【サイコサスペンス】誰がための死に花(2/3)

二、椿死亡一年半前から
 
 結局、貸したカードが返ってくることはなかった。借りた本人が死んだのだ。自殺だという。椿はあれから二週間後の朝、適当に流していた情報番組で知った。倒れたコップから流れ出た牛乳がテーブルに広がり、床へ滴るのも構わず画面に食い入った。
 死者の名前もテロップの地名も、彼のデータと一致していた。死んだのは数日前、発見者は連絡がつかないのを不審に思った交際相手。現場には「疲れました。もう耐えられません」のような短いメモが残っていた。アナウンサーが淡々と告げていく。

 話題が移っていっても椿はテレビの前から動けなかった。なぜあの片桐が自殺なんか。番組が終わる頃、彼女はようやく真っ白な驚愕を抜け出した。フローリングが頭の中と同じ色で染まっていた。タレントたちの盛大ないってらっしゃいが耳の奥でこだまする。乾きかけの牛乳やハムエッグの残りを片付けると、身支度もそこそこに椿はアパートを飛び出した。片桐の死について調べに行くのだ。

 どこの地区に住んでいるかは聞いて知っていたし、ニュースの映像から場所の見当はついていた。その先はネットで検索をかけ、情報リテラシーの低い近隣住民の投稿から割り出した。
 事件性のない明々白々な自殺だったのか、あたりは静かだった。椿は片桐の自宅アパートの周辺をうろつき、会う人会う人に彼のことを尋ねた。邪険に扱われたり無視されたりすることも多かったが、道行く人の中には日常をちらりと掠めた影について話したがってる者も少なくなかった。

 片桐は首を吊って亡くなった。遺書はほとんど走り書きで、どういうわけかくしゃくしゃになっていた。一番の不思議は遺体の着ていたシャツのポケットにタロットカードが一枚入っていたこと。
 近所の人たちがあまりに詳しく語るので、椿は警察がそこまで漏らすかと訝しんだ。だが情報源は片桐の彼女とのことだった。彼女は警察への協力などで遺体発見直後はよくこのアパートに来ていたそうだ。その時、野次馬になぜか彼女は丁寧に応対していたらしい。その態度には、彼氏の死に様について話すことそのものに特別な意味を見出しているかのような異様さがあったという。

「あまりのことに動転して、とにかく誰かに聞いてほしかったんだろう。可哀想に」
 インタビュー相手の一人の中年女性が、大して気の毒がる風でもなく言っていた。家に帰ると、椿はメモ帳を前に片桐の死の理由を考えた。聞き込みで死亡動機に関する情報は得られなかった。生前の様子を思い返しても、アンバランスな感じはあったが、死とか心の闇とかいった仄暗いものとは無縁そうだった。

 一日また一日が過ぎても、弁当工場にいても占い喫茶にいても、彼女の心の一部は常に片桐の一件に占められていた。なぜ死んだのか。なぜ遺書は適当だったのか。なぜタロットを身につけていたのか。悲しみよりも不可解だった。そして少し、もったいないと思う。
 自殺はタイミングも方法も自分で決められる。死の瞬間は一花咲かせる最後のチャンス。自らを死に至らしめた苦しみ、理不尽、信念、死生観、無念、願いを広く世間に知らしめるように華々しく散ればいいものを。

 仕事の合間や休日、椿は自殺関連の本やサイトを読んで過ごした。片桐に似合いそうなものはどこにも見つからなかった。けれども彼女なりの結論は出た。答えが見つからない、それこそが答え。片桐は椿には到底わからないような抽象的で高尚な理由で死んだ。
 この考えは椿を大いに満足させた。同時に遅まきながら彼の死を悼む気持ちも湧いてきた。ただ、その嘆きはもったいないという感想の延長にあるようだった。首吊りこそが高遠な心にとって最高の選択であるはずがない。

 椿にとって唯一の喜びは、片桐が彼女のタロットを携えていったこと。彼が自分用のを持っていたとは考えにくい。死にゆく彼の心に自分がいた。彼女にはそれがたまらなく嬉しかった。片桐の死から二週間以上経ってようやく、彼女は自分の抱いていた好意に気づいた。


 
 
三、椿死亡一年前から
 
 片桐は椿の恋人でも友人でもない。単なる常連客の一人。椿の日常は表向き変わらず過ぎていった。だが、片桐がこの世からいなくなったことで、椿の知覚する世界は確実に精彩を失っていた。椿は自分が無趣味で孤独な人間だと自覚するようになった。ちゃんとした企業で正社員をやっている友人たちとはスケジュールが合わず疎遠気味だし、工場の人たちは歳が離れている。休日は家事や惰眠で終わる。自分を取り巻くものが味気なくて仕方なくなる度、片桐の言葉や仕草が、目に耳によみがえった。
 心に波風の立つ日はもっと極端に、あんなつまらない死に方をさせるくらいなら、自分がというところまで飛躍した。

 叶わない願いは持ち主を苛む。だからその女が現れた時、椿は光明の差した気がした。占い喫茶の客として来た女は長い髪をダークブラウンに染め、淡い色の服を纏った儚げな姿をしていた。
「私、これからどうしたらいいんでしょう」
 第一声はぴんと張った弦を弾いたようだった。
「もう少し詳しくお聞かせください。ご自身の問題ですか? それともどなたかとのご関係とか」

 女の話はなかなか要領を得なかったが、椿は辛抱強く付き合った。女が抱えているのは一個二個と数えられるトラブルというより、ぼんやりとした不安や焦燥のようだった。椿はいつしか前のめりになっていた。
 組み合わせて机の上に置かれた女の手の震えが次第に和らいでいくのを、鉢植えの生長を喜ぶ目で見守った。相槌の水とアドバイスの肥料を時折そっと差し出した。店を出る時には、女は幾分元気を取り戻して何度も椿に頭を下げた。葉山という名の女は椿のいる曜日を聞き、通うようになった。

「このままの人生が、このまま続く感じがしないんです。どこかで躓いて、どん底まで転げ落ちる。どう転落するのかもどん底がどんなところかも想像できないけど、とにかく駄目になる未来が待ち構えている気がして」
 お土産よろしく毎回きっちり持ち込んでくる相談は、人間関係や仕事の悩みなど様々な装飾が施されていたが、中身は同じだった。椿は彼女のためには労を惜しまなかった。占い、話術、時にハッタリ、持てるものすべてを使って葉山に癒しを、安らぎを、希望を与えたかった。

 三ヶ月ほど経ったある日、葉山はブースに入るなり頬に涙を伝わせて訴えた。
「私、死にたいんです」
 泣きじゃくる葉山をなだめすかし、椿は優しくわけを聞き出した。曰く、突然襲ってくる失敗や挫折への恐怖にもう耐えられない、悪い予感のせいで二の足を踏むことが最近とみに増えた、もう何をする気にもなれない、もう生きていられる自信がない……。

 彼女の窮状に耳を傾けるうち、椿の心に忘れかけていた後悔が舞い戻ってきた。あんなに近くにいながら、みすみす片桐を死なせてしまった。早く彼の中の衝動に気づいていれば。それが無理ならせめてこの手で。葉山が自分にとって片桐の代わりでしかないとようやく気付いた。
 占いそっちのけで慰め、励ましていると次第に葉山は落ち着きを取り戻した。少なくともしばらくは生きながらえる気になったらしい彼女は、椿を自宅に誘った。お礼にお茶の一杯もご馳走したいという。断ると面倒なことになるのは占わずとも目に見えていた。八日後の日曜日の訪問を約束した。

 葉山が帰った後、椿は先ほどよぎった優しい殺意とも呼ぶべきものを反芻した。捨て去ることも受け入れることもできない。日を跨いでも椿は揺れ続けた。どっちつかずであり、どちらでもあった。
 だから弁当工場で誰かの食事を淡々と作ったし、占い喫茶では迷える人々の進むべき道を照らした。ネットで殺人の方法を調べ、休日にトリカブトやフグを取りに出かけた。フグについては他の釣り人の捨てていったクサフグを数匹拾ってきただけなのだが。

 葉山との約束の日の前日、椿は冷凍してあったフグの卵巣を解凍して、トリカブトの根とともにフードプロセッサにかけた。
 参考にしたのは昔あった保険金殺人。犯人たる夫が相反する作用を持つフグ毒テトロドトキシンとトリカブト毒アコニチンを混ぜて妻に飲ませ、死亡時刻を遅らせることでアリバイを作ろうとした。はじめ妻の死因は心筋梗塞とされた。妻にかけられていた莫大な保険金が無ければ病死で片付いただろう。

 椿はペースト状の毒物を漉して滑らかにし、小瓶に詰めた。ここまでしておきながら、不思議と彼女の心に確固たる決意はなかった。今ならまだ引き返せる、と繰り返しながらおぞましい作業に手を染めていた。今ならまだ引き返せる。小瓶をテーブルに置いて眠りにつく前にも呟いた。夢の中でも唱えていた。

 翌日、使うつもりはなかったが小瓶を鞄に忍ばせて家を出た。葉山の住まいは典型的な一人暮らしの部屋で、すっきりと整頓されていた。葉山は椿に居間の座布団を勧めると、自分は台所に立った。
「コーヒーでよろしいですか?」
「ええ。でもお構いなく」

 コンロの火が静かな音を狭い空間に漂わせる。椿が所在無く座っていると、葉山が沈黙を破った。
「私、あの日はシェリーさんのおかげでだいぶ気が楽になったんですけど、現実の生活って気持ち一つじゃどうにもならないことばかりですね。どうしたって合わない人はいるし、頑張って働いてもトップになんてなれないし」
 お湯が沸いた。葉山はコーヒーを淹れながらも喋り続ける。椿は鞄に片手を突っ込んで、小瓶を弄んでいた。
「私は常に最高の努力ができる人間じゃないし、特別な才能もない。心も強くない。今だってこうしてシェリーさんに甘えてる、一生頼り続けるなんて、できっこないのに」

 お盆を手に台所から出てきた葉山は一旦言葉を切った。コーヒーカップ、砂糖、ミルク、椿の手土産のパウンドケーキが手際よく並べられる。座布団に腰を落ち着けると、葉山はコーヒーの味を調えながら口を開いた。
「時々、死んじゃえたらなって思うんです。夜寝て、朝目覚めなければいいのにって。そうしたらいろいろと楽に済むのに」
 それなら。虚空に放たれたのは椿の声だった。
「もしも毒杯を差し出されたら、お飲みになりますか」

 葉山は一瞬絶句したが、冗談と捉えたのか弱弱しい笑みを浮かべた。
「飲みます。そんな素敵なものがあるのなら……」
 椿は自分の手が勝手に動くのを感じた。小瓶をつまみ上げ、葉山の前に置く。
「毒です。効くのは数時間から半日後。素人の作ったものなのではっきりしたことは言えませんが」
 導かれている。占いが上手く行った時と同じ、かすかな高揚と凪めいた静けさ。葉山はためらいなく瓶の中身を最後の一滴までコーヒーに注ぎ、スプーンでかき回すと一息に呷った。

「何も、変わらないじゃないですか」
 溜息とともに感想をこぼすと、葉山は嘔吐するように身の上や心情をぶちまけだした。椿は葉山の背中をさすった。この先葉山の身に起こることが分かっているので、いくらでも優しくできた。初めて触れた葉山の体は痩せて骨ばっていた。Aメロ、Bメロ、サビを数度繰り返すと、葉山はおもむろに面を上げた。

「でも、もういいんだ。どうせ私は死ぬんだから。毒が効くのって何時間か後なんですよね。特上のお寿司でも取ろうかな。数時間ってちょうどいいですね。楽しむ猶予はあるけど悩む余裕はない。お酒飲んで、録画でも見ることにします」
 吹っ切れたというよりは突き抜けた顔つきだった。椿は餞別としてタロットカードの「二十:審判」を葉山に渡し、暇を告げた。帰宅して小瓶を洗うと、椿はそのまま床に倒れ込んで眠った。葉山の家での出来事が遠い夢のようにかすみつつあった。疲労だけが紛れもない現実として重くのしかかってきた。

 数日後、新聞の片隅に葉山の死を見つけた。記事は小さく、死因は調査中。葉山はカップを洗ってから事切れたのだろう。手段を提供したのは椿だが、葉山は自殺だ。「審判」の意味は何らかの節目、ある段階の終結。得られる結果は自身の行いに起因する。
 これで満足? 自分に問う。答えは否。確かに、片桐にしてあげられなかったことができた。でも彼の心にはたどり着けない。もう知りようがないとなると、無性に気になった。

 ふと思い立って、死にたいとSNSで検索してみた。相談ダイヤルの番号の下に、大量の投稿がずらっと並んだ。膨大な希死念慮に圧倒されながらも、椿はスクロールの手を止められなかった。死にたがりは日陰の石の下の虫ほどもいた。自傷やオーバードーズの常習者もちらほら見かけた。うっかり開いてしまった血の滴る腕の画像には不覚にも吐き気が込み上げた。注意しつつ病んだ文字列を眺めていると、さっきのグロ写真の先を行く人がほとんどいないことに気づいた。
 自傷は意外と多いが、自殺未遂となると大きく減る。SNSどころではないのかもしれないが、年間自殺者数を鑑みても、志願者に対して既遂者がいかに珍しいかわかる。

 都会のビルより高く、荒波寄せる崖より深い一線を、片桐は越えていった。彼の通り過ぎた微妙で破滅的で稀有な経過を知りたい。やっぱり葉山と片桐は違う。葉山は「審判」で片桐は「世界」だった。

 久し振りにタロットの教本に手を伸ばした。目当ては「二十一:世界」のページ。すべてが調和した完全な世界。カードたちの積み上げた物語の完成形。でもここで終わりではなく、再び無へ還り新しく作り上げられる。そうして世界は繰り返され、循環して行く。
 椿は次に、片桐と葉山のために二枚減ったタロットをテーブルに広げた。十九、十八、十七、十六。片桐と同じ境地へ至る方法が分かった。十五、十四、十三、十二。世界は円環。十一、十、九、八。両端は出会う。七、六、五、四。階段を一歩一歩下っていけば、いつかそれは天へと繋がっている。三、二、一。ゼロの先で、片桐に会える。
 

 


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