう。皆さん、お飲み物をお取りください」
 グラスにワインが、カップにコーヒーがそれぞれ注がれ、人々の手に渡っていった。儀式めいた静けさの中、椿もワインを受け取った。

 飲み物が行き渡ると、自らもグラスを手にした男が口を開いた。
「用意は良いですね? それでは、乾杯!」

 十秒と経たないうちに数人が床へくずおれた。飲み物には煙草を煮出して得たニコチンが致死量の何倍も入っている。遅れてまた何人かが倒れた。中には痙攣している者もいた。
 椿もワインを口に流し込み、その場に倒れ伏した。
 残りの人々も雰囲気に呑まれたように手元の飲み物を口にし、息絶えていった。

 やがて折り重なった人々の体で足の踏み場のないコテージの中、立っているのは〈ツバサ〉と着物姿の女の二人だけになった。
「どうして飲まないんですか? 怖くなりましたか」
「〈ツバサ〉さんこそ。主催者なんですから一番に飲むべきでしょう。手本として」
「主催者だからこそ、見届けてから逝かなきゃ」
「本当は死ぬ気なんかないんじゃないですか?」
「死ぬ気ならちゃんとありますよ。それに、既に十五人以上死んでるんです。私の音頭で。SNSで自殺志願者を集めた電波記録も残っている。生きていられるわけないじゃないですか」
「それもそうね」

 女は納得して毒入りコーヒーを呷ったらしい。カップを取り落とすと、その上に着物の裾を乱して崩れた。一人きりになると、男は中身の入ったグラスを置き、携帯端末で死体の写真を撮り始めた。
「こんなに首尾良くいくとは思わなかったな……」
 そんな男の独り言を耳にするに至り、椿は死んだふりをやめた。口の中のものをすべて吐き出すと、彼女はハンドバッグからナイフを取り出し、後ろから男の首を躊躇なく切りつけた。

 驚愕の表情で振り返った男の腹に、椿はナイフを突き立てた。
「口の中にビニール袋を仕込んでおいて、そこにワインを流し込んだの。口が利けないふりをしていたのは、袋の仕掛けに気づかれないようにするため」
 冥途の土産代わりに男へ教えてやると、椿は彼の体からナイフを引き抜き、その手に「十七:星」のタロットカードを握らせた。

 それから、椿は倒れた人たちの間を回り、一体一体ちゃんと死んでいることを確認しては念の為一刺しし、十六、十五、十四……と順にタロットを置いていった。
 短剣に似た鍔付きで両刃のナイフは扱いやすく、凄惨な儀式は粛々と進んだ。凄まじい作業の間、椿の頭を占めていたのは一人の男のことだった。彼の顔が浮かぶたび、椿は心の中で幻影に問いかけた。片桐さん、これが正解ですか?
 暖房がたかれて春めいたぬくもりの満ちるコテージに物言う者はなく、湿った汚らしい音だけが断続的に響いた。

 一のカードまで辿り着くと、椿は誰のものとも知れない血で重くなったカクテルドレスを引き摺るように立ち上がった。彼女はナイフを捨てると、木の階段を一歩一歩踏みしめるようにのぼった。疲れ切っていたが、まだやるべきことが残っていた。
 二階の一番奥の部屋に入ると、椿は素早く鍵をかけた。なぜだか急に追い立てられているような気分になった。実際彼女は警察に追われる身だが、ここのことはまだ嗅ぎつけられていないはずだった。椿は深呼吸をすると、最後の仕事に取り掛かった。

 下準備は自殺パーティーの前に済ませてある。フットボードが床板までしかないベッドの足元には、少し間を開けて肘掛椅子が向かい合うように置かれている。ベッドと椅子の間の床にはレールが扉のそばまで通っており、端には小さな台車に載せられたチェーンソーが控えている。
 これは言うなれば手作りの断頭台だった。椅子に頭を、ベッドに体を乗せてスイッチを入れれば、チェーンソーが頭と体の間を通り抜ける。

 ベッドのわきには小さな丸テーブルがあり、ロープ、瞬間接着剤、断頭台の有線リモコン、「〇:愚者」のタロットが用意されている。
 椿は手始めにチェーンソーの電源を入れた。途端に部屋が騒がしくなる。奥へ進み、テーブルの上の物を取ってベッドに横たわった。
 頭を椅子に、体をベッドに預けて仰向けに寝転ぶと、一息つく間もなく椿は身を起こした。ロープを手に取り、自らの体をベッドに拘束していく。
足、腰、胸元を括り終えると、今度は左手に接着剤を持ち、右腕と右掌に中身を絞り出した。掌にタロットカードを貼り付けると、彼女は右腕を掲げ、そのまま壁に押し付けた。右腕が挙上した状態で固定されると、椿は満足の溜息を漏らした。

 あと少し。呟くと少し元気が出た。これからしようとすることに恐怖は微塵もなかった。むしろ、大舞台を前にしたような高揚と喜びがあった。そう、これは一世一代の大舞台なのだ。今となってはこのためだけに生きていたような気がする。

 椿は重い唸りを撒く手製ギロチンに繋がるリモコンを引き寄せた。スイッチを入れ、椅子に頭を乗せる。さあ、これで思いは果たされる。
 ゆっくりとやってきた大きな刃が、彼女の首を生きたまま刎ねた。

 
 
一、椿死亡二年前
 
 軽やかなベルとともに「占い喫茶Arter Arbor」のドアが開いた。入ってきたカップルからは、バックヤードからも分かるほど破局の影が匂った。椿はもう一度予約データを読み返すと、店の奥のブースに移動した。テーブルクロスを整え、タロットカードを準備する。深呼吸して店員の女の子に合図を出した。案内されてきた二人が椿の向かいの椅子に落ち着き、店員が去ると彼女は切り出した。

「お初にお目にかかります。シェリー椿と申します。奥田様でお間違いないでしょうか」
「はい」
 男の方が返事をした。女は目を斜め下に向けている。

「ご相談内容はお二人の今後についてとのことですが」
「ええ、大きなトラブルもなく付き合ってきて、遠からず一緒になろうと考えているのですが、いまいち踏ん切りが尽きません。特に彩子、彼女ですけど、彩子の方がちょっと心配症で。だから心の持ちようなんかを占ってもらえればと」
「わかりました。彩子さんの方からご注文などはございますか?」
「ありません」
 女の視線が動く。椿のいる正面ではなく隣の彼氏へ。タロットをクロスに広げてシャッフルする。客の二人からは同じ柔軟剤の匂い。多分同棲中。予約したのもブースへ先に足を踏み入れたのも男。彼の方が乗り気。普通と逆。奥田が口を開く。

「ここ、占いだけじゃなくてスイーツも凝ってるらしいよ」
「表のメニューにあったアップルパイが美味しそうだった」
「ネットではチーズケーキが評判だよ」
 タロットをまとめて山にする。

「何枚目がよろしいですか?」
「じゃあ五枚目、でいいよな」
「うん」
 男の目線がさっきから何度も彩子の上に投げかけられている。そこに含まれているのは愛情じゃない。もっと冷たい。ああ、彩子のブローチが傾いているんだ。

 奥田は彩子を表向き大切にしているけど、実はかなり自己中心的。彩子は自分を尊重してくれない奥田に嫌気が差し始めている。奥田は彩子の心が離れつつあるのを察して繋ぎとめようとしている。
 出たカードは逆位置の法王。目の前の客たちの状況を踏まえてカードの老人が語る。そのお告げを音声に変えるのが椿の役目。

「自分自身の心に正直になってください。周囲の方が何と言おうと、良いと思えばその方向へ進み、嫌だったら思い切って切り捨てれば楽になれるでしょう」
 去り際、奥田は聞こえよがしに「ま、占いは占いだし。カフェの方で文字通りお口直ししよう」と彩子に声を掛けた。彩子は奥田の後から深々とお辞儀をして出て行った。初めてまともに向き合った彩子の瞳には、決然とした輝きが宿っていた。

 今日の椿の予約客は彼らでおしまい。椿はバックヤードへ引っ込んで喫茶店員の制服に着替えた。昔、暇な遊女はお茶を挽いたという。現代、暇な占い師はコーヒー豆を挽く。

「頑張るわねぇ」
 休憩していた先輩占い師が間延びした声を出した。
「稼げるときに稼いでおきたいので」
「占い師さんたちは良いですよね。占いでも喫茶でも働けるんですから」
 奥田たちの応対をしていたバイトが聞きつけて、扉から首だけ覗かせた。

「あたしたちにとっちゃ喫茶専門の人こそ羨ましいわよ。時給高いし安定してる。こっちは客がなきゃ、おまんまの食い上げよ」
「お客さんがつけばその分たくさん貰えるじゃないですか」
「聞きたくもない身の上話とか不幸とか散々聞かされて、結果が悪いとキレられたりインチキ呼ばわりされたりする。貰うもの貰わなきゃやってられないわ」

 言い合う二人の横を通って椿は厨房へ出た。奥田たちの注文品の用意を手伝う。チーズケーキとコーヒー二つずつ。彩子は行動を起こせるだろうか。知ってしまうともう駄目だ。彼らの姿が個性と人格を備えて膨れ上がり、客という枠を突き破って立ち現れる。椿はさっさと食べ物をホール担当に渡した。わかることとわからないこと、一体どちらが幸せなのだろう。椿がここに流れ着いたのも、生まれ持った眼力のせいだ。

 新卒で入った職場は中堅教材メーカーだった。特にやりたいことがなく、内定企業の中で一番給料の高いところを選んだ。それが失敗だった。直属の上司が隠している神経質さや苛立ちを、ちょっとした仕草や表情からことごとく拾ってしまう椿の感性はみるみる摩耗していった。上司も上司で椿を持て余していた。商談相手や仕事仲間の言葉や持ち物から趣味や家族構成を見抜き「お嬢さんはとても可愛いお年頃でしょうね」「○〇海岸は最近荒れていて、この間も流された人がいましたね」などと口走る営業が誰に喜ばれようか。三年ともたずに疲れ果て、退職願を書いた。

 親戚の伝手で弁当工場の働き口を得て、ずっとそこに落ち着いている。周囲は古参のおばちゃんとバイト学生ばかりで、中間の椿との間に煩わしい人間関係は生まれなかった。心地良い職場に満足していた。だが次第に愛情弁当におかずを詰めている時など指先の温もりが失われ、体の芯から冷えていく感じがするようになった。給料も貯金をするには心許なかった。そんな折、散歩中に見かけた「占い師募集、週一回から勤務OK」の広告につられて「占い喫茶 Arter Arbor」に飛び込んだ。タロット使いシェリー椿の誕生だった。源氏名はオーナーのカテリーナ黒木から賜ったものだが、当人はさほど気に入っていない。

「シェリー、お客様よ。着替えてらっしゃい」
 休憩室にいたはずの先輩が、いつの間にか椿の傍に来ていた。
「パトリシアさんはお相手しないんですか?」
「四柱推命もホロスコープも手相もお呼びじゃないってさ。二時間も待機やってたのに。ほら、初回アンケート取っておくから支度しな」

 占い部門の客には二種類ある。予約客と飛び込み客だ。大部分は前者だが、給料一部歩合制の雇われ占い師たちは後者も捨て置けない。そこで暇な占い師は喫茶で働くか偶然の出会いを蜘蛛のように待っている。基本的にはこれでうまく回っているが、占い師にも得意分野があるため、手すきの者が複数いるとこういうこともある。

 椿がどうにか占い師らしく繕ったところでパトリシアが若い男をブースに連れてきた。男に椅子をすすめながら、椿はアンケートを受け取った。片桐春樹、二十七歳。誕生日は、相談内容は……。
「お初にお目にかかります。シェリー椿と申します。本日はこれからについて知りたいとのことですが、もう少し詳しく伺ってもよろしいでしょうか」
 素早く情報をインプットし、微笑を浮かべる。ニコニコ顔は占い師に似合わない。謎めいた微笑みが彼女たちの営業スマイルだ。

 目の前の男は顎に手を添えて首を傾げた。きざったらしい仕草がマネキンの来ていそうなしっかりしたコーデと妙に合っていた。服には自然な使用感があり、すぐそこで買って身につけたものではないとわかる。清潔感と遊び心が仲良く同居している。一方、髪は少し乱れ目にセットされていて、腕時計も華奢な手首には重そうないかつい代物だった。どういう人間なのか掴みかねる。ただ大きな悩みを抱えているようには見えない。ここへ来たのは切羽詰まってというより面白半分だろう。そういう客は珍しくない。

「具体的にと言われても。なんとなくこの先どう言う感じで進んだらいいのかなー、みたいな」
「タロット占いをご希望とのことですが、理由をお聞かせ願っても?」
「占い師なら占って当ててみてよ。なんて、冗談。字画とか誕生日って自分じゃ変えようがないから、悪いって言われたら嫌だし、本とか買えば自分で占えるし。だったら毎回結果の変わるやつがいいかなって」
 タロットもカードと本を買えば自分でできますよ、という突っ込みは呑み込む。結果の解釈こそ占い師の腕の見せ所だし、プロにやってもらった方が有難みもあるのだろう。

「相談内容が漠然とし過ぎてるって言うなら、これからちょっとやってみようと思ってることがあるから、それの成否でどうかな」
「わかりました」
 出たカードは逆位置の戦車だった。捉えどころのない男。確たる計画は持っていなそう。少し考えて言葉を紡ぐ。

「衝動的な行動が災いを招くと出ています。周囲の方のアドバイスに耳を傾けて、状況を冷静に判断することが大切です。急がば回れ、で焦らず粘り強くを心掛けてください」
 至極真面目な椿を片桐は軽く笑った。

「無難なこと言うね。これ何の絵?」
「戦車です。ちなみに逆位置。占者にとって正しい向きか逆さまかで意味が大きく変わります」
「奥が深いんだね」
 大して感心した様子でもなく片桐は言い、椿が話を締めるまでもなくブースからふらりと出て行った。

 遊びや冷やかしの客はたいてい一期一会。だが片桐春樹は二週間後、再びArter Arborに現れた。過去客データベースを遡って椿は彼を思い出した。
「久しぶりだね、チェリーさんだっけ」
「シェリーです」
「シェリーさん、カードの引きがいいね。たまたまかもしれないけど本物かもしれないから、また占ってもらいに来た」
「それはどうもありがとうございます。それで、なさろうとしていたことは今どんな具合ですか?」
「んー、内緒」
 うまくいってないんだろうな。
「本日はいかがいたしましょう。全壊の続きでしょうか」
「いや、仕事について。頑張りのわりに認められないんだ。だからそのうち正当に評価されるのか俺のどこかがいけないのか見てほしい」

 椿は思わず片桐の瞳の奥を探ろうとした。ちゃらついた口調のくせに受け答えがしっかりしていることから根は真面目なのかもと考えていたが、台詞の最後の部分には驚いた。殊勝な内省に反して左頬だけを吊り上げる笑い方はいささか不遜だし腕時計の金の鎖は輝きすぎている。でも清潔感やどこか真っすぐな眼差し、しっかりと伸びた背筋には通じるものがある。

「曖昧で変わりやすい状況にあります。思い悩んで進むべき道を見失いやすい時です。行き詰ったら気分転換をして、周囲を変えるより自分が変わるくらいのつもりでいると運が開けます」
「なるほど。『THE MOON』。月か。今回はちゃんとした向きだね」
 悩みがあって占い師を頼っているとは到底思えない軽さ。この絵柄と向きが運命を左右するというのに。その時、着信音がなけなしのムードを完全に消し飛ばした。片桐が目を細めた。笑っているようでもあったし気まずそうにも見えた。

「どうぞ遠慮せずに出てください」
 だが片桐はろくに相手を確認もせず電話を切った。
「悪かったね。普段はマナーモードにしてるんだけど」
「お気になさらず。それより出なくて良かったんですか?」
「いくらでも来るんだ、こんなの。相手してたらキリがない」

 片桐はスマホの画面を椿に向けた。アイコンが整然と並ぶ待ち受け画面の中で、メッセージアプリのマークに五百十二という瘤がついていた。ただの冷やかし、お遊びの客。そういう枠の中に何度この男を突き落とそうとしたか知れない。しかし派手目の色使いなのに首元までボタンを留めたシャツ、要領を得た受け答え、座る前の軽い礼や汚れの無い靴がすんでのところで彼女の手を止める。今もそうだ。返事をしない奴に、誰がわざわざ連絡してくるのだろう。しかも五百件とは尋常ではない。

「電話の相手、誰だと思う?」
 椿の中を搔き乱していた問いが現実の声となって差し挟まれた。幸いポーカーフェイスは崩れていない。狼狽えた表情を客に晒しては占い師失格。

「お客様のプライベートに立ち入ってはいけませんので」
「こっちが招いてるんじゃん」
「セールスや勧誘の類でしょうか」
「すぐに切ったから? キリがないとか言ったから?」
「ええ、まあ」
「カードに訊けばいいのに」
 痛い。どこかが確実にじくりと傷んだ。努めて取り澄まして答える。

「電話は事実、実際に起こっていることですから」
「じゃあ占いは実際に起こっていないこと、つまり嘘?」
「まだ起こっていないこと、起きるかもしれないこと、要するに未来や可能性の話です」
 スマッシュの手ごたえがあった。ゆったりとした拍手が起こった。

「俺の負けだ。敗者は潔く退散するとしよう」
 歩き去る彼の洗練された身のこなしと、さっき目にしたモールス信号やディクテーション、統計解析など見慣れないソフトが点在するスマホ画面を重ねようとしたが、うまくいかなかった。

 平日は弁当工場で過ぎていく。椿は日記をつけないが、わざわざ書き留めるような出来事もない。今月憶えていることと言えば、有給処理とおばちゃんからのお裾分けくらいだった。
 工場の従業員たちは病気や儀礼には助け合いの心を発揮するのに、趣味や旅行のための休みには厳しい。冠婚葬祭や病欠振り替えで余った有給は失効間近に買い取ってもらうのが慣例になっている。求人情報に有給取得率ではなく消化率百%と記載されている所以だ。
 盆と正月は休暇がもらえるのだし、波風立ててまで打ち込みたいこともない。だから格別不満はないが、疲れて帰った夜や布団から出たくない朝は、あったかもしれない充実した連休に思いを馳せてしまう。休日を想像のように活用できたためしなどないのに。

 同調圧力は結束の裏返し。椿はあんまり自分から雑談に入らないが、旅行のお土産はちゃんと彼女の分もあるし、なんだかんだと話の輪に呼んでもらえる。
 中でも親切なおばちゃんが、ある日赤い巾着をくれた。袋は開けてもいいけどその中身は今夜十二時まで開けちゃ駄目よ、という言葉を添えて。何度尋ねてもおばちゃんはそれ以上教えてくれず、他の人へも配りに行った。

 巾着袋の中には小さい一段だけの弁当箱。白いプラスチックで、タッパーのような作り。食後みたいに軽く、そっと揺らすとカラカラ鳴った。帰宅後の椿は箱をテーブルに置いて目線を何度も時計と往復させた。お風呂場でも台所でもトイレでも、彼女は箱にとらわれていた。気になるあまり動悸すら襲ってきた。
 おばちゃんはこの前伝統品の特別展だか博物館だかに孫を連れて行ったらしい。和柄の巾着はそこで買ったのだろう。多分箱の中身もそのお土産。予想はついていたが落ち着かず、日付が変わるとともに蓋を開けた。中には金平糖や飴、雷おこしが丁寧に詰められていた。

 翌日、おばちゃんは仕事仲間の間を走り回って「いつ開けた? 十二時まで待った?」と嬉しそうに声を掛けていた。椿がちゃんと言いつけを守ったことを伝えると、おばちゃんは彼女の背中をバシバシ叩き、厚化粧の仮面にひびが入るほど豪快に笑った。
 よく調教された手足が本体を置き去りにこなしていく作業を一歩遅れてマニュアルと照合していく毎日。自分の扱っているのが果たして食べ物なのか何なのかすら、しばしば見失いかける。突然叫んで走り出し、そのまま戻ってこない者も定期的に出る。こういうくだらないことが結構救いになるのだ。

 椿が奇行に走らず済んでいるのはArter Arborのおかげだろう。占いエリアでは特に生産的な活動は為されない。代わりにスタッフも客も感情と感覚に沈んでいる。片桐は月一回程度のペースで顔を見せるようになった。来るのは決まって椿のいる土曜日で、指名も彼女だった。タロット使いは他にもいたが、すっかり気に入られたらしい。
「この仕事、楽しい?」
 回を重ねるごとに雑談も増えていった。

「悩んでいるお客様のお役に立てるのは嬉しい限りです」
「役に立ったかどうかってわかるの?」
「わからないことも多いです。たまにその後の報告に来てくださる方がいると、とても励みになります」
「外れた、って怒鳴り込まれることってある?」
「良識あるお客様に恵まれ、幸いにもトラブルは滅多にありません」
「何もない時はどうしてる?」
「便りのないのは無事の知らせ。平穏に過ごされていると信じ、祈っております」
「俺も無事を願われてるのかな? だったらこんなに心強いことはない」
 何が面白いのか、椿が真摯に応対すればするほど彼は饒舌になった。

 寒風吹きすさぶ外からやってくる客と、暖房で常春の店に端座する占い師たちの服装の差が最大になる頃だった。不意に片桐がこぼした。
「シェリーさんってなんで占い師になったの?」
その顔からはかすかな興味しか窺えない。

「ご縁があったんです」
「その割には土曜日しかいないよね。他の日は修行? それともシェリーさんじゃない椿さんになって、俗世で悩んだりもがいたり、とか」
 椿は我知らず拍動と同じテンポでタロットを切った。カードを傷めるのでこんなトランプみたいなシャッフルはご法度。だけど彼女を占い師という着ぐるみに縫い留めてくれるのはこれしかない。

「ご想像にお任せします」
 美しく妖しい空想の入る余地がまだ残っていますように。この一言に冷たさと幽玄さの欠片が宿っていますように。
「踏み込みすぎちゃったかな」
「いえ別に」
 そんな問いを投げかけてきたのは、あなたが初めてです。心の中だけで呟いた。

 その日の相談内容は恋人との関係に隙間風が吹きつつあること。
「どれにしますか?」
「右から三番目」
 逆位置の「悪魔」。裸の男女が鎖でつながれ、その先を悪魔が握っている。さっきの着信音が椿の耳の中でだけ鳴る。悪魔の正体は、電話の主だ。

「強い心で行動してください。悪いものを断ち切れば、トラブルは収束に向かいます」
 執拗な電話やメールは、ストーカーやそれに類するもの。迷惑系やセールスなら拒否したり削除したりするはず。それをしないのは相手の暴走を防ぐため、あるいは相手の動向を把握しておくため。で、スマホを相手に見られて、あらぬ疑いをかけられた。

 閉店後、休憩室で占い師仲間を前に、椿は推理を披露した。誰が呼んだか症例報告。不定期で勉強がてら面白い事例を共有する。
「彼女がストーカー化してる可能性はないの?」
「彼女からのメッセージを何百件も放置しませんよ。それに彼女との関係に隙間風が、って言ってたので」
「風の吹きこむ隙間もないストーキングぶりなのね」
「その客は何者なの?」
「パトリシアさん興味津々ですねー」
 初来店時に片桐の応対に出た先輩占い師に、新人が切り返す。

「この私を蹴ってシェリーちゃんの方へ行ったのよ、あいつ。気になるじゃない。どうせつまらない奴なんでしょ」
 すかさず誰かが嫉妬だジェラシーだと囃し立てる。
「それが、よくわからないんです。軽いんだか真面目なんだか、変わってるのか平凡なのか。シーンが切り替わるようにイメージが安定しないんですよ」
 椿はこれまで拾い上げた片桐の断片を並べていった。

「なんか妙だね。一貫性がない」
 アネット根岸が呟いた。彼女はかつての椿の教育係だった。占い師は点を集めて線と成し、線から面を見出すのだという言葉を椿ははっきり憶えている。

「で、シェリーの見立ては?」
「企業の人事担当者、とか。確信も確証も全然ありませんけど。隙のないやり取りや質問の鋭さが面接を彷彿とさせます」
「揚げ足取られたりとかプライベート深掘りされたり?」
 横から合いの手が入る。

「志望動機とか休日の過ごし方とか訊かれました」
「それもう就活かお見合いだよ」
「お客様のことを読み取ろうとするのは大事な仕事の一環だけど、憶測だということを忘れずにね。想像を膨らませるのはほどほどにして、現実のその人と向き合うのよ」
「はい」
 アネット根岸が締めて、椿の番は終わった。報告会は続く。

 なんでこの仕事に就きたいと思ったの? 就活中はウケそうなことを適当に答えた。ここの採用では訊かれなかった。道楽の入ったオーナーはやる気と技能と話術を気にしていた。具体的なエピソードを交えて自己アピールしてちょうだい。カテリーナ黒木はそう言った。椿はほぼ常に気を回している。細々とした具体例はほとんど風化していた。頑張っていくつか絞り出した。

 小学生の頃、先生が大切に育てていた花が誰かに折られた。犯人探しの中、何かのはずみで花瓶が倒れた。いつも清潔なハンカチとティッシュを持ち女子力アピールしていた女の子が、その時はご自慢の品々を出そうとしなかった。椿はその女の子に近づいた。花泥棒はあなたでしょう。女の子のスカートからは大輪の花を挟んだハンカチが出て来た。女の子は謝ってめでたしめでたし。と思いきやそれ以降なぜか椿がうっすら遠巻きにされるようになった。

 中学一年生の終わり、担任の先生が転任することになった。クラスの主に女子たちはプレゼント選びのため、先生の好みを聞き出そうと躍起になっていた。ホームルームでの話や普段の持ち物から先生の趣味を把握していた椿は、クラスメイトの涙ぐましい努力を尻目にさっさと贈り物を買った。水筒ホルダーにもなるハンドタオル。水色で猫の柄。椿のプレゼントが一番先生の反応が良かった。手前味噌でない証拠に、カースト上位の女子数人から露骨な嫌味を貰った。

 中学二年生、学校にオカルトブームがやってきた。創立十数年なのに七不思議が生まれ、休み時間には教室のあちこちでこっくりさんや占いが行われた。波につられて椿もタロットカードを買った。運命の出会いだった。彼女の占いはよく当たるとすぐに評判になった。カードが間にあれば、プライベートに踏み込んでも不吉な未来を予言しても許された。わかってくれてありがとう、悪いことを前もって教えてくれてありがとう、と感謝すらされた。何でも知ってて気持ち悪い、縁起でもないことを言うなんて無神経、などと椿に吐きかけたのと同じ口なのに。カードは最高の免罪符。

 ブームが翳りを見せると、椿は惜しまれつつ引退した。そうか。時に仇となる過剰な観察力を生かせるフィールドを求めていた。だけどそれ以上に、占いという最高の言い訳にもう一度縋りたかったのかもしれない。
 晴れて採用され、出会った先輩占い師たちは水商売上がりや元詐欺師っぽい雰囲気のもいたが、腕は確かだった。カテリーナ黒木は案外目利きかもしれない。数人について、椿は本物の霊能者ではないかと密かに疑っている。

「タロットの絵の一つ一つには物語があるの」
 お金を取るにあたって、初めてまともに占いの手ほどきを受けた。タロットをサイコロと同等に捉えているのをアネット根岸に五秒で見抜かれ、咎められた。
「お客様の人生の物語をカードの内包する世界と重ねて、過去の伏線を読み解き現在の位置づけを明らかにし、次の展開を予測するのが私たち占い師なの」
 常に意識しているわけではないが、教えは呑み込んだ水晶玉のように今も椿の中にあり、客の行く先をうまく見通せた瞬間には導きを感じる。片桐が不可解なのは点ばかり増えて、それが一向に形を成さないからだった。
 


「そういえば最初の日、相談内容が漠然としてると占えないって言ってたけど、それは不可能ってこと? それとも単に難しいだけ?」
 出会った頃の季節が再び巡ってきたある昼下がり、唐突に片桐が訊いた。
「絶対に不可能ということはないですが、情報が少ないとぼんやりした結果になりがちです。霊視でも出来れば別ですけど。よろしければ私より上手な方をご紹介します。きっとお力になれるかと」

 片桐の声から初めて切迫感の揺らめきを掬い上げ、椿はいつになく真剣に答えた。だが片桐は申し出を突っぱね、手を合わせた。
「ぜひシェリーさんに占ってほしい。もう長い付き合いじゃないか。今更初対面の人にあーだこーだされたくない。頼むよ」
 できるだろうか。仕事や家庭のことなど立ち入った話はしたことがない。性格も把握できているとは言い難い。だが向こうはずっと椿を指名し続けている。占いはよく当たっているのだろう。胸中には自分なら彼の未来を照らせるという不思議な自信が満ちていた。しばしの間ののち、椿はゆっくり頷いた。

「やってみましょう。お望みは最初の時のように、この先についてですか?」
「うん。全部ひっくるめたこの先の人生が知りたい」
 流れ来る念にピリピリと痺れる指でカードを混ぜ、扇形に開いた。片桐が指差した一枚を抜き取ってめくる。正位置の「世界」。椿は我知らず詰めていた息を吐いた。

「これは二十一番、タロットの中で最後のカードです。すべてが調和した完全な世界を表します。ここが一区切りで、思い煩うことは消えてハッピーエンドを迎えるでしょう」
 椿は歓喜で塞がる喉から結果を迸らせた。片桐は薄く微笑んで彼女の声に耳を傾けていた。椿がカードを片付けようとすると、黙って頷くばかりだった片桐が口を開いた。

「タロットのスペアってあるの?」
「はい?」
「もしあるなら、しばらくその世界のカードを貸してもらえないかな。何ていうか、お守り代わりに」
「別に、構いませんよ」

 いきなりの頼みに面食らいながらも、椿は了承していた。カードホルダーなどないのでむき出しのまま渡した。片桐はお礼を言って手帳に挟んだ。彼が帰った後、椿は何かが抜け落ちたように欠けた大アルカナをぼんやり眺めた。大事な相棒。予備のカードは一揃いあったが、手に取る気になれなかった。一枚でも失われたらカードたちの物語は壊れてもう占えない。それなのになぜ、あんなにも気安くその一枚を渡してしまったのだろう。自分でもわからなかった。
 
 



 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?