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『六区』 第二章

雨が降りしきる中、窓の外を覗いていた。
日曜の夕方って何でこんなに憂鬱なのだろう。
でも明日は今よりきっと明るい気持ちになってる。
グラスを揺らしたいけど湯呑みでそっと手を温める。

今週も『六区』宜しくお願いします。



月圓(YUT YUN)

 闇の中、月の明かりだけを頼りに歩いていた。丸い石が路沿いに連なっている。コンクリートの上に砂利をばら撒かれたような歩道をどこに行くあてもなく歩く。五郎から貰った巻物の地図にあった“月圓(ゆっゆん)”という地区に向かっているという漠然とした目的しかなかった。空を見上げると丸い月だけが静かに浮かんでいた。“木地”より明るい闇なのに、それでも、“木地”より寂しさを感じる。あまりに静かだからだろうか。足元から冷たさが上がってくる。冬の始まりのような秋の終わりのような冷気が忍び寄ってきて、歯がかちかちとぶつかる。寒いような、ただ怖いような寂しいような、体が冷えるというより、心の中が縮んで固くなっていく感じがした。
 俺はどこから来て、どこに行こうとしているのか。“木地”に来る前はどこにいたんだ?
 ずっと考え続けている疑問が何度も頭に浮かんできた。随分歩いたせいか、足が痛い。足が付け根から取れそうな気がする。立ち止まって、近くの丸い石に腰かけた。大きく息を吐いて、首から下げている石を握った。
 いつか全て思い出す。きっと全部思い出す。大事なことを忘れたままなんて、有り得ない。
 ツタッツタッと連続する音が近づいてくる。佑は目だけ動かして前を見た。キラキラと月光を反射しながら、眩しい白の服を着た髪の長い、軽そうな十代位の若い男が歩いて来て、佑の目の前で止まった。
『君、こんな所で何しているの? 早く家に帰らないとダメだよ。この満月の夜を歩いていいのは僕だけなんだから』
 スパンコールのような素材で出来た服なのだろうか。男が動く度に光が乱反射して、目が痛い。
「なんで、あんただけ?」
『僕はここの地区の代表だからね。満月の時は、皆心がざわついて平静を失ってしまう。事件も起きやすくなる。病気にもなりやすくなる。そうこの期間は家に閉じこもっているのが一番いいんだ』
 佑は、なるほどと思った。さっきまでの気分の沈みこみは、ここの地区の満月の仕業でもあったのか。そう分かると、胸のつかえが下りるような気がした。
「ここの地区も観念の世界?」
『観念? なんでそんな事を聞く? ひょっとして君は、ここの住民じゃないの?』
「俺は、“木地”から来た。でも、“木地”の人間じゃない」
『“木地”…ああ隣の地区だね。あそこは、少数民族の森だね。森と言っても、最近は木が少なくなっているようだけど。じゃあ、君はどこから来たの?』
 佑は俯いた。それは自分が一番聞きたい質問だった。
『…上から来たんだね』
若い男は呟くように言った。
『僕の名前はラシータ。君の名前は?』
「俺は宇田佑。上って、どこだ?」
『上はここと違う次元の世界だよ。ごくたまに、落ちてくる。君みたいのがね』
「落ちる?」
 ラシータは口元を弛めた。
『まあ、これは例え話だよ。解りやすくする為の表現って言うか。それにしても、君、女性? 何でそんな話し方するの?』
「俺は女じゃねえ。今は事情があって、こんな見かけだけど」
 佑は、座っている石の上に左足を立てた。ラシータは佑の上から下まで眺めた。
『どう見たって女性だけどね。声もね』
 佑はラシータの襟元を掴んだ。
「いっとくが、ここに来てからこうなったんだ。ここはどうやら、変わった世界らしくてな」
『君の言う観念の世界だったら、君が望んだことじゃないの?』
 ラシータはやんわりと佑の掴む手を包んだ。佑は気持ち悪くなり、手を慌てて放した。
「俺は女になりたいなんて、一度も思った事ない!」
『まあまあ。そうムキにならずに。女の人ならではの得な事とかあるかもしれないし、現状から目を逸らす必要ないと思うよ』
「うるさい!」
『僕だって、君が女の人と思ったから話しかけたけど、男だったら、無視してたよ』
 ラシータは笑顔で、頭を横に傾げた。
『佑ちゃんだっけ? 君、可愛いよ、とても』
 佑は石から下りてラシータを睨みつけた。ラシータはそんな事はおかまいなしに、佑が首から下げている石を見つめた。
『その石、どうしたの? 天河石じゃないか』
 佑は思わず手で握り締めた。
「言っておくが、これは大事なものなんだ」
 ラシータは大きく息を吐いた。
『ここでは、その石はかなりの価値がある。それさえあれば、ここで生活するのには困らない』
 不思議な事にどこに行っても、この石は注目される。
「ここで生活する気はない。いずれ、元に戻るつもりだから」
『どこから来たかも覚えてないのに?』
 ラシータに突っ込まれて、佑は何も言えなくなった。ラシータは佑の手を引いた。
『今日はもう遅いから、うちにおいでよ。行く所ないんだろ?』
 佑はその手を振り払った。
「一人で歩けるから」
 ラシータは笑った。
『十分位歩くけど、足大丈夫?』
 佑は深く頷く。だが、二、三歩歩くと足の付け根に電気が走る。ラシータは気づいているのだろうか。足を傷めている事を。
 あえて痛みは顔に出さずに歩く。ラシータはすぐ前を歩いているからこちらの表情は見えないはずだが、いつ振り返るとも分からない。だが、現われた時と同じように、ツタッツタッと一定の速さで軽やかに歩いていた。後少しで、足が前に出なくなるかと思った時、家らしき建物が見えた。全て石で出来ていた。玄関らしき部分はくりぬいてあり、布で仕切られていた。その布の横の紐を引くと、ごおんと重厚な鐘に似た音がなり、しばらくすると、布がまくれ上がった。背の小さなお婆さんが出てきた。
『ただいま、いい子にしてたかい? 見回りは終わったよ。早くおやすみ』
ラシータがそう言うと、小さなお婆さんは走って中に戻っていった。
「今のは…?」
 佑が不思議に思ってラシータの顔を見ると、ラシータは笑顔で答えた。
『僕の孫だよ。可愛いだろ』
 佑は一瞬聞き間違ったのかと思った。
「でも、今の人、どう見ても、大人じゃなかった?」
『何言ってるの? 子供そのものだよ。顔だってしわくちゃだったろ?』
「うん、だから、お年寄りの方だよね?」
『違うよ。皺の入った皮膚がぴんと張るまでまだまだ時間がかかるのに、年寄りなんて変な事言って。僕が一番ここの地区では年寄りな方だよ』
 ここでは大人になる程見た目が若くなっていくようだ。ようやく事態が飲みこめた。十代位のラシータが、この地区の代表だと言うのも、どうやら本当かもしれない。
『さ、中に入って』
 入ると、六十歳位の男女二人がお酒を飲んで、楽しそうにしていた。佑に気づくと、椅子を差し出し、座るように促した。
『どうなさったんですか? 今日は満月なのに外を散歩ですか? もう若くないんですから、無理はいけませんよ』
 佑は何か言い返そうとしたが、足がもう限界だったので、出された椅子に倒れ込むようにして座り込んだ。
『すぐにお茶を用意しますね』
 ラシータも、そうっと隣の椅子に腰掛けた。
『僕は普段からよく歩いているから、全然平気だけどね。この人は、隣の“木地”から来たらしいから、相当歩いて消耗したと思うよ』
六十歳位の男女は、口を大きく開けて驚いていた。
『“木地”から。あんな田舎から。どこに行くつもりだったんですか? “金湖城(がむうーせん)”?』
 佑はポケットから地図を取り出してみた。“金湖城”は、“木地“や“月圓“と比べて、かなり大きな地区だった。
「いえ、分からないんです。どこへ行けばいいか」
『どこから来たかも分からないんだよね。僕はたぶん、上から落ちてきたと思う』
 横からラシータが口を挟んだ。
『上から。次元を超えて。じゃ、やっぱり“金湖城”へ行った方がいいですよね? お爺ちゃん』
六十歳位に見える男性が、十代に見えるラシータに、お爺ちゃんと呼ぶのは何とも奇妙な感じがした。
『あそこは、都会だから、情報も多いかな』
「ここは、どうなんですか?」
『ここはね、満月になると、心の中にある暗い気持ちがクローズアップされる場所だから、精神的に強くないと、きつい場所ではあるかな。佑ちゃんも、さっき、相当影響受けていたように感じたけど、違う?』
 佑は、ラシータに佑ちゃんと呼ばれるのも、もう気にならなくなっていた。
「うん、そうかもしれない。ところで、俺はまだ二十六ですけど…」
 六十歳位に見える二人は再び大きな口を開けて驚いた。
『随分、老けていますね。とても僕らと変わらない位に見えない』
ラシータは笑った。
『なるほどね。忘れていたよ。この地区にいると、ここ独特の生態系がある事が特別だと思えなくて。君はよそから来たのにね』
「さっきの話に戻りますが、ネガティブさが強く出るんなら、ここにいる人達は大変なんじゃないですか?」
『いや、ここの住民は皆、陽気だからね。そうでない人達は皆、出て行ったよ』
 ラシータはそう言うと立ちあがった。
『さあ、僕はもう寝るよ。佑ちゃんも早く休むといい。この奥の部屋のベッドを使っていいから』
 言われるまま立ちあがると横にふらついて、六十歳位に見える二人に腕を取られた。
『大丈夫ですか? 本当に若いとは思えないなぁ』
 と言いながら、そのまま部屋に案内してもらった。廊下の所々で、布の仕切りがあり、その度に布をまくり上げて、進まなければいけなかった。止まるごとに足の付け根がひどく痛んだ。部屋の前の布をまくり上げる時は、もう限界が来ていた。
『ゆっくり休んで下さいね』
二人の気遣う言葉にも答えられない位に疲労感が押し寄せていた。すぐベッドに転がると、いつの間にか気を失うようにして、眠った。

 目覚めると、朝だった。起き上がると、体のあちこちが痛い。ベッドも石で出来ていて、その上に布団が敷いてあった。鏡を覗くと、薄汚れているが変わらず女の顔だった。佑は溜息をついた。布をまくり上げて、人を呼んだ。
「すみません。あの、シャワーを借りたいんですけど」
向かいの布がまくれ上がり、小さなお婆ちゃん、いや、子供が出てきた。佑をじっと見た後、走って向こうへ行ってしまった。しばらくして、見た目が二十代位の女性がやってきた。と言う事は、割と年配の人なのだろう。
『あなたが、“木地”から来た人?』
目の前でやってくると、そう尋ねられた。
「はい。あの、出来れば、体を洗いたいんです。かなり汚れてしまって」
女性はにっこりと笑った。
『そうね。浴室なら、こちらよ。案内するわ。私、ぺリム。あなたは?』
「…宇田佑と言います」
ぺリムという女性は、とてもゆっくりと歩いた。その歩き方は確かに長く生きてきた経験を物語っているようだった。
『こちらよ』
浴室前も同じく布の仕切りがしているだけだった。
「ありがとう。布だけなんですね。誰か覗いたりしないかな」
佑は、裸を見られる事なんかを心配するのが嫌だったが、今の姿は誰にも見られたくなかった。
『大丈夫よ。私も一緒に入りましょう』
 佑は驚いて、慌てて両手を振った。
「いいです、いいです。一人で入りますから」
『遠慮しなくていいのよ。女同士だし、歳も同じ位だから、色々話もしたいし』
「いや、あの、俺はこう見えて男です。あ、体は今女になっていますが、これも事情があって、だから、その、無理です。歳もこう見えて二十代だから、野獣ですよ」
 と、辻褄の合わない言い訳をして、ぺリムを見ると、こちらをじっと見た。
『本当なの? 信じられない。どう見てもお婆ちゃんなのに』
 佑は、ぺリムの言葉に少々傷つきながらも、微笑んだ。ぺリムが布をまくり上げると、中から一人女性が出てきた。佑は驚いて、後ずさりした。
『先客がいたようね。まだいるのかしら。いいじゃない。体は女性なんでしょう?』
「よくないですよ。中に人がいるか、見てきて下さい」
ぺリムが中に入って確かめると、佑に入るように促した。
『誰もいないわ。ゆっくり入ってね。熱いお湯は体に毒だから、調節してね』
 頭を下げて、佑は恐る恐る中に入った。脱衣所は六畳程度の広さで、数人位は一緒に入れるスペースがあった。くりぬいてある大きな石がいくつか並んでいて、その穴の中に、服を脱いで入れた。それが果たして正しい使い方なのか分らないが、他に置く場所もなかった。浴室と脱衣所の仕切りは布ではなく、ビニールのような素材のようなものだった。それをまくり上げて、中に入ると、湯船が石で囲まれているような形で作られている。近くに蛇口のようなものが二つ付いていてその上にボタンがある。おそらくそれで、湯の温度の調節が出来るのだろう。自分の体とは思えない体を丁寧に洗い、頭も洗い、湯船に入った。温度は少し熱めだが、丁度良かった。一応蛇口の上のボタンを押してみた。思った通りそこから水が出てきた。慌てて、もう一度ボタンを押すと、水は止まった。湯船に浸かりながら、目を閉じた。体の疲れが少しずつ湯に溶けて流れていくような気がした。
 ここは香港の一部だったか、それとも香港から別次元の世界に入ったのか。
 俺は何でここにいるのだろう。
 (…宇田くん)
 佑は湯船から立ち上がった。誰かよく知っている声が聞こえた気がした。佑は耳を澄ませた。しかし、それ以上は何も聞こえてこなかった。
 自分の事を「宇田くん」と呼ぶのは誰なのか。よく知っている女の子。笑い声と髪の毛が自分の肩にかかる感覚が蘇る。後、少し、もう少しで思い出すのに。
 佑は頭を叩いてみるが、記憶のしっぽがすぐそこにあるのに、掴んでも掴んでも、指の間をすり抜けていくようだった。
( 女の子みたい)
 再び声が聞こえて、瞬間的に返事をしていた。
「誰がオンナだ! ふざけんな!」
湯船の湯を足ですくい上げて外に飛び散らせた。心臓がドキドキと脈打っている。よく知っているこの感覚。記憶のしっぽを今度こそ掴んだと思った瞬間だった。だが、それも幻想のようにゆるりと消えて行き、湿度が急激に上がったように感じ、息苦しくなって、湯船から出た。脱衣所に出るとぺリムが立っていて、佑は危うくひっくり返りそうになった。
『出てくるのが遅いから心配したの。それとタオルと着替え。とりあえずこれを着て』
「あ、ありがとう」
 ぺリムは佑に渡すとすぐに出て行った。タオルで体を拭いてから、ワンピースのような服に着替えた。自分の服を持って、外に出ると、ぺリムが手を出してきた。
『その服、汚れているから、洗ってあげる。今丁度洗濯する所なのよ』
「俺が洗いますよ」
 ぺリムは微笑んだ。
『じゃあ、お願いしようかな。洗濯機が時々調子悪いんだけど、心を無にすれば、大丈夫だから』
 心を無にすれば、という事はまた精神的なものが洗濯機にまで影響するのだろうか、と佑は思った。ぺリムについて行って、布の仕切りを三つくぐった所で洗い場と書いてある部屋に到着した。
『汚れ物は、左隅に置いてあるから、一緒にお願ね。ここのボタンを押したら、洗濯が始まるから。終わったら、機械が止まるの。エラー音が出たら、心を静めて、再び、このボタンを押してね。どうにもならなくなったら、私を呼んで。隣の部屋で、朝食の用意をしているから』
「分かりました。じゃあ、任せて下さい」
 ぺリムは頷いて、隣の部屋の布をまくり上げて、入って行った。
 佑はすぐに衣類をまとめて入れて、ボタンを押した。すぐに洗濯機に電源が入り、給水が始まった。水が溜まった所で、動き始めた。佑は無になっているつもりだったが、無意識に先程、頭に響いた声を思い出していた。声のする方を見上げると、顔が逆光でよく見えない。誰だろう。よく知っているのに。腕の白い感じや、手の甲にあるホクロや、白い指先。かすかに香る花の甘い匂い。何の花だろう、いつか聞いた時、確かマグノリアの花だとかって言っていたような。そんな花、よく知らないけど、香水だろうか。でも、しつこい感じではなく、微かに香っていた。

 そこまで考えてはっとした。目の前の洗濯機がエラー音を発している。慌てて、洗濯機のふたを開けてみるが、特に異常は見当たらない。佑は深呼吸して、もう一度ボタンを押す。だが、洗濯機は動く様子はない。
 今、思い出しそうだったのに。佑は唇を噛んだ。気を取り直して、心を無にした。雑念を消す為に、自分の呼吸だけに意識を集中させた。吸って、吐いて、吸って…。
 ブォンという音がして、洗濯機は再び動き始めた。佑はほっとして、洗濯機の両端を撫でた。
 洗濯が終わると、置いてあった籠の中に衣類を移し、隣の布をまくり上げて、ぺリムを呼んだ。
「すみません、洗濯終わったんですが、どこに干しますか?」
 奥からぺリムが出てきて、笑顔で答えた。
『屋上に干してもらえる? そこの階段を上がったところ』
 言われた通りに籠を抱えて、佑は階段を登った。布をまくり上げると、空一面に星が光っていた。佑は思わず、感嘆の声を上げた。朝なのに、太陽はなく沢山の星で明るく照らされていた。眩しくて、思わず目をつむってしまう程の光だ。目を細めながら、洗濯物を一枚ずつ、張ってあるロープにかけて、干していく。
『おじいちゃん』
後ろから不意に声をかけられた。先程の小さなお婆ちゃん、いや女の子が立っていた。
『ハッシも手伝う』
 どうやら、ハッシというのが、女の子の名前のようだ。よく見ると皮膚は皺だらけだが、目が黒々としていて、艶があり、生命力が溢れている。ハッシは籠の中からタオルを取り出すと、パンパンと手際良く弾いて、ロープに止めた。
「助かるよ。ありがとう」
『いつもやってるの。おじいちゃん、どっから来たの?』
 佑は返答に困ったが、ハッシは答えを待たずに言った。
『ハッシ、知ってるよ。おじいちゃん、上から来た。女の人をさがしに来たんだよね?』
 空一面の星が一層明るくなったように感じた。星の幾つかが流れて、落ちた。佑は思わず、ハッシに駆け寄って抱きしめた。
「ありがとう! ハッシ!」
 肝心な事を忘れていた。そうだ、捜しに来たんだ。

水樹のことを。
 
ようやく心のもやが晴れていく気がした。気がつくと、手がさっきと違う事に気づいた。手の甲、掌を何度も裏返し見て、確信した。
「そうだよ。おじいちゃんだよ。ハッシ、ありがとう」
 佑はハッシを抱きしめて、溢れる心が流れ出すのを感じた。

 ぺリムの作った朝食を食べた後、佑は皆に事情を話した。話すまでもなく、見た目も男に戻っていたから、神妙な顔つきで聞いていた。
『じゃあ、もう行くんだね』
 ラシータが言うと、佑は頷いた。
『そのワンピース、着てってもらってもいいけど、嫌だろうね。男に戻っても、あまり違和感ない位似合っているよ』
ラシータが冗談っぽく、目配せする。
「全然嬉しくない言葉ですね。大体話す事もとても年配の人とは思えない。だから、元気なのですね」
 佑の嫌味も少しも堪えないかのようにラシータは愉快そうに笑う。
『佑ちゃん、お願いがあるんだ』
「何ですか」
『どうか、僕も一緒に連れてってもらえないかな?』
 予想外な言葉に驚いて、一瞬返答が遅れた。
「でも、あなたは“月圓”地区の代表なのでしょう? ここを出たら、まずいのでは?」
『いや、他の地区の様子も偵察したいんだ。それに、君としても僕がいると何かと心強いんじゃないかな。少なくとも君よりは、他の地区に対しての多少の情報も持っているし、心構えも違う』
 佑は、ラシータの言う事も一理あると思い直した。
「俺、もう女じゃないですからね。一緒に行っても楽しくないかもしれませんよ」
『そうだなぁ。実に残念だよね。出来ればここにずっとあのままの姿でいてくれたら、と願ったりもしたけれど、…でもまあ、佑ちゃんは男でも十分可愛いから』
 佑はラシータを睨みつけた。
『まあ、そう怒らずに。ひとりより二人だよ。いいだろう?』
「分かりました。だけど条件があります。一緒に行くなら、立場は同じとして、もう敬語は使いません。俺の世界では、あなたの見かけは十代ですからね。どうしても、変な感じがして、落ち着かないんです」
『なるほど、別にいいよ。明日出発するとしよう。しっかり旅支度をして、ぬかりないようにしておこう。何せ、ここから先は色々と大変だから』
 佑も素直に頷いた。どちらにせよ、自分の服が渇くまでは多少の時間がかかる。
 佑は地図を出して、テーブルの上に広げた。
「“金湖城”に行くにしても、まず、“土鳳山(とぅふぉんさん)”を通らないといけないみたい。どんな所か知ってる? ラシータ」
『ああ、もちろん。隣の地区だしね。険しい山が連なる難所だよ。皆、“金湖城“に行きたいと思うが、ここを抜けられなくて、諦める者も多い』
 佑は顔をしかめた。
「俺らがクリア出来るレベルかな」
『でも、君は行かなくてはならないだろうな。水樹ちゃんって言ったかな? その女の子を探すんだろう? そうでなければ、佑ちゃんは一生ここで暮らさないといけない。そんなの嫌だろう?』
ラシータはいたずらっこのような笑みを浮かべた。佑は上目使いでラシータを見た。
「俺、山なんて登った事ないんだけど」
『ほら、その時点でもう僕がいないと君は前に進めない。二人で力合わせて頑張ろう』
 佑は大きく息を吐いた。
「確かに、ラシータがいてくれて良かった。山を越えるだけじゃなくて、俺には、どこをどう行けばいいか分らないし、水樹がどこにいるかも分からないし、どうしていいか分らない」
 ラシータは佑の背中をぽんと叩いた。
『僕は少なくとも君の三倍近くは生きているからね。何でも聞いてくれ』

 昼過ぎまで、皆と話して過ごした後、洗濯物をハッシと共に取り入れて、早めの夕食を食べた。“月圓”の世界の話を聞いた後、佑の元いた世界の話をすると、皆喜んで興味深く耳を傾けた。
 佑は再び、最初に通された奥の部屋の石のベッドに寝転がった。窓から数えきれない程の星が見える。その向こうに丸い月が見えた。ここは常に夜のような感じで、昼なのか夜なのか、分からないまま、眠気が襲ってきた。

『起きた?』
 部屋の外から声が聞こえて、佑は目を開けた。どうやら、ラシータが布の扉の向こうにいるようだ。佑は、ベッドから起き上がり、部屋から出た。
「おはよう。ラシータ、もう用意すんだの?」
『ああ。大して荷物もないしね』
 佑は頷くと、テーブルの上に置いていた地図とナイフを確認して、階段を駆け上がり、屋上に干してある服を取り入れると、すぐに着替えて、ラシータの前に再び戻ってきた。
「少し待って。ちょっと顔洗ってくる」
 洗面台へ向かうと、顔を洗ってから目の前にある鏡を見た。最近見てなかった男の自分の顔。確かに、少し女性的な部分もあるが、昨日までの顔とは明らかに違う。ほっとして、口をゆすいだ。近くに置いてあったタオルを借りて、顔を拭いて、部屋の前で待つラシータに手を振りながら、早足で駆けよる。
『朝食を取ったら、すぐ出発だ。しっかり食べてね。僕はもう食べ終わったから、外で待っている』
 ラシータは言いながら、佑が近づくと、肩を叩き、そのまま行ってしまった。
 用意されていたパンを頬ばって、コーヒーを飲んだ後、皆に礼を言って、佑は立ち上がった。六十代に見える二十代の青年達に声を掛けられた。
『佑さん、ラシータおじいちゃんを宜しくお願いします』
 佑は大きく頷いた。足元にハッシが走ってきて抱きついた。
『おじいちゃん、また戻ってくるよね?』
 佑は黙って、ハッシの頭を撫でた。
「ハッシのおかげで前に進むことが出来るよ。俺もハッシにまた会いたいけど、どうなるか分らないから約束は出来ない。でも、ハッシの事は忘れないからね」
 ハッシは納得したのかしていないのか、俯いたまま、両手で交互に佑の足を叩いた。青年達の一人がそんなハッシを宥めるように佑の足から引き離した。
『お気をつけて』
「ありがとうございました。お世話になりました」
 佑は深く頭を下げ、外に出た。

つづく

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