最果タヒと私

読んでいて私から湧き出たもの、感じたこと。

みんなのものになる前の、10億年前から同じ理屈で流れる星々。今夜もどこかで、誰にも知られず燃えて流れる星がありますように。

主体としてそこにあり、客体として眺められ人々の中で話されることのほうが多い星。他であるからこそ、眺められる。
それでも、自然運動によって私達とは別の法則で動いており孤立した存在であるこということ。
ただ、こちらから見たら煌めいているのみ。

体は巨大な光という機械の、ちいさなぶひんてしかありません、それを動かして美しいものであろうとするとき、やっと、私がここにいる理由が生じる。瞳です。光です、私は光。

眼差しは光なのかもな。
そして瞳は反射板にもなる。
その光に照らされてる時、光を浴び、私の瞳に君の破片が住み着く。君の瞳に私が反射する。

中島みゆきさんの「永遠の嘘をついてくれ」。
歌詞に登場する情景は個人的で、決して私の見ている景色ではないのに、そこにある感覚は強烈に「知っている」と思う。私は知っている。過去に見ていた輝きのために、過去と断絶をするように生きてしまうこと。それであのころが「永遠」になると夢を見てしまうこと。

「永遠の嘘」という言葉が、この歌では何度も登場するのです。私はこの言葉は、過去を今更語り直さないことを願ってのものだと思っていた。あのころにあった感情、見ていた景色、結ばれていた信頼だけで、いつまでもそれだけで記憶に残したいという願いだと思っていた。今の私が、終わってしまったこととして「過去」を捉えようとした途端に、見失うものがある。無意識に都合よく、今の自分のために過去の自分の記憶を変えてしまうかもしれない。あの頃生きていたのも確かに私だったけど、今の私に、あの頃の「本当」がわかるはずもない。
何もかも忘れてしまっていると気づくこともできないまま、「今」の言葉で過去を汚してしまう予感がしている。
だからあの頃を永遠のままにしてくれと、まるで今とは関係がない別の出来事のようにいつまでもあのころのままで止めておいてくれと、そんな嘘をついてくれと願い続ける。今更の言葉で語らないでくれ、今の「本当」と照らし合わさないで。そんな願いがあると思っていた。

以下に続く



けれどこの歌の後半を聞いた時、願ってももう現実は追いついてきていて、過去はとっくに当時の姿を失っているかもしれない、と思った。「出会わなければよかった人などないと笑ってくれ」はこれまでの歌詞の全ての中にある本音のようだった。
ずっと、この言葉を叫びたくて、でもそれは言えなくて、気づいていないふりをしたくて、私は「永遠の嘘をついて」と願っていたんじゃないか。あのころのままにしておきたいという願いも本当だけど、そんなことは無理だと誰よりも私がわかっていたのではないか。

人は、過去を守りきれない。今という時間を生き続ける限り、いつもつきまとう後悔や今更の過去への採点に、追いつかれてはもがいている。何も気づかないふりをして「あのころ」をあのころのまま守りたいと思っていても、とっさに「嘘」という言葉を選んでしまうのだ。本当はもう、あの頃を美しかったと言い切ることさえどこか嘘になりつつあった。 だから、この歌が言い切ってくれることに救われる。…いつか「今」も過去になる、そのときに未来の私が、今の私の選択をまた何度も後悔すると知っているんだ。そこから、逃れようとする未来の私を、今の私は愛しているから。
だから、今のこの時を「そのまま」にできなくなってしまっても、それはいいよと許す代わりに一つの歌を愛している。「あのころ」にいつかなる今日を、守ろうとするあなたを、嘘つきだなんて私は言わない。

立東舎コラム 過去の中で人は生きていけない
(中島みゆき「永遠の嘘をついてくれ」について)


「過去を永遠に変わらないこと」として、「永遠に変わらない幸せ」として保っていたい。

"けれど、人は過去を守りきれない。願ってももう現実は追いついてきていて、過去はとっくに当時の姿を失っているかもしれない、と思った。"という最果タヒタヒさんの文章をみた。

嘘をついてくれ。というのは、過去は改ざんされる事があるということを踏まえて、「過去は永遠に変わらないこと」などではない。
そう突き付けられ、受け入れざる終えず、それでも「あの頃、あの時を守りたい」から、過去の出来事を「嘘」と言い換えているのだろうなと思った。
 
「永遠の嘘をついてくれ」
過去は記憶の中で改ざんされてるかもしれない。
それでも、あの輝きがあったのだと、そう「嘘」をついてくれ。

そんな曲に聞こえた。

そこで贈られる最果さんの、
アンサーはとても優しくて涙がでそうだった。

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