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✨今回は兵庫県の赤穂の神社⛩️御朱印を紹介させて頂きます✨

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赤穂と言えば年末の恒例のドラマ赤穂浪士で有名な所です。

高光寺

義士史跡法光耀山高光寺はもと大津村にあって妙洸典寺と称していたが寛永十七年(1640)に現在地にうつされた、日蓮宗寺である。
明暦三年(1657)赤穂藩主浅野長直候から御本尊の寄進をうけ、寛文二年(1662)奥方高光院殿蓮心日澄大姉の菩薩寺となるよう仰せつけられた。
延宝二年(1674)に浅野長友候が願主となり当山を大改築して、高光寺と改称。
竹万村大乗寺と大津村に新たに建立された妙典寺を高光寺の末寺とし延宝四年に日蓮宗中本山となった。
元禄十四年(1701)の浅野家断絶に際しては、家臣から高光院殿御墓料として
田地五反ニ畝九歩を寄進された。

伊和都比売神社

赤穂岬の温泉街に位置する、伊和都北売神社(いわつひめじんじゃ)
もともとは、大園という前方海上の八丁岩の上に祀られていましたが、天和3年に浅野内匠顕長矩が今の場所に移したと言われています。
大漁祈願として参拝される他、恋愛にご利益のある(姫守)を求められる方も多いです。

神社⛩️の前に美しい海🌊の景色が広がっており、恋人と一緒にデートに足運ぶのもオススメします。

赤穂八幡宮

赤穂八幡宮は赤穂の氏神さまとして、室町時代に応永13年(1406)に現在の鎮座地に赤穂の西(銭戸島)から応神天皇(八幡大神)が還座されました。
室町時代は播磨国守護赤松家の庇護のもと維持され、江戸時代は赤穂藩主、池田家、浅野家、森家の信仰のもと発展しました。
明治維新に神仏分離がなされ、八幡神社と呼ばれましたが昭和27年以降は江戸時代の社名である八幡宮へ戻し、現在に至っています。

普門寺

奈良時代神亀4年(727)に行基によって開山されたと伝わっています。
天文3年(1534)成立の(普門寺縁起)には次のような伝承が記されています。
関東に向かう途中で当山に登った行基がこの山の地景を奇特に感じ寺院草創の志を抱き修行していたところ観音様が姿を現して[山の形にちなんで山号は(船形山)観音様にちなんで寺号は(普門寺)と名付けよ]とお告げをされました。
行基はその観音様の姿を自ら彫り、このお告げの内容を聖武天皇に報告したところ、堂塔建立が命じられて、普門寺が開創される事になりました。
普門寺は天智天皇彫刻の五大明王を本尊とする(東谷)観音様を本尊とする(西谷)からなり聖武天皇は尊勝峯(神石山)と雨応峯(雨応峯)から見渡せる範囲を
寺領としたといいます。

大石神社

元禄14年 第一の事件

元禄14年(1701)春3月、江戸城中松の廊下で勅使接待役の浅野内匠頭長矩が、指南役の当家筆頭吉良上野介羲央に刃傷におよぶという一大事件が起こった。長矩は将軍綱吉の独裁をもって即日切腹浅野家は取り潰しとなる。
これが第一の事件である。

元禄15年 第二の事件

元禄15年(1702)12月14日の夜、長矩の家臣大石内蔵助良雄ら四十七義士が吉良屋敷に討ち入り見事主君の恨みをはらし幕府の失政に一矢を酬いる事件が起こった。
そして2か月後の2月4日義士達は武士の最高の名誉である切腹と言う処分を受ける事により劇的な終焉を遂げた。
これが第二の事件でこの二つの事件を合わせたものが[忠臣蔵]である。

戦争が終わる前までの人達は本当凄いいですね。
自分の親分の為なら命を捧げるんですね。
戦争も天皇やお国の為にと特攻していけるのが凄いですよね。
本当の男の中の男ですよね。
本当に感心します。

今回も最後まで見て頂きありがとうございます。
そして、記事を購入して下さった方々本当にありがとうございました。
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