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『六区』 第一章

10年以上前に途中まで書いて放置していた小説を
5年前位にやっぱり最後まで書こうと思って書いたものです。少し表現やらおかしな部分あるかもしれませんが、ご了承下さい。
ジャンル的には何になるかよく分かりません(笑)

アマゾナイトプロローグ


いつからか始まりと終わりの区別がつかなくなった。いや、区別がつかないというか、もうなくなってしまったのかもしれない。現実と夢の境だってはっきりしていないかもしれない。夢は断片的で現実は連続している。もし繋がったら、もう区別はつかないのだ。これは堂々巡りなのか。俺にとっては希望でしかないのだが、彼女にとってはどうだろう。それでもいつか終わる時がくれば、きっと笑って話せる。

霧雨が降りしきる中、宇田佑(うだゆう)は公園の噴水を目指して走っていた。仕事が中々終わらなくて、待ち合せ時間を随分回ってしまっていた。腕時計を見ると、時間は午後七時を回っていた。会社を出る前、高野水樹(たかのみずき)に遅れる旨のメッセージを送っておいた。水樹からは特に返事はなかったので、急いで向かった。雨が降ってきたから場所を変更したいと思ったが、とりあえず行ってみる事にした。

「遅いよー」
 水樹は傘も持たずに、立って待っていた。いつもの、花のような少し甘い匂いがした。香水なのだろう。
「待たせたね、ごめん! あれ水樹、傘持ってないの?」
「宇田くんこそ」
 高野水樹は、高校の時からの友達で、男の佑より五センチ程背が高く、いつも上から目線のような喋り方をした。付き合ってからも学生の頃の呼び方が抜けない。
「ほら、降り方が微妙だから」
「そうよね。ミストサウナみたいで気持ちいいじゃない」
 水樹は微笑んだ。
「宇田くん、私ね、来週香港に行こうと思ってる」
「香港? また?」
「またって何よ。もう三ヵ月経ったんだから」
 高野水樹は香港が好きで、それもひとりで頻繁に出かけるのだ。
「これ、とってもパワーあるのよ」
 水樹は黒の革ひもの付いた石を佑の首に掛けた。
「何? ペンダント?」
 佑は、自分の首にぶら下がった石を見た。
「これね、私のお守りなの。いつも香港に行く時、付けていくの。でも、宇田くんに持っていてほしい」
「どうして?」
「今度はちょっと大変かもしれないから」
「大変って?」
「冒険になるの」

 冒険か。気をつけて行かなくちゃダメだぞ。いくら行き慣れていても、外国なんだからと、言おうとしたら、水樹はもういなくなっていた。言いたい事だけ言って帰ったのか。勝手な奴だな、と思った所で、雨が段々強くなってくる。佑は雨宿りする為に近くの店に入った。
外の濃密な湿気が店の中にまで入ってきている気がした。ジャングルのリゾートをイメージしているのか、大きな椰子の木が何本も配してあるオシャレな今時のダイニングバーだった。カウンター席に案内された佑は、席に着くと、雨で濡れた顔や髪をハンカチで拭った。ビール、サーモンとタコのカルパッチョを頼み、返信しようとした。さっき送ったメッセージの既読がまだ付いていない事に気づいた。まだ見てないのか、と思ったが、追加する。

 香港、気をつけるんだぞ。
 何かあったら助けに行く。お守りは俺が持っているから。

 冗談で書いたが、字面だけ見ていると、やけに真剣に見えたので、任せとけって感じのスタンプも追加しておく。
 店に薄く流れるジャズの音を聴くともなく聴いていたら、ふと学生の頃の記憶が浮かんだ。

「結局女子は皆強い男に憧れるのよね」
「それで?」
佑は、全く興味ない風を装って、顎を尖らせる。
「だからね、もっと筋肉鍛えて、逞しくなってほしいのよね。宇田くんは、パッと見、女の子みたいでしょう?」
女みたいだと? ふざけんな!
と、心の中では怒り狂いつつ、あえて抑えて黙っていると、横にいた水樹の友達の沙耶(さや)が代わりに答える。
「でも、宇田くん、意外にモテるんだ。イケメンだから」
「ダメダメ。顔だけじゃ、もたない」
「もたないって何だよ」
とうとう口を挟む。水樹は佑の肩を軽く叩き、次に手の甲が腹の上を撥ねた。いてっ、と思わず声が出る。
「ここも、ここも、軟弱じゃん。だから、フラれるんだよ!」
笑って、舌を出す。そう、つい一週間前に一つ上の先輩に告白して、見事玉砕した。それから三日位は世界の終わりを感じたが、今は意外とすっきりしている。今日は水樹に励ましてもらう日だった。だが、水樹はむしろ傷口を広げるような事ばかり言う。
「好きな子が出来てからじゃ遅いからね。今から体鍛えて見せてよ」
「うるせーな。脱ぐとすごいんだよ、俺は。服を着ていると分からないだけだ」
「へえ? どうすごいの? 気になるぅ」
水樹が頭を肩に軽く乗せてからかうように言う。ストレートの長い髪が首元にかかって、くすぐったい。
「私は宇田くんはそのままでいいと思うよ。きっとそのままの宇田くんを好きになる人が現れると思う」
「やっぱ、沙耶ちゃんは分かってくれると思った」
沙耶の頭をくるくると撫でた。沙耶は佑より頭一つ分背が低い。ゆるめのカールが揺れる。
「沙耶はいつも宇田くんのフォローばっかり。ダメダメ甘やかしちゃ。宇田くんを最強にするには、まだまだ課題がいっぱいだって」
「最強?」
佑と沙耶は同時に水樹の顔を見た。
そうだ、この翌日から毎朝走って、腕立て伏せ百回、腹筋百回が日課になったのだった。

「お待たせしました。生ビールとサーモンとタコのカルパッチョです」
ウェイターの声がして、薄暗い照明の中、カウンターに置いてあるキャンドルの火が揺らいだ。よく冷えたグラスを掴むと、喉を鳴らして半分程飲んだ。サーモンのスライスをフォークに載せるとゆっくりと口に運んだ。酸味が丁度いい。
九年も前のたわいもないやり取りを何故今思い出したのだろう、と思いながら頭を振った。その時スマホの呼び出し音が鳴った。佑はそれを掴んで店の外に出た。雨はまだ降っている。屋根のある所で電話に出た。
「もしもし」
「宇田くん、聞いた? 水樹が……」
 最後の方は何を言っているのかよく理解出来なかった。自分も何を喋ったのか記憶がなかった。

ふと視界に入ったペンダントを首から外して佑は手に取って眺めてみた。ダークグリーンの石が、迷いこんだ深い森のように感じられ、吸いこまれて、東西南北も分からなくなってただ歩き続けるしかないような、どうしようもない道なき道を進まざるを得ない、そんな恐怖にも似た、追い詰められて、何かから逃げるような、じわじわとした重い空気の底を這いずり回る気持ちになった。


木地(MUK DEI)

こんな闇、今まで体験した事ない。わずかに足元の砂や石や所々に雑草が生えているのが分かる位で、距離感も何も分かったものじゃない。ただ、一直線に突き動かされて前に進むしかなかった。
――何の為に?
ふらりと横に体がぶれた時に大きな木にぶつかった。どうやら、ここは森の中のようだ。なのに、動物の鳴き声、虫の鳴く声ひとつしない。奇妙だった。ぬるい風が時折頬を撫でていく。
一体何だってこんな所を歩いているのだろう。どこへ向かおうというのだろう。
我ながら、佑は、不思議に思った。しかし、帰ろうにもどこから来たのかも記憶になかった。足を止めるのも恐ろしく、前に進むしかなかった。
しばらく歩くと真っ暗な中にオレンジ色に光るものが見えた。目を凝らして、そこへ向かって行く。近づいてみると、木で出来た小さな家から洩れる窓の光だった。中から楽しそうな笑い声が聞こえる。食器の重なる音も聞こえる。家族で食事でもしているのだろうか。佑はそのまま家のドアの前まで行ってノックした。
すると、一瞬で物音がぴたりと止まった。
ややあって、ドアが開いた。中から身長一メートル程で鬚をたっぷりたくわえた小さな男が出てきた。
「あの、つかぬ事を聞きますが、ここはどこですか?」
佑が恐る恐る尋ねると、男はもみじのような両手をこすり合わせた。
『あんたどこから来たの?』
男の声が頭の中に直接響いたような気がした。いや、実際にはそうではなく、瞬時にして意味が理解出来たような感じだった。
「それが分からないんです。どこに向かっているのかも。だからせめて、ここがどこなのか、教えて下さい」
男は佑の顔をしばらく見つめていたが、その内にきゃっきゃっと声にならない声を上げて笑った。

『ここは、“木地(もってい)”。よそから来たものはまずここに来るんだ。木をどの位見た? 木が多ければ多い程、抱えているものが多いって事なんだ。ここにたどり着くまでの時間や距離もね。人によって違う。観念の世界だから』
佑は首を傾げた。
「モッテイ……何ですか、それは土地の名前? ここは日本じゃないの?」
『広東語発音の土地の名前。香港に来たんだろう? それも覚えてないの? ここは香港からしか入れないよ』
香港、そういえば香港に来たのか。佑は一生懸命思い出そうと頭を捻った。
何の為に?

男は、佑の首元で視線を止めた。
『あんたのその首に下がっているそれ、天河石?』
 佑は自分の首元を見た。石がぶら下がっている。
『よかったら、それおいらにくれない?』
 佑は思わず石を握りしめた。
「これはダメだ。大事なものだ」
 言いながらも、何がどう大事なのか、石の名前さえ全然思い出せない。だが、本能的なものがこの石を手放してはいけないと語っていた。
『その石をくれたら、あんたがここに来た意味を教えてやるのに』
 しつこく男は食い下がるが、佑は黙って頭を振る。
「代わりに、他の事なら何でもするから。お願いします」
 男は短い腕を前で組んだ。
『じゃあ、女になれ』
 佑は驚きのあまり、声を発する事が出来なかった。
『ここでおいら達の身の回りの世話をしろ。そうしたら、石は諦めてやる』
そう言ってドアを大きく開けると、中に通された。中には男と同じ位の小人の男ばかり五人もいた。皆、きゃっきゃっと喜んでいるように見えた。食べたばかりの食器をフォークやスプーンでカンカンと鳴らしながら、何やら歌を歌っている。
「女にならなくても、身の周りの世話は出来……あれっ?」
 佑は驚いた。発した声が自分の声じゃないみたいに甲高くて、気づくと、体の力が抜けるように、その場にへたりこんだ。何だ、これ?
『承知したようだな。あんたが自分で選んだ。だから、文句は言えない』
 丁度目の前にあった鏡が自分の姿を映していた。体つきが全体的に華奢になり、髪の長さや顔の作りはそのままなのに、何かが圧倒的に変わってしまっていた。胸がもったりと重く、違和感を感じる。そして、股間は空虚で、手にちっとも力が入らない。
 信じられない事だが、本当に女になってしまった。一体どうなっているのか? これは夢なのか?
 佑の気持ちを察したのか、男が語りかけた。
『ここは、観念の世界だって言っただろう。あんたの思った通りになる』

 佑はしばらくこの家に置いて貰える事になった。二階の小さい部屋を貸して貰ったが、ベッドも子供用かと思う程小さく、それ程背が高い訳でもない佑でも、膝から下がベッドから出る。それでも、何とか少し眠って、目が覚めて階段を降りていくと、男達は既に起きてパンを焼いたり、サラダを用意して、既に食事を始めていた。
「ごめん…朝食の用意出来なかったね」
 慣れない自分の声にぎょっとしながらも、頭を下げた。男達は、こちらを見て、にやりと笑う。
『随分寝てた。昨日着いた所だから、大目に見てやるよ。ほら、これがあんたの分』
テーブルの隅に、皿に載せられた小さなパン二個と小さなサラダボウルと小さなカップに入った野菜のスープがあった。小さい男は全員で六人。七人だったら、白雪姫の小人になる所だ。間違っても白雪姫の役は遠慮したい、と佑は鈍い痛みを感じる頭を押さえながら思った。
『おいら達は仕事があるから夕方まで戻らない。あんたには家の掃除と晩飯の準備を頼んでおく。着替えはそこの箪笥の中に入っているから、好きなのを着るといい』
 六人は一緒に家を出て行った。佑は、ほっと一息つくものの、若干小さくなった口にパンを千切って放りながら、どうにか思い出さないか、ここに来た時の事を考えていた。
 香港に来て、何をしようとしたのか。そもそも俺は、何故香港に来ようと思ったのか。ここはどこなのか。

佑は首に下がっている石を見た。この石が何か重要な意味を持っている気はするのだが。食事が済むと、洗面所で顔を洗った。洗面台も膝の少し上の高さでかなり低い。鏡に改めて自分の顔を映すと、我ながら、少し見惚れた。嘘のように膨らんだ胸を掴むと程良く柔らかい。
(意外といけ…)
 自分の思いに寒気がして、すぐに頭を振った。言われた箪笥の引出しを覗くと、吐気を催しそうな、フリルがびっしりと生えたようなワンピースだの大きなリボンがついたスカートだの、少女趣味の服ばかり入っていた。
「こんなの着れるかよ! 俺は変態じゃね~んだ!」
 強く息捲いてみるものの、声が甲高いだけに迫力に欠ける。がっかりして、仕方なく一番マシな花模様のブラウスに手を通す。下は黒のミニスカート。一体何だってこんな格好をしなきゃいけないんだ。観念の世界? 俺が一体いつこんな変態な世界を望んだって言うのだ?

 黙々と家の掃除をした。何をしていいか分らないだけに家事に没頭すると、気持ちが落ち着いた。箒で埃を取り除いた後、雑巾掛けもする。食器も洗い、晩御飯を作るために冷蔵庫を開けてみた。中にはキャベツや人参、きのこが数種類。ソーセージがいくつか。調味料の棚には色々とスパイスやドライハーブが並んでいる。
 深めの鍋に野菜を小さく切って、ブーケガルニと共に煮込んでいく。その間にパンを焼いておく。六人は同時に帰ってきて、順番に手を洗って、食器棚から皿を取り出して、リズミカルに席に着いていく。まるでミュージカルを観ているように、動きが滑らかで無駄がない。
『食事が済んだら、まず、あんたがここに来たきっかけを教えよう』
 いきなり六人が同時にこっちに向いたので、佑は驚いた。
「もう、教えてくれるんだ。ありがとう」
 スープの味はまあまあだったが、六人は残さず食べた。食器を洗い場まで六人が運び、佑が汚れた食器を洗った。テーブルを拭いて、後片付けが終わると、六人は佑にテーブルの席に着くように促した。
『あんたがここに来たきっかけは、その石のせいだ』
「俺もそう思っている。でも、理由は分からない」
『その石はどうしたんだ?』
「分らない。気づいたら、身に着けていた」
『その石は持ち主の所に帰りたがっている』
「持ち主? 俺じゃなくて?」
『違う』
「なのに、その石をあんた達は欲しいって言ったよな」
『この世界では唯一無二のもの。天をもいずれ司る』
 佑は石を握りしめた。
「俺は石の持ち主に、会いたい」
『なら、思い出すまで、ここにいるしかないな』
 六人は話が終わったと思ったのか同時に立ち上がり、それぞれの部屋に戻って行った。
 鬚をたっぷりたくわえた六人の小さな男達は背格好は似ていたが、よく見るとひとりひとり顔は違っていた。顎鬚だけ生やしている者、頬骨がこけている者、頬がぱんぱんに膨れている者、眉が繋がっている者、目が大きく印象的な者、鼻が赤くて大きい者。皆、女が好きなようで、女になった佑を、触ったりからかったりした。佑は苛々しながらも、自分が何者で何しにここへ来たのか全く分からないので、嫌々ながら適当にやり過ごすしかなかった。そんな中、顎鬚だけ生やしている男だけはあまり興味ないのか、からかわずに遠巻きに見ているだけだった。

 それから何日経っただろう。毎日掃除と食事を作る事の繰り返し。女の体にも慣れた。気がつくと、ずっと前からこんな生活をしていたような錯覚に陥る。
「お帰りなさい」
六人が帰ってきて、順に『ただいま』と言い、食事を終えると、佑は片付けを始める。最初の頃から軽い頭痛が続いているが、苦しむ程ではない。だが、この違和感が今日はやたら、神経に障る。大きく息を吐いた所で、六人がこちらに語りかける。
『あんたの名前は宇田佑だったな。おいら達は名前はない。だから、少し羨ましい』
 そうだった。六人に名前を教えたかどうかも覚えていないし、自分の名前を忘れていたのか、気にしていなかったのかも分からないが、今そう言われて、何となく苛々した気持ちが静まっていくような気がした。
「あんた達の名前、つけてあげるよ。左から一郎、二郎、三郎、四郎、五郎、六郎でいいんじゃない?」
 六人は頷き、喜んでいるようだった。
『いいね! 日本人みたいな名前だね』
「そう言えば、あんた達はどこの国の人?」
六人はにやにやするだけで何も答えない。
『あんたに見えるそのままが真実だ』
 佑には、よく分らなかった。黒髪だし、アジア人に見える。言葉は発しなくても、直接意味が分かるから、日本人だと言われれば、そんな気もする。
「ここは、夢の世界? 現実じゃないの?」
『ここは、現実だよ。あんたが元いた世界と違って、イメージした事はすぐ具象化するけどね』
「具象化?」
『あんたがよく知っている世界とは次元が異なるけど、夢でも幻でもない。そういう意味では現実だ』
 佑は一番端の鼻が大きくて赤い男に声をかけた。
「一郎さん、俺の事、本当に知っているの?」
一郎は、顔をくしゃくしゃにして笑った。
『いいね! 名前を呼ばれるのは気分がいい。宇田佑、あんたは、探しに来たんだ。その石の本当の持ち主をね』
「石の本当の持ち主? 誰なんだ?」
一郎は肩を竦めた。
『宇田佑、忘れたのかい? でも、きっと思い出すよ。もっと真剣に会いたいって思えばね。少なくとも、石の持ち主は君を待っている』
 佑は唇を噛んだ。誰なんだ。石の持ち主。一体どこにいる。なぜ、一郎が知っていて、俺が忘れているんだ。聞きたい事がいっぱいありすぎて、言葉にならなかった。
 翌日、いつものように六人を送り出して、佑は掃除を始めるために箒を持ったものの、頭の中は石の持ち主の事ばかり考えた。
 誰なんだ?
 俺を待っているのは誰なんだ?
 急に、こんな事をしている場合じゃない気がして、佑は箒を放り出し、二階へ上がった。自分が最初に着ていたTシャツとGパンを取り出して、着がえた。今の体には何とも不格好な気がしたが、頭を振って、気をとり直す。急いでここから出なくてはいけないような気持ちになっていた。一郎も二郎も三郎も四郎も五郎も六郎も皆悪い奴には見えなかったが、このままここにいては動けなくなりそうだった。少し小さめではあるが、使い勝手のいい家と単調だけど平穏な日々。何も分からなくなった佑には、安心出来る毎日だったが、心の奥では、ずっと燻っている何かがあった。特に一郎から聞かされる自分の情報を聞く度に、心が揺れていた。
 俺は女じゃない。男だ。
 強く念じてみた。何故か、男に戻る事は出来なかった。がっかりしたが、佑はそのまま、家を出る事にした。皆に挨拶をしたかったが、今すぐに出なくてはいけない気がして、テーブルの席に着き、紙に簡単に書き置きを残す事にした。

 お世話になりました。もう行きます。どこに行くかも決めてないけれど、でも、一郎さん、二郎さん、三郎さん、四郎さん、五郎さん、六郎さんから教えてもらったことを参考にしてー

 そこまで書いた所で、何故か顎鬚だけ生やしている五郎だけが戻ってきた。佑は思わず、席を立った。
「五郎さん。あれ、まだ早い時間じゃ…」
『うん、宇田佑、大丈夫か?』
五郎が近づいてきた。
『何か嫌な予感がして、戻ったんだ』
 この世界では、何もかもがすぐ伝わってしまうのかもしれない。そう思って、佑は正直に話した。
「もう、行かないと。いつまでもここにいる訳にはいかない」
『思い出したのか? どこへ行けばいいか分かっているのか?』
 佑は頭を振った。
 五郎はしばらく黙っていた。
「…俺は、男に戻れないのかな」
『宇田佑、本当に戻りたいと思ったら、すぐに戻れるんだ。戻れないって事は、まだその時じゃないって事だ』
 佑は、もう一度強く念じてみたが、姿は変わらなかった。
「仕方ない。このままでもいい。でも、俺はもう行くよ」
『これを持っていけ。役に立つ事があるだろう』
 と言って、五郎はズボンのポケットから巻物のようなものを取り出して渡した。
『地図だ』
 佑は礼を言って受け取ると、すぐ、巻物を開いてみた。“木地”の他に五つの名前が並んでいた。
『この世界は、六つの地区に分かれている。次に佑はどこへ向かう?』

次回につづく

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