【短編小説】初恋葬送

あらすじ

中学三年生の初夏、私は初恋を知った──
「私」は塾で他校の同級生に一目惚れをする。話しかけたりアプローチしたりする勇気はなく、ひっそり見つめて情報を集める日々。彼の新しい一面に触れたり、自分の心の揺れに気づいたりするたびに膜がはがれていくような濃密な時間。しかしささやかな幸せは卒業とともに断ち切られる。
彼と離れた後もふとした瞬間にその面影を探してしまう。そうして十年が経ち、人生の岐路を迎えた「私」は始まりすらしなかった初恋を終わらせるためにある決意をする。

一途な恋する乙女の執着、未練を引き摺る大人の純情。
言い損なった「初めまして」と行き場を無くした「さよなら」の話


(以下本文、全文)

 突然、見えるようになった。起点を飾るのはその一言に尽きる。受験生という立場が肌に馴染んできた中三の初夏。塾の小教室。そろそろ先生が来る頃かと顔を上げた時、教室に入ってきたのが彼だった。
 茶色みがかった男子にしては少し長めの髪、色白ではないけれどインドア派と分かる肌、髪と同じ色の縁の眼鏡、涼やかな目、主張の少ない口許、しゅっとした輪郭。
 授業が始まってもその全体として中性的な顔立ちは目の奥に残り続けた。後ろの方の席の剽軽者がクラスを笑わせる度に私は振り返り、発言者に目を向けると見せかけてさっきの男子を探した。
 姿を見つけると、私は数式や図で埋まりつつあるホワイトボードの隅に貼られた座席表とその位置を照らし合わせた。村橋伊央理。それが彼の名前だった。

 次の塾の日も私は機会があるごとに村橋君を視界の隅にとらえた。先生の話は割と聞き流していた。数学や理科の公式や原理は問題演習の中で呑み込んでいく。暗記系は数日かけて反復して定着させる。それが私のやり方。私は時間が経つほど欠けていく頭の中の村橋君の立体画像を修正し、補強する方に力を注いだ。そのためのエネルギーなら勝手に溢れてきた。
 問題を早く解き終えて暇になった時などはよく、なぜ今まで彼の存在に気付かなかったのだろうと考えた。私が入塾した中一の春には少なくとも彼はいなかった。あの頃は学年二十人くらいだった。それから夏、冬、春の特別講習のたびに塾生は増え、今や五十人を超える。いつの間にかクラスも成績上位半分と下位半分の二つに分かれた。
 村橋君は春に入塾した新顔なのだろうか。それともずっと下のクラスにいたのか。単に私が始業前や業間の空き時間をトイレと仮眠に充て、終わりの挨拶とともに帰り支度をするような有様だからか。
 どうであれ私は村橋君を認識するようになったし、空き時間も面を上げて過ごすようになった。目を開けて、村橋君が通りすがるのを待った。

 村橋君の断片を収集するにつれて、彼の顔以外のパーツもひとりでに組み上がっていった。
 まず服装。どうも彼はお洒落に興味がないらしく、コーディネートが三パターンくらいしかない。しかも揃いも揃って黒が基調。
 次に交友関係。少なくとも塾内に仲の良い人はいないようで、誰かと話しているところを見かけない。本人も特段人恋しげでもなく、淡々と来ては静かに授業を受けてすっと帰っていく。
 それから体格。身長は平均くらいで痩せ型、というより華奢。彼の腕を見た後だと、十年もの間細い細いと言われ続けてかすかに誇りを抱いていた自分のそれがまるでフランスパンの如く映った。
 最後に雰囲気。顔立ちそのものはまあ男子だとわかるのに、どうしてか女性性を醸している。ある時ふと気づいた。耳だ。男は年代問わず耳周りの毛をしっかり刈っている。一方村橋君は耳が髪に隠れている。うっすら存在が透ける程度にその辺を梳いてあるけれど、輪郭がつかめるほどじゃない。

 情報の咀嚼や整理のたびにいちいち頭の中で村橋君村橋君と繰り返すのが面倒になってきて、私は自分だけの呼び名をつけることにした。そうすれば何かのはずみで彼の名前を口走ってしまう心配もない。
 地理を一コマ潰して私は彼のなけなしのプロフィールを漁った。村橋君も一人の人間だから、当然個性はある。でも敢えて取り出して全体を代表させるに足るほど濃いあるいは尖ったものはない。
 悩み抜いて迎えたラスト一分、私は手持ちのカードを投げ捨てた。もう使えるものは名前しかない。下の名前は多分「いおり」と読むのだろうけど合っているのか自信がない。呼び慣れた名字の方をもじる。今日はこれでおしまい、という若い先生の号令と同時に村橋君は「ラッシー」になった。

 あだ名が生まれた瞬間、私の中のお気に入り部屋にラッシーのための区画が生まれた。そこにはラッシーの立体模型が端座し、壁には棚が作りつけられている。棚の一部にはこれまで集めたこまごましたものが陳列され、残りの空白はこれから運び込まれるものを待っている。
 塾だけでなく学校や家でも、私は時々そこに潜り込んでファイルをめくったり模型を眺めたりした。記憶が頼りのコピーはところどころぼけたり欠けたりしていた。肋骨の隙間を冷たい風の吹き抜けるような日は、彼の背中のジッパーを開けて保管庫の中の適当なものを注ぎ込んだ。
 ニックネームをつけてからの私のひたむきさは自分でも意外だった。ニックネーム、愛称、愛。そうだ。私は恋をしているんだ。式を目の前に差し出されてもすぐには呑み込めない。実践の中で理解していく。その癖は学業でだけのことじゃなかったらしい。恋の自覚が生まれた時には夏期講習が始まろうとしていた。

 短パンからあらわになったラッシーのふくらはぎは子持ちじゃないシシャモみたいに細く、骨っぽかった。私の脚のシシャモにはちゃんと卵が詰まっていて、男女の差をこれでもかと伝えてきていた。
 痩せと一括りにしても、男と女とでは印象が違う。女は贅肉も筋肉もない一本の棒のような手足が良しとされる。だがもし男がそんな体型だったら病気を疑われる。男子には骨を薄く筋肉で包むことが求められる。ラッシーはぎりぎり美の側に立っていて、それが中性的な容姿と相まって絶妙な危うさを孕んでいた。
 夏服も黒系が三パターンくらいしかない彼にそんな自覚はなさそうだったが、そこがまた好ましい。それに私は黒の魅力にも気づいていた。ラッシーのビターチョコ色の髪と生食パンの耳みたいな肌を黒は嫌みのない程度に引き立てるのだ。すれ違った時だけ鼻をくすぐる香水のように。

 受験の天王山と称される夏期講習が始まっても、拘束時間が長くなったこと以外、私の塾ライフは変わらない。登塾して授業を受け、ラッシーを観察し、小テストを受け、宿題を持って帰る。
 私も塾にあまり喋る相手がいない。だからたいてい一言も発さず家へ帰る。ラッシーもそう。だから私は板書する彼の横顔や教室を去る背中に無言で問いかける。これは一目惚れですか? 誰も答えてくれるわけはないから、自分で返事をする。多分ね。初めての一目惚れ。これが恋というものですか? 多分ね。初めての本当の恋。

 幼稚園生の頃、カニカマが大好きだった。カニは高級品でカニカマはそれを真似たものでしかないと知ってはいたけれど、ほとんど同一視していた。そんな子供心はある年のお正月、親戚の家でご馳走になった本物のカニに打ち砕かれた。今でもカニカマは好きだけれど、あの一口で褪せた輝きはもう戻らない。
 それと同じようなことなのだろう。
 これまで何度も恋をしたことはあった。気になっている子が近くにいるとドキドキしたし、友達と意味なくキャーキャー騒いだ。でも振り返ってみると、それらは勘違いでしかなかった。

 男の子と仲良くなりたいと願うことは十歳くらいまではたくさんあって、自分は惚れっぽいんだと思っていた。勝手に思い込んでいたわけじゃない。誰々君と一緒に遊びたい、と言えば親はおませさんだなんてニヤニヤしたし、友達は好きなんだ―などと冷やかしてきた。
 誰も彼も異性に近づきたいイコール恋として扱ってきた。だから私もそれが当然と受け止めていた。ラブという響きが大人っぽくてちょっと浮ついてもいた。

 十五歳、ラッシーを前にしてやっとわかった。あれはただ純粋に素敵な子と友達になりたいだけだった。そもそもあの年代では男女の別自体さほど確立していなかった。その人が目の前にいようがいるまいが気になって仕方ない。それなのに気を引いたり話しかけたりなんてできやしない。
これが本当で初めての恋だ。ノートに世界地図を、お気に入り部屋のファイルに最前目にしたラッシーの様子を書きつけながら、私は過去を壊す勢いで叫んだ。
 


 ラッシーはよく頬杖をついている。指の下半分から付け根の甲側を顔に当てている。軽く曲げられた手の形が優美だ。いつまでも視界に入れておきたいが、教室の笑い声がおさまったら頭の向きを前へ戻さなきゃいけない。説明文の要旨の解説を聞きながら、頭の中の模型に机を与えて頬杖を再現させる。
 
私の塾では、席順は直前の模試の成績で決められていた。どの教室も前方にドアがあり、最後列のドアから一番遠い角が王座。そこから二位三位と順に横へ並ぶ。端まで来たら一列前で同じように壁側からドア側へ。
 ラッシーは上位三割くらいの成績で、上位クラスの真ん中あたりにいる。お調子者数名は後ろの方にいて、眼鏡があっても近眼の私は順位に関係なく下座に釘付け。つくづく良い配置だ。
 以前から面白発言があればその大本に目を遣る癖が私にはあったので、片目をラッシーに置いていても誰にも怪しまれない。まあ私のことをそんなによく見ている人なんていないけど。

 ラッシーは左腕で頭を支えたまま右手でノートに文字を書く。肘やペンケースを重石にせずともノートは動かないみたいで、ラッシーはさらさらとシャーペンを走らせる。筆圧が弱いのかもしれない。

 夏期講習の目的はこれまでの総仕上げと躓きやすい単元のおさらいなので、ここまでしっかり歩いてこられた人には割と退屈だ。ラッシーも余裕ができたんだろう。ペン回しをやりだした。
 初めてだからか三回に一回はシャーペンが机に落ちる。失敗しても彼は気にしない。眉一つ動かさずペンを持ち直してまた回す。
 継続は力なり。塾の先生も学校の先生も親も言う。言われるがまま勉強の意義もわからないまま机に向かううちにそれが習慣となり、今の私がある。
 勉強に限らず何事も反復すれば上手くなる。ラッシーのペン回しは日増しに上達した。二週間足らずで親指と人差し指のところにあったペンがスラロームのように四指の間を八の字走行し、小指側で折り返してまた人差し指のところへ戻ってくるようになった。
 どこの筋肉をどう動かしたらペンがそういう虫みたいに行ったり来たりするのか。凸レンズを通った光の屈折も円周角の定理も理解できるが、これは皆目見当がつかない。それなのにラッシーはやはり涼しい顔をしている。自分の手がそんな大技を連発していることに気付いてすらいないかのように。ペン回しの原理よりそっちの方が不思議だった。
 


 久しぶりの学校は信じられないくらい暑かった。水道からの冷水がビーカーに汲んだそばからぬるま湯になる。冷房に慣れきった体は既にぬとぬとで、私は汗を拭うのを諦めていた。
「なんで受験生も自由研究しないといけないんだろうね。勉強に専念させてほしいよ」
 何度目かわからないぼやき。隣でガスバーナーの火を調節している後輩男子の答えも同じ。
「三年生の方々にも苦しんでもらわなきゃ不平等ですよぉ」

 お盆休みでも受験生は立ち止まることを許されない。自由研究のために数日限定で開放された理科室で、三年生に夏休みなどないという教師や先輩や塾講師らの言葉を噛み締めていた。
 試薬も器具も豊富で先生にも頼り放題という恵まれた環境。さぞ人も多かろうと予想していたが、私と後輩以外に利用者は数人しかいなかった。科学部所属の私や後輩君にはホームグラウンドだが、他の人たちには抵抗があるのか。はたまたお盆にまでせかせかする必要がないからか。レモンを絞る手に自然と力がこもり、汁が派手に飛んだ。

「何やってんすか……」
「いろんな花の絞り汁にレモン汁とか石灰水とかかけて色の変化を見てる」
「そうじゃなくて、汁がブシャッて」
「ごめんごめん」
「じゃあ代わりに面白い話してください」

 塩やミョウバンの大きな結晶を作ろうとしている後輩は、溶液の水分が飛ぶまでやることが無いようだった。私は塾で見聞きした珍回答から最近した雑談の中で印象に残ったものなどを適当に引っ張り出してはピペットを扱う傍ら隣へ提供した。もう熱気は感じられなくなっていたが、怠くて怠くて手と口を止めたら溶けてしまいそうだった。
「そういえば塾で近くの席にね、よくペン回ししてる人がいたの。で、なんとなく気になって見てたらどんどん上達してさ。余計気になって、つい見ちゃう」

 ネタが尽きてきた私はそんなことまでこぼしていた。しまった、と後輩の様子を窺う。彼は眠そうに何回か頷いて、しみじみ言った。
「それは恋なんじゃないですかね」
 続きを待ったが、彼の意識はやっと析出した結晶に向いているようだった。恋なんじゃないですか? 恋だよ。恋をしている私はどうしたらいいんだろう。

 勉強に集中したらどうですか、って冷たい視線を送ってよ。それか告白しちゃえば、って冷やかしてよ。道標になるから。

 じくじくと脳みその煮えるような感じがして、私は無性に後輩の実験にケチをつけてやりたくなった。けれども蒸発皿の上の種結晶は見事で、私は黙るしかなかった。
 


 夏期講習の最終日はテストだった。一週間前に受けた正式な外部模試は学籍番号順の座席だったが、今回は塾内だけの試験で、前回の模試成績順。ホワイトボードを注視する必要がないので私は本来の位置、最後列の真ん中でふんぞり返っていた。
「お、柏木さんどうしたの? なんか偉そうに腕も脚も組んじゃってさ」
 同じ中学の男子が目ざとく私を見つけて近寄ってきた。

「滅多に来られない場所だから満喫しておこうと思って」
「そっか。いいよな一番後ろ。俺いつもぎりぎり入れないんだよ」
「いいじゃん。三島君はイケメンだしスポーツできるんだから」
「いやあ、照れる」
「そこは謙遜してこそ真のイケメンでしょ」

 三島君がかっこいいことはみんなが認めるところだ。性格も雰囲気もひっくるめて青春ドラマの爽やかなスポーツマンという表現が似合う。身長的にも人気的にもラッシーを隣に並ばせようとは誰も思うまい。だけど私はラッシー相手に軽口を叩くことはおろか、接点を作ることすらできないでいる。三島君になら出来たのに。
 いつもと違うアングルから見るラッシーもやはり趣深かった。国語の終了間際、後頭部をくしゃくしゃとかき乱すしぐさはまさに眼福で、髪に残った焦りの名残も、喉のあたりがきゅっとなるほど愛おしかった。

 夏が過ぎて外の空気が冷えると、高まる一方の塾の熱気が際立った。追い込みとは大人たちの仕掛ける発破を背後に、つるつるの急斜面を駆け上がるようなものだった。立ち止まった瞬間、滑落するか爆発に巻き込まれるか。目標地点に辿り着くには苦しかろうが辛かろうが足を踏み出し続けるしかない。
 他の最後列組と一緒に県内トップの公立を第一志望に据えた私は他の人と目指す高みが違う。ラッシーを子細に観察する余裕は日一日と削られていった。お調子者も鳴りを潜め、最前列の私の指定席あるいは特等席から教室中ほどを振り返る機会も失われた。

 この時期のラッシーに関して憶えていることは二つだけ。
 二学期の中間テスト辺りで理科の先生が、どこの中学はもう終わったとかあそこはまだだとか喋る中で「I中は遅くてあと一週間も先なんだよな……。I中から来てるのは村橋君と柴田君の二人だけだったっけ」と言った。
 名指しされた二人からは肯定も否定も聞こえなかったが、先生はそっか、と腕を組んで呟いた。どっちか、あるいはどちらもが頷くか何かしたんだろう。
 I中の名前は知っているが、私の地図には載っていない。そんなところから入塾試験の難しいことでちょっと有名なこの塾に来ている二人はI中では秀才で通っているのかもしれない。それにしても、たった二人の中学仲間なのに交流が見られないのが不思議だ。

 二つ目は冬頃。英語長文の授業の最後、問題文の全文訳をするよう先生が指名したのがラッシーだった。そこで私はラッシーの声を初めてまともに聞いた。
 これまでも何度かラッシーが先生に指されて問題に答えることはあったが、一文字で済む選択問題だったりホワイトボードに記入する形式だったりして、その度に私はがっかりした。

 念願のラッシーの長台詞は酷いものだった。まず声が低い。中性的な容貌に似つかわしくない、声変わりのすっかり済んだバスボイス。しかも自信の無さからかぼそぼそ喋るので聞き苦しいことこの上ない。おまけに日本語訳も拙くて、先生に解説ちゃんと聞いてたの、と突っ込まれていた。私はなんだか居たたまれない気分で五分弱をやり過ごした。
 ぬかるみを這うような声がプリントの最後まで行き着くと、私は耳に残ったものを箱に詰めて厳重に封をし、「二度と声を聞こうと思うべからず」と大書した紙を貼り付けた。

 出願、受験、発表のサイクルを私立と公立で二ラウンドくぐり抜け、私は志望校合格を果たした。
 各高校の合格者名は廊下にずらりと掲示される。ラッシーは私より二ランク下の公立の理数科といくつかの私立に受かっていた。多分公立に進学するだろう。偏差値も一番高いしそれがセオリーだ。壁を汚す名前の群れの中で、村橋伊央理の五文字だけがやけによそよそしかった。

 最後の塾の日に先生が撮ってくれた集合写真でラッシーを探した。申し訳程度の笑みを浮かべる彼と喜色満面の私とは、互いに腕を伸ばしても届かないほど離れていた。これが私たちの、いや私の片思いの距離かと妙な実感があった。
 初恋の終わりだというのに感慨も悔恨もなかった。何も行動を起こさなかったのだから当然の帰結だ、という諦念のような納得のような石がスポンと胸にはまっていた。
 


 卒業とは要らないものや古いものを振り捨てて新しい世界へ飛び立つこと。そう思うのはみんな同じらしい。春休みにスマホを機種変してアドレス変更メールを登録してある全員に送ったところ、返信があったのは約半数だった。四分の一からはスルーされ、残る四分の一は宛先不明で戻ってきた。
 初めて入った高校の教室は知らない顔だらけで、息を吐けるどころか、爪を引っかけられる場所すらなかった。
 そんな刷新されたはずの環境で、私はまた見つけてしまった。

 さらさらの茶色みがかった髪、品の良い眼鏡、楚々とした細面、しなやかそうな痩身。もちろんラッシーではない。ここにも座席表はあり、それで名前が分かった。安野俊哉。
 出席番号順の自己紹介で彼が教壇に立った時は凝視したし、ホームルーム後は喧騒の中にその姿を求めた。これでは何がリセットかわからない、と天を仰いだはずの目は次の瞬間、薄汚れた天井から安野君の方へ移ろうとしている。
 泣きたいような嬉しいような鼓動を抱えて、どの科目もオリエンテーションに終始する最初の一週間をやり過ごした。

 安野君はとにかく溌溂としていた。元サッカー少年で高校では陸上をやりたい、とは最初の挨拶で聞いた。その声は中途半端に高くて、良く言えば親しみやすく、悪く言えば軽薄に響いた。
 その後工芸の時間に「三時間でクラス全員の顔と名前を一致させた」と自慢げに語っているのを耳にしたり、いろんな人とすぐに打ち解けているのを眺めたりしているうち、私の髪を引く力は次第に弱まっていった。クラスに一人はいる友達にしたら面白いタイプだと感じるにつれて、人間としての魅力はいざ知らず、惹きつけられることはなくなった。
 秋の文化祭の準備では同じ外装担当になったが、分担や進捗について気安くやり取りできたし、並んで模造紙を塗っていても毛先やスカートの裾に神経が通うことはなかった。
 
 私は中学からの流れで高校でも科学部に入った。化学部や生物部、地学部もあったのだが、やりたい分野がなかったので「何でもできる」という勧誘文句についていった。
 ロボットを作ってコンテストを目指す人、斜面の摩擦を測定する人、宿題をやる人、テレビのショーみたいな実験をする人。看板に偽りはなく、私は余計に何をしたらいいかわからなくなった。
 手近にいた先輩っぽい男の人に話しかけたら同級生だったので本当に何でもアリかと驚いた。却って肝が据わって、やりたいことが見つかるまで面白実験を繰り広げる先輩のもとで、昔真面目にやらなかった自由研究のやり直しをすることにした。

 二年生の夏、先生から高校生理科研究発表会に出ないかとお声が掛かった。年一回、県内の理系高校生たちが日頃の研究の成果をお披露目する場で、前年先輩方の発表を見に行った覚えがあった。
 私を含む部の常連ほぼ全員、といっても七人が参加を決め、各々自分が設定したテーマに取り掛かった。見切り発車で発表タイトルと概要を提出してしばらくすると、プログラムが送られてきた。小指くらいの厚さがあって思わず、分厚いですねと漏らしたら顧問の先生が笑った。

「スーパーサイエンスハイスクール認定校や理数科のある学校は暗黙のノルマがあるからね。結構な人数が駆り出されるんだよ」
 理数科。ラッシーも確か理数科に進学したはずだ。プログラムをゆっくりめくっていく。生物のセクションに忘れようもない五文字、彼の名前があった。

 発表の準備は思うようにいかなかった。
「このままじゃ間に合わないかもしれない」
 そう何度も思ったし、実際周囲に言いもした。部活仲間は優しくて、相談に乗ったり労ったりしてくれた。どうにか形になったものの、直前になって急に不安が押し寄せてきた。

「これでいいんでしょうか」
 部員の前での発表練習後、仲の良い先輩にこぼした。
「別に、これで十分だと思うよ」
「でも」
「納得いかないなら、供養だと思えば? 無残にポシャった研究が浮かばれるようにみんなの前で紹介してあげるの」
 供養。その単語は素晴らしい薬になった。供養。口の中で繰り返すと、気分の凹んだところにぴったり寄り添ってくれる感じがした。

 発表会当日、示説時間の終わりを告げるアナウンスとともに私はポスターを片付けた。これでこの日の私の仕事はおしまい。発表は午前の部と午後の部の二つに振り分けられ、暇な方の時間には発表者も他の人たちの話を聞きに行くことができる。午前のグループだった私は、もうお客様としてイベントを楽しめばよい。
 私は外のベンチで持参した弁当を食べながら、既にくたびれつつあるプログラムをもう一度開いた。午後の部に、そしてラッシーとの再会に備えるために。

 午後一番、会場が開かれると私は真っ先に部員仲間のもとを回って、適当に賑やかした。もじもじする奴には質問を投げかけてもっと困らせてやる。数時間前にやられたことのお返しだ。
 空疎なハイテンションに嫌気が差す前にどこかの先生や他校の生徒がやってきたので、迷惑なサクラは退散する。
 総演題数約三百。午後の部だけでも百五十。それがいくつもの小教室とそれを繋ぐ廊下にひしめき合う。私はわざとあちこちさまよった。胸がどきどきして、腹の中の米が心臓とともに口から出そうだった。

 午後の部の折り返しに来てやっと覚悟を決め、私はラッシーのいるらしい教室の入り口に立った。中は私のいた場所と同じく衝立で三列に区切られていて、その前にポスターと発表者がへばりついている。
 戸口から見える前列にラッシーはいない。ゆっくりと生物カテゴリー五の部屋へ踏み入る。ラッシーは塾のかつての席と同じあたりにいた。

 中三の時、一目惚れを教えてくれたラッシーは、今度は「もさい」という形容詞を全身で体現していた。こんなに毛量多かったっけ。何の加工もしていない制服をどう着たらこんなに陰気になるんだろうか。むしろこれが外見に無頓着な理系のステレオタイプなのか。外には出せない呟きをこねくり回しながら歩く。
 胸に詰まった風船の空気はまだ抜けない。所在無さげに佇むラッシーの前をさりげなく、さりげなくと舌先で唱えながら通り過ぎ、二つ先のポスターの前で足を止める。

「発表お願いします」
 すんなり言葉が出た。ラッシーと同じ制服の、デフォルメしたグレイ型宇宙人にちょっと似た男子は、ぱっと笑顔になった。

 身振り手振りを交えた宇宙人君の話は面白かったが、ラッシーの前に初老の先生が来ると私の意識はそちらへ滑っていった。ラッシーの声は相変わらず低くてぼそぼそしていて、古い歯車みたいだった。
 結論まで述べ終えた宇宙人君にあれこれ質問して話を引き延ばし、初老の先生がラッシーのところを去るまで私もその場に留まった。

 帰り道、引率の顧問の先生や駄弁る部員仲間の後ろを私はとぼとぼついていった。自分の発表が遠い昔の夢みたいだった。この会での私の一番の関心事はラッシーとの再会だったのだと、改めて突き付けられた思いがした。
 もう一度会って、私はどうしたかったんだろう。ラッシーにどうなっていてほしかったんだろう。

「いち抜けぴー」
 甲高い叫び声が物思いを引き裂いた。いつの間にか右手には公園があり、子供が三人走り回っていた。
「に抜けぴー。鍵閉めた!」
「さん抜けぴー」
「駄目だよ。鍵閉めたから出られない」

 いち抜けぴー。真似して唇を動かす。駄目だ。私は出られない。最初から私は一人で遊んでいた。独り相撲。独り芝居。ルールもゴールもない滅茶苦茶な一人遊び。私が私から逃れられない以上、私はこの遊びをやめられない。

 翌年は一見学者として発表会に行った。プログラムにラッシーの名前はなく、生物系のエリアを徘徊してもそれらしい人影に出くわすことはなかった。
 その春、私は高校を卒業して地元の国立大に進学した。高校も予備校も違う人の進路など知る術はなく、それきりラッシーの足取りは途絶えた。
 


 茶色みがかったサラサラの髪。真面目そうな面差し。焼けていない肌。華奢な体つき。眼鏡。それが私の好みのタイプだったということなのだろう。
大学には、すれ違いざま私の心を波立たせる男が何人もいた。揃いも揃って五条件を満たす彼らは、英語のクラスが一緒の他学部性だったり、専門科目を受け持つ助教だったり、研究室の先輩だったり、生協書店の店員だったりした。グループワークで、講義で、ゼミで、お会計で、私は彼らと束の間の関わりを持った。
 不思議なことに、彼らの内面を知れば知るほど人間的な魅力の程度によらず、ときめきは減っていった。

 十五歳の時、幼稚園や小学校低学年の頃の恋を勘違いだと断じた。同じように二十を越えて振り返ると、ラッシーへのいわゆる初恋がいかに自分勝手なものだったかわかる。
 ラッシーの立体模型は今も頭の片隅に鎮座している。あの時の、いちばん美しかった頃の姿のままで。だって、それこそが私の本当に愛したものだったから。
 無口で消極的なラッシーは最高の入れ物だった。窺い知ることのできない内面には、何だって好きなものを詰め込むことができる。人形に理想の血肉を与えることはしなかったけれど、その気になればいつでも塗り潰せる空白を私は慈しんだ。
 大学で見つけた四人の男のうち、誰が一番ラッシーに似ていないかといえば、断然書店員さんだ。でも、同時に誰に一番惹かれるかと問われても、私は書店員さんだと即答する。

 そこまで分かったところで、ラッシーに再会した高校生の私の抱いた疑問にはやっぱり答えられない。どうしたら過去を過去にできるのか。
 ラッシーに恋人ができるか、すっかり落ちぶれるか、手の届かないくらい立派な人になるか、幸せな家庭を築くか、あるいは死ぬか。はっきりしているのはクリア条件が私の側にない。
 ラッシーは今どうしているのか。友人を介して、とか、道端でばったり、とかそんな偶然あるはずがない。

 卒論や就活が現実の脅威として迫ってくると、いつかのように男に現を抜かす暇はなくなった。就職して一人暮らしを始めたら始めたで、新しい環境への順応に手一杯で、部屋をきれいに保つ余裕すら失われた。お気に入り部屋も荒れ果てた。そうこうするうちに三年半が私のもとから駆け去っていた。

「今度、パート仲間の金子さんとランチ行くんだけど、あんたも一緒に来ない?」
 ある日、四捨五入すれば三十の娘の世話を焼きながら母が言った。
「え、なんで? 私が居ても邪魔でしょ。二対一なんて」
「大丈夫。向こうも親戚連れて来るって言ってたから。むしろあんたが来ないと一対二よ」

 察するところはあったが、タダ飯の誘惑に負けた。母について入った隠れ家風の小洒落たレストラン。こちらに手を振る人の良さそうなおばさんの隣には案の定、若い男が座っていた。
 互いの子供を引き会わせて、うまくいかなかったらどうする気なのだろう。味のないものをドカ食いしたみたいに重くなった胃を抱えて、私は母と席に着いた。もちろん金子さんと母、男と私が対面だ。

 母の紹介に合わせてぎこちなく挨拶する。私の表情があまりにもかたかったのか、男は一瞬えらく気まずそうな顔をした。彼は坂本と名乗った。私より一つ上で、金子さんの息子ではなく甥とのことだった。関係が想像より遠くて、少し胃が軽くなる。
 坂本はのっぽで地味な目鼻立ちをしていた。ほくろが少し目立ったが、例えば指名手配の時に使えそうな特徴はそのくらいで、煮込んだら私の注文したスープよりもあっさりした一品ができるのだろうと思った。

 いつ料理を口に運んでいるのか疑問なくらいよく喋り、笑い、手を叩く母らの横で、私と坂本は素性や近況を当たり障りなく交換した。坂本は割と話しやすく、食べ方もきれいで好感が持てた。
 全員の皿の上とおばさんのトークのストックがはけると、お開きになった。私たちはお辞儀をし、母たちは手を振り合って別れた。

「どうだった?」
 帰りの車の中で、母が待ちかねたように訊いた。
「何が?」
「坂本君よ」
「感じ良い人だったね」
 嘘ではなかったが、連絡先を教え合わずに済んで安堵している自分がいた。
「また会いたい?」
「別に」

 私もそういう歳になったのかと、ラジオの細く流れる車中で過ぎた月日を手繰った。中学高校大学を順調に卒業し、仕事も大抵のことは一人でできるようになった。まだ月に一、二回母が掃除を手伝いに来るが、最近では私の尻拭いの三倍の時間を心の掃除という名の愚痴の垂れ流しに費やす。
 立場も、化粧も、周囲の人間も、眼鏡も、鞄の中身も、ふとした瞬間に口ずさむ歌も、カーテンの色も、朝のルーティーンも、嫌な奴への対応も、いろんなことが少しずつ、あるいは急激に、ある時を境に、または我知らず変わっていた。

 過去の影が現在に落ちている部分があるとすれば、それは恋愛面だ。ラッシー似の男性を観測すれば目で追い、関わって人となりを知るか自然と離れるかして興味を失う。飽きるほど繰り返した。
 かつては希望であり支えであり楽しみであったはずの初恋が、今や呪い、足枷、障壁となり果てていた。
 どうにかして、約十年越しの初恋にけりをつけなくてはならない。

 手始めに、ラッシーの本名をネットで検索してみた。姓名判断サイトがいくつか引っかかった。それだけ。一般人ならこんなものかと自分の名前を試しに打ち込んだら、大学四年の時に参加した学会のポスター発表の演題がヒットした。と、なるとラッシーは大学時代に学会で発表したことがなかったのか。高校の偏差値から、大学進学しなかったとは考えにくい。私の捜索は早々に行き詰った。
 
 *******
 
 素人にできることなどたかが知れている。私はプロに頼ることにした。ネットで人探し業者を調べて、何社かに問い合わせメールを送った。手持ちの情報が氏名、性別、年齢、出身中学と高校、わずかな身体的特徴だけであると告げて見積もりを取り、一社を選んで依頼した。
 ずっと足踏みをしていた人間がいきなりフルスロットルになるなんてと自分でも可笑しいが、今動かなければ一生動けないような気がした。十年以上放置してきたのだから、やりすぎくらいがちょうどいい。

 一か月ほどで調査の結果が出た。
「まず、対象者様の出身中学校の当時の学区にお住まいの村橋姓の方を片っ端から探しました」
 雑居ビルの一室にある探偵事務所で、女性所員は淡々と語った。
「三世帯見つかった村橋さんたちの家族構成を調べたところ、条件に合うのは一世帯だけでした。ですのでそのお宅を交代で見張りました。そうして対象者様らしき方を発見しました」

 ラッシーは隣県に住んでいて、実家には時々帰ってくるだけらしかった。なんとなく彼が実家住まいじゃなかったことが嬉しかった。貴重な帰宅時を押さえられたのもラッキーだった。
 私はガラステーブルに広げられた報告書を手に取った。勤め先は中堅食品メーカーの商品開発部。職場の近くのアパートで一人暮らし。交際相手なし。
 長い間、記憶の奥底にしまい込まれていたファイルの埃を払って書き足していく。歓喜か不安か、指が震える。何気に目を遣った腕時計の針が私の瞳の中だけで、遅れを取り戻すみたいに先へ先へと回る。

「それで、いかがなさいますか?」
「えっ……あ、銀行振り込みと伺っていますが」
「いえ、調査費のお支払ではなく。このあと柏木さんがどうなさりたいかです。対象者様にお会いになりたいですか? 当社ではご希望があれば再会のセッティングも請け負っております。もちろん追加料金はいただきますが」

 大人になったラッシーと会う。探偵に捜索を頼んでおいて今更もいいところだが、私はけりのつけ方を全く考えていなかった。縋るように所員さんを見つめたが、仕事用の仮面をつけた彼女は何のヒントもくれなかった。
 私は予想外の申し出をとりあえず保留にし、サービスの資料と報告書一式、請求書を受け取って事務所を辞した。

 再会のお膳立ては、所員が事のあらましを伝えたうえで、私に代わって相手の意向や予定を確認してくれるというものだった。私は「初恋の人ともう一度会えました!」の文とともに、笑顔で手を繋ぐ男女のイラストが載るパンフレットを破り捨てた。
 私とラッシーには中学時代に同じ塾だったという接点はあるが、接触は皆無。こっちを認識すらしていなかったであろう相手に私はどう自己紹介すればいい? 一言も交わしたことはありませんでしたが一目惚れして早十年、どうしても忘れられず……なんてストーカーだ。不審者だ。

 どうにかして新しい接点を作りたい。私は藁にも縋る思いでマッチングアプリをインストールし、嘘のプロフィールを登録した。希望条件は調査報告書を読み返して、ラッシーに繋がりそうな感じに設定した。
 同時にいくつかのSNSのアカウントを取得した。全世界に発信出来る大手から、ラッシーの住む地域のコミュニティサイトまで。手当たり次第に潜り込んだ。

 マッチングアプリからのサジェストを捌き、ラッシーのいる会社の名前や商品でSNS投稿の検索を掛けたりしたが、一向に本命は現れなかった。
 ほんの一時の姿しか知らないけれど、私にはラッシーが自分を偽るタイプだとはどうしても信じられなかった。どれもやっていないのかと諦めかけた頃、地域BBSでそれらしいユーザーを見つけた。
 ログインしないと書き込めないタイプの掲示板で、誰がどんな書き込みをしているのかわかるのが幸いした。塾の話題で、その人が通っていたと言っていたのは、私とラッシーが出会った場所に他ならなかった。
 最初はまさかと思ったが、アカウント名がもろ名字で、子供のころ住んでいた地域やアカウント情報の年齢も一致していた。ネットで男を漁り始めてから、三ヶ月が経とうとしていた。

 珍しくその会員制掲示板にはダイレクトメール機能があったので、三時間悩み抜いた挙句、覚悟を決めてメッセージを送った。私の方はでたらめの名前で歳も一つ下にしていたので、とりあえず同じ塾の後輩を装った。
「はじめまして。私も同じ塾に通っていました。教室数が少ないせいか、身近に仲間がいなくて……。つい嬉しくなって連絡しちゃいました。ご迷惑だったらごめんなさい」
 送信ボタンをタップすると、指先から体中の血が抜けたみたいにくらくらした。ベッドに腰かけていたので、そのまま後ろに倒れこむ。スマホがお腹の上に落ちる。
 空っぽになった手を強く握りしめる。そこには、一本の藁がしっかりと掴まれていた。私はこれを手放すわけにいかない。これを綯って未来へ繋がる縄にしなければ、私は永遠に過去の濁流の中だ。閉じた瞼の裏で、置き去りにされたものたちが溶け合って渦を巻いている。

 腹の皮がびりりと震えて、私を薄暗い部屋へ引き上げた。さっきまでオレンジを帯びた日光が差していたはずなのに。釈然としない気分で取り上げたスマホを点けると、その照度に目が眩んだ。もう一度画面をよく見て、今度はめまいに襲われた。ラッシー(らしき人)からの返信だった。
「ダイレクトメールなんて珍しいので少し驚きました。迷惑なんかじゃないですよ。こっちも周りに同じ塾の出身者がいないので話ができるのは嬉しいです。変わった先生多かったので時々思い出して誰かと共有したくなるんです。よければまたメールください」

 友達になりたい同性との距離の詰め方なら、ある程度体得している。職場で男性と打ち解ける方法も、社会に出て覚えた。でも意中の人とどう接したらよいかはアラサーの今もわからない。少女漫画や恋愛ドラマに興味がなく、ほとんど履修してこなかったのが悔やまれてならない。
 ネットで例文やモテテクを検索して参考に文面を練り、考え過ぎてぐるぐるする頭で返事の返事を送信した。自分がつくづく面白くない女だとわかる。
 ラッシーの文章もどこかかたくて、こういうのに不慣れなんだと感じさせた。きっと向こうには私のメッセージが同じように見えているんだろう。

 現代の若者からしたらじれったいほどゆっくり、でも手紙よりは若干早いくらいのペースでやり取りは続いた。趣味やお勤めのことを、直接聞くことができた。初めて人間がそこにいると感じた。偽りのプロフィールが並ぶ自分のアカウント情報に、時折胸が苦しくなった。
 私は空いた時間に次の話題を考えたり、可憐な花やきれいな景色の写真を撮ったり、ラッシーのいる会社が作っている商品を味見したり、ラッシーが好きだという漫画を読んだりした。
 母にこの先のことを問われたり、友人に休日の過ごし方を訊かれたりした時の答えはいつも決まっていた。仕事と家事で手一杯! でも時間というのはその気になればいくらでも作れるのだ。ラッシーからまた一つ新しいことを学んだ。
 


 ある朝、ラッシーからメールが来た。前回のに返信する前だったので、どうしたのかと独り言ちながら開いた。
「うちの会社の商品、家にある? あったら絶対に食べないでください」
 切羽詰まったものが感じられて、わかった、とだけ急いで返した。

 何があったのかという疑問は数日のうちに解けた。ラッシーのいる会社が不祥事を起こしたのだった。生産工場の機械の清潔保持や製品の温度管理に問題があったらしい。
「家にあったものは全部処分しました。少しだけだったし、返金手続きとか面倒だったので、普通に捨てちゃいました」
「ご迷惑をおかけして誠に申し訳ありません」

 どこへ行っても視界の端や小耳にそのニュースが引っ掛かるので、数日のうちに私は飽きていた。不衛生食品は以前から私の口にも入っていたようだが、どうでもよかった。私の気がかりは一つだけ。
「あなたが謝ることじゃないですよ。私は全然元気だし。それよりそっちの方は大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃなさそうです……」
 その食品会社の株が暴落したと、投資にはまっている同僚が嘆いていた。ほどなく行政から何らかの処分が下るだろう。

「この後のことは何か考えてるんですか? ……って私が訊いちゃっていいですかね」
「転職を考えてるけど、うまくいくかどうか」

 私はすぐさま高校時代の同級生にメッセージを送った。
「この間話してたクラス会、やっぱり私も参加していい? 予定がなくなったの」
 すぐにOKの返事があった。私は凄まじい引力を感じていた。ラッシーの部署は今回の件と無関係だから、案外影響は少ないかもしれない。あるいは会社の経営が悪化して大量解雇に巻き込まれるかもしれない。

 どちらにせよラッシーの人生だ。私は観察して情報を集めるだけ、だった。ティーンエイジャーの頃は。今は自分のことのような焦燥と、彼に蝋燭の一本でも渡したいような熱情が肌を焼いていた。
 高校の同級生に物凄くマメな奴がいて、毎年クラス会を開いている。五年とか節目の年だけで十分なんじゃないの、という声もあったが、頻繁に開催した方が一回一回が重くならなくて良い、というのがそいつの弁だった。その分皆、気軽に出席も欠席もしていた。

 十五人くらいしかいない宴席で、誰かがテーブルを移動するたびに私は幹事へとにじり寄った。
「久し振り」
 どうにか隣へ辿り着き、声を掛ける。
「おひさー。柏木さん来るなんて珍しい」
 酒が入った幹事の顔はトマトのようだった。

「なんか急に皆の顔が見たくなって。そろそろ人脈も欲しいし」
「コネやツテはいくらあっても困らないからなぁ。必要なのか? その、仕事とかで?」
 口調は十代みたいに軽いままだったが、酔いで垂れかけていた目がわずかに鋭さを取り戻すのを、私は見逃さなかった。彼が実は顔の広いビジネスパーソンだと、友人から聞いていた。

「友達の転職先を探してる。できれば食品メーカーの企画とか開発とかで」
「その友達ってどんな人?」
「不祥事やらかしたトコの企画系の人。すったもんだとは直接は関係ない。真面目。温和。同い年」
「どんな商品を世に送り出した?」
「その人がどれに携わったかはわからないけど、部署としてなら」
 私はいくつかの例を挙げた。いくつかは幹事も知っていた。抜刀術みたいなやり取りの末に、幹事がうなった。

「知り合いのところが、確か新しい人材を探してた。おっと、口利きなんか期待するなよ。そんな力ないから。ただその知り合いを紹介するくらいならできるかもしれない。もっとその友達のことを詳しく教えてくれないか」
「その前に知り合いの会社のこと教えてよ」
 彼が告げたのは、ラッシーの今いるところと同じくらいの規模の企業だった。CMソングが印象的で、そこの冷凍パスタにはよくお世話になっている。私はスマホを取り出して、コミュニティサイトの画面を幹事に向けた。

「道理で柏木さんが柄にもなく他人のことに熱心になるわけだ。友達じゃなくて恋人の話だったか」
「違うよ」
 私は咄嗟にビールを呷った。
「恋人だろ」
「会ったこともないのに」

 顔に熱が上ってくる。赤くなっているだろうか。だとしたら酒のせいだと思ってもらえますように。
 私がもう一杯干す間に、幹事はラッシーの情報を手帳に書き写していた。

「このプロフィールって信用していいんだよな」
「大丈夫だよ」
 私も最初は一応疑って、探りを入れたり鎌をかけたりした。だが探偵の報告書とネットの彼の言葉はぴったり合っていた。

 待つこと数日、幹事から知り合いが興味を持ってくれた旨のメッセージが届いた。私はラッシーに、事の次第を都合よくトリミングして伝えた。相手も喜んでくれて、私と幹事でいろいろセッティングした。しばらくして、中途採用の吉報が舞い込んだ。
 幹事宛てにデラックスな菓子折りを発送して帰ると、スマホに新着メッセージがあった。差出人はラッシー。バナーの数行で疲労感も汗も引っ込んだ。指紋認証ももどかしく全文を表示させる。

「直接会ったこともない、文字だけの繋がりなのにここまでしてくださって、ありがとうございました。お礼と言ってはなんですが、もしよければディナーでもご馳走させてください」

 手が震えた。嬉しい? 違う。ラッシーの転職の世話を焼こうとした時とはまた違う焦燥が駆け回る。交わってしまう。私とラッシーの人生が。
「お役に立てて良かったです。せっかくのお誘いですが、夜は眠くなるので遠慮しまーす」
 返信したままの姿勢で、画面を見るともなしに見続ける。画面が暗転しても、私は動かない。画面の向こうにいるのは、もはやラッシーではない。村橋さんだ。

 電子音とともにスマホがぱあっと輝いた。彼からの追撃。指が勝手にロックを解除する。
「それなら、タルトのおいしいカフェがあるので、昼間一緒に行きませんか?」
 いつだったか、タルトが好きだと話したことがあった。嘘塗れの私の、数少ない本当のこと。それを彼は憶えていたのだ。美しいだけだった人形が、血肉と魂を備えて私に手を差し出していた。
 カーテンを閉めるのも忘れて、私は笑って泣いて呆けた。叫んで喚いて歩き回った。黒く染まっていく部屋で、正解を探すみたいに思いつく限りのことをやった。そして疲れ果て、床に丸まって寝た。

 朝日に瞼をこじ開けられると、私はまたスマホを手に取り、メッセージを打ち込んだ。夜の続きみたいに体は動いた。
「せっかくですけど、お断りします。というのも最近彼氏ができまして、誤解を生むようなことはしたくないんです。勝手な話で悪いんですけど、そちらも新しい環境に飛び込むわけですし、ちょうどキリが良いのでここでお別れにしませんか?」
 もちろん嘘。でもこれが私にお似合いの幕引きだ。村橋さんの隣にいるべきは私ではない。私は彼という人間を愛していない。
 夕方、名残惜しそうな了承の返事が来た。思い立ってタルトの店の場所を聞いたら。ホームページのリンクを送ってくれた。丁重なお礼文を最後に、私はラッシー探しのために登録したすべてのサービスを退会した。
 


 タルトの店はラッシーの現住所の近くにあった。試しに行ってみたらフルーツの新鮮さと甘すぎないクリーム、生地の食感に感激してすっかりファンになってしまった。テイクアウトもやっていたので、思わず一番人気のをホールで買って帰った。
 それから半年に一回くらい、定期的に通うようになった。行く日は何週間も前から決めて、一日を潰した。片道一時間半かかるというのもあったし、遠くからラッシーをウォッチングしたかったから。

 初めてタルトの店を訪れた帰り、私の脚は素直に駅へと向かわず、近くの住宅街へと踏み入った。調査報告書のコピーは、お気に入り部屋にしっかり保管されていた。
 ラッシーの住むアパートを見つけた私は、どうしてかその場から動くことができなかった。無理やり自分を引きずって物陰に入ったが、それが限界だった。店内で唯一常温保存可のベイクドチーズタルトを選んだのは、これを見越していたのか。

 どれほど突っ立っていたのだろう。アパートのエントランスから、探偵の撮った写真で見た姿がすっと出てきた。高校生の頃と背格好は変わっていないが、小綺麗になっている。私の視界の上下は狭まり、口の端が吊り上がった。
 彼がどこかへ歩き去っても、私の笑みは消えなかった。ラッシーという事象の静かなる観測者。それが私の安住の地みたいだった。

 職場が変わって通勤時間が長くなっても、ラッシーは同じところに留まっていた。お洒落にはやっぱり無頓着なようだったけれど、青や白なども身に纏うようになっていた。

 タルト屋のスタンプカードが埋まった日、ラッシーが女の人と歩いているのを目撃した。ちらっと覗いた横顔が、純朴そうな人だった。私は小さな拍手を送った。

 やがてラッシーは引っ越し、私は会社帰りの彼を尾行して新居を突き止めた。一戸建てで、何度目か行った時、以前見た女の人が雨戸を閉める場面に遭遇した。私は電柱の陰で結婚行進曲を口遊んだ。

  私の方はというと、少し昇進して給料が上がったくらいで、同じような一日一週間一か月を繰り返してきた。
 そのうちラッシーに娘さんができた。母親に抱っこされていたその子は、ほどなく自分の足で地を踏みしめるようになり、パパ、ママ、と無邪気な声でのどかな空気を彩った。
 案外これが終着点なのかもしれない。微笑みながら、私はそう信じていた。

 ちゃんとした終わりは別に用意されていたのだと、ある日の新聞の地方欄が教えてくれた。

 ラッシーの名前が、交通事故を知らせる記事に載っていた。会社の休憩室で地方紙を広げてみた。そこにも訃報はあった。
 夕暮れ時、信号無視の車にはねられて搬送先の病院で死亡。名前の漢字表記も年齢も居住地域もラッシーと同じ。おまけに事故現場は彼の実家の近く。人違いの可能性なんかなかった。
 慣性で仕事をこなし、定時で上がって事故現場に向かった。路面には悪魔の爪みたいなブレーキ痕が、宵闇の中でもわかるほどくっきり残っていた。道路脇には花が手向けられていた。

 次の日は会社帰りにラッシーの家の方へ行った。案の定、矢印付きの看板が立てられていたので、それを辿って斎場を見つけた。駅のトイレで黒いストッキングに履き替え、真珠のネックレスもつけてきていたが、私は葬儀の場に近づくことができなかった。
 憔悴しきった奥さんに、私は自分をどう説明したらいい? 私はラッシーの一体何だったんだろう?
 私の立ち位置、私から相手を窺うことはできても相手は私を認識できない距離。これがすべての答えだろう。

「お嬢さん、一番かわいい年頃なのに、無念だっただろうね」
「夫婦仲も良かったらしいし、やり切れないやな」
 煙草のにおいとともに囁きが流れてきた。
「母一人子一人、これから大変ね」
「でも保険金とか賠償金だか慰謝料だかがあるから、お金には困らないだろう」
「こう言っちゃ悪いけど、残された者にとっては良い死に方だったわけか」

 ひそめた足音と煙たさが遠ざかっていく。周囲に人がいないのを確かめて、私もその場を離れた。
 ふくらはぎを浸す重い疲労感で我に返った。気づけば事故現場にいた。手にはコンビニの小さな袋が下がっていて、中には線香とライターがあった。
 箱から線香を一束出して、火をつけた。お供え物が夜闇から頭をもたげる。手であおがず、燃えるに任せた線香は、すぐ手元まで炎が回った。指が焼ける前にアスファルトへ置く。

 ラッシーが死んで、奥さんも娘さんもさぞ悲しかろう。これからきっとたくさんつらい思いもする。でも路頭に迷うことなどないはずだし、いつか穏やかな日々を取り戻せるだろう。せめてもの幸いだ。
 私はまた一束、線香を焚いた。やっぱり炎を消さず、最後は足元に寝かせた。一束、また一束と同じことを繰り返す。一箱すべて灰になり果てると、ようやく解放されたような気がした。爽快さはなく、胸の底がひんやりしていた。これが私の初恋の終わりだった。
 
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 最後の句点を打つと、私はパソコンの前で大きく伸びをした。十年以上も先の、存在しない未来から引き戻されて、頭がくらくらする。実際の初恋の思い出と、その空想の顛末を合わせて、ざっと二万一千字。それを私は途中のアスタリスクに腰かけて書き上げた。

 母親の紹介で坂本とかいう男と引き合わされて、自分の中に巣食うラッシーの残像をどうにかしなければと切実に思った。失恋などの語句で検索する中で、過去や叶わぬ思いを詩歌や短文にして公開している人をちょくちょく見かけた。それらにはほぼ必ず「供養です」の一言が添えられていた。
 供養。高校生のラッシーと再会した研究発表会参加へと、私の背を押した言葉が、新たな意味を持って目の前に立ち上がった。

 別に坂本とどうこうなろうというつもりはない。ただこれから歩いてゆかねばならない道程を思う時、初恋の残骸は少しばかりかさばるのだ。何をもってけじめとするか決めかねたので、それらしい出来事を詰めた。
 そんな副葬品とともに、私はかつて作り上げた精緻な立体模型を白木の箱の代わりに白紙という棺へ納めた。そして今、了の字の釘を打ち込んだ。あとは野辺送りだ。

 個人情報をぼかして「供養です」のキャプションとともに、私は今しがた仕上げた文章を公開するつもりだ。別に反応は期待していない。ネットの海への散骨で、私も初恋の幻影も救われる気がするだけ。
 息も絶え絶えの、あるいはとうに息絶えたあなたを、こんなところまで引き摺ってきてしまってごめんなさい。でもあなたのおかげで、私の十五歳のひと時は鮮やかに彩られた。ありがとう。願わくは其処に安らかな眠りのあらんことを。



#供養です

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