事例その1
事務所の電話が鳴り出てみると、「あんこさん?じいさんの部屋の階段に手すりつけてよ、今すぐ!!福祉で付けられるでしょ?」と、いつものトーンで茂田のお母さんから大声の連絡が入った。一月前に夫を亡くし独りになった茂田さんはつい先週も知らない番号から電話が掛かってきて怖いという理由で警察に電話し、担当ケアマネ宛に警察から連絡が来るような慌ただしい利用者だ。夫の部屋というのは中2階で急な階段が10数段あり、茂田のお母さんの部屋は1階の居間の奥にある。耳が遠くこちらからの話は半分も伝わらないので、怒鳴るように大声で、「なぜ使わない部屋に手すりをつけるんですか?」と聞き返した。茂田さんは一方的に、「じいさん居なくなってあの部屋の窓が開いていないから外を歩く人に、あの家何かあったのかしらって思われるの嫌じゃない〜」と被害妄想のようなことを言うので、まずは福祉用具の事業所の担当者に見てもらい、住宅改修がいいのか、レンタルで対応するのか相談しましょうと電話を切った。
介護保険は誰でも自由に使える制度ではなく、要介護認定を受けた人が自立支援を目的に利用するサービスなので自分の部屋に行く為の階段でもなく、ましてや人目が気になるので窓を開けるだけが目的では工事してまで手すりをつける必要はあるのか、と自問自答しながら福祉用具の担当Oさんに連絡を入れた。Oさんは歩行器をレンタルしている茂田さんのことはよくわかっているので、現場を見てどういう方法が良いのか提案しますと直ぐに動いてくれた。
翌日、再び茂田のお母さんから事務所に連絡が入った。「知らない人が家に来るなんて怖いから、あんたも来てよ」、「いや、知らない人ではないので大丈夫です」「5分でも10分でもいいから来てよ」「予定があるので無理です」「息子がうるさいんだ、知らない人を上げるなって」「いや、福祉用具の担当者なので知ってる人です」と押し問答し結局こちらの声は届かなかったが予定通り福祉用具の担当者Oさんに全て任せてその日は待つことにした。
Oさんは訪問後直ぐに連絡をくれて、階段には住宅改修で手すりを、上りきったところには縦型手すりをレンタルすれば安全に階段昇降の動作が行えることを説明してくれた。やはり引っかかるのは頻繁に使っている部屋ではなく、利用頻度の低い手すりになる為どう説明して行政に納得してもらうかだとOさんも話していた。
夕方、自転車で茂田さんの家の前を通りがかると雨戸が閉じており、隙間からオレンジ色の光が漏れていた。この時期の17時と言えばもう真っ暗なので少し早いけど戸締まりを済ませたのかな、と思いながらインターホンを押した。「こんにちは、あんこです」と伝えると、驚いた様子で家に招き入れてくれる茂田さん。今日の福祉用具の担当者の話がちゃんと理解できたか心配で訪問したことを伝えると、「ちゃんとわかったよ」と静かに答えた。元々理解力の低い人というレッテルを自分も茂田のお母さんには貼り付けていたので、難しい話はいつも夫にしていたのを思い出した。家の中にはまだ夫の御骨があり、花も飾ってあった。もうすぐ四十九日だ。今度の日曜に納骨に行く話を手元のチラシを見ながら始めた。
息子が車の手配をして連れて行ってくれるんだ。色々してくれるけど、請求は全部こっちにくる。まあ、当たり前か。あの子は大学出てるから理屈ばかりであたしのことをわかってくれない。あたしね、昔、職場の人に面倒見てもらってじいさんと一緒になったんだよ。あそこのうちには男の子が二人いるから、あたしも働いていたんだけど飯炊きする人が欲しかったんだろうね。息子たちに、「あんな馬鹿もらうの?」って言われてね、忘れられないよ。でも、あたし馬鹿だから言われたって大丈夫だった。それより、年老いた両親が嫁入り道具準備してくれて、それを持って戻ることなんてできなくてじいさんと一緒になったんだよ。じいさんはあたしを守ってくれたし、お金に困ることは一度もなかった。でも、独りになって寂しくて、不安で早くから雨戸閉めてるんだよ…。じいさんの部屋は元々あたしたちの夫婦部屋でね、じいさんのお母さんが今のあたしの部屋にいたんだよ。あの部屋はあたしにとってじいさんとの思い出なんだよね。
人には歳月を重ねて色々な思いがある。大切にしてあげたい思いだが、現実社会は厳しく、決して手厚いものではない。義理の息子達は頼りにならず、これから茂田のお母さんはどんな思いで生きていくのだろうと考える。近くで支えてあげたい気持ちはあるが、ケアマネは大体一人で40人くらい担当しているのでひとりの利用者にそこまで時間を使えない。まずは気分転換に話し相手が必要なのでデイサービスを勧めて少し運動をしてもらおう。お母さんは決して馬鹿ではない。人の心を動かせる素敵な人だなと思った。
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